人はいないのに、夜のネオンだけが仰々しい。
世界で新型肺炎が猛威をふるう中、先日、ある映像がテレビに映し出された。新型肺炎の中心地となる中国・武漢。夜の町の様子である。なんでも、都市封鎖解除後の一番乗りだという。現地で取材していたのは、私と同じ年頃の女性記者だ。発生源と疑わしきあの市場へもガンガン歩いて、カバーの隙間から中の様子をうかがう。見ている私までもが緊張した。本当に、その勇ましさに脱帽する。
報道という仕事に就いたならば、我がコトよりも優先すべき事柄が幾つも増える。今回の新型肺炎なら、感染するかもしれない不安や恐怖。そんなネガティブな感情よりも、人々の知る権利を充足させ、取材を優先する。ある種の「使命」が、彼らにはあるのだろう。だから、不安や恐怖に立ち向かえるのかもしれない。
さて、危険な地域は、何も病気だけにとどまらない。例えば、自然災害や戦争。様々な危険と隣り合わせの場所で、決死の報道を行う。きっと、報道記者はマッチョで勇敢、そして、類まれなる崇高な精神を持つ専門職なのだと思ってしまう。
しかし、そんな予想を大きく覆してくれるのが、日清戦争の従軍記者である。
明治27(1894)年に勃発し、開国後、初めての対外的な戦争となった「日清戦争」。このとき、華々しく記者として日本を飛び出したのは、じつに意外な面々であった。
冒頭の写真の人物もそのうちの一人。
その名も、国木田独歩(くにきだどっぽ)。
はて?国木田独歩って……。どこかで聞いた名前だと思われる方が大半だろう。教科書には一般的に「小説家」として登場する人物だ。彼だけではない。あろうことか、芸術界でいうところのオールスターズの面々が、戦地へと渡っていった。
今回は、そんな彼らにスポットを当てたい。それでは、早速、日清戦争の従軍記者となった人々を紹介していこう。
当時の新聞業界の裏事情とは
従軍記者とは、どのようなイメージだろうか。同じミリタリーに身を包み、危険を顧みず進む感じ?
とにかく、あわや戦争に巻き込まれるくらいの切迫感を想像する。汗臭く、泥臭く。死をも覚悟して現地で取材する、ジャーナリズムの塊のような彼ら。
それでは、実際に、日清戦争に関する1枚の絵を見て頂こう。
大英図書館所蔵の作品である。タイトルは『大日本帝国万々歳成歓衝撃我軍大勝之図』。なんとも仰々しいネーミング。まあ、名前はさておき、こちら右下の部分をよく見て頂きたい。少し拡大したものだと、詳細な情報が確認できる。
……。
えっ?写生大会?
本気で二度見してしまった。集団の先頭にいる2人は、真面目に戦争の様子を写生している。何度見ても、あれだ。首からかけるやつ。小学校のときに野外で行った写生大会を思い出す。
それにしても、まあまあな緩さである。まず、いかんせん、従軍記者の格好がお洒落過ぎるだろう。当初の想像では、汗臭く、泥臭く。兵士の興味をひかずに、ひっそりと戦場の様子をレポートするイメージ。それなのに、真ん中の彼は、水玉のスカーフを巻いたハットときたもんだ。その後ろには、帽子にさした鳥の羽根みたいなものが風に吹かれてパタパタとなっている彼。全身、小綺麗なスーツを着て「諸新聞社特派員」という肩書だ。指さして興奮している様子。
もう、こうなれば、物見遊山である。
しかし、これには事情がある。
そもそも、当時の新聞は急速な拡大方向へと大きく舵を切らざるを得なかった。というのも、新政府樹立、文明開化と次々と新たな波が押し寄せ、至る所で「言論の自由」が叫ばれた世相だからだ。新聞各社は刺激的な見出しや数々のスクープで、読者獲得にしのぎを削っていたのだ。
そんな矢先の「戦争」である。言い方は悪いが、またとない大きなネタが転がってきたのだ。新聞各社は当然、色めき立った。国民に対していかに鮮烈な記事が提供できるか。その力の入れようは半端ないほど。ただ、戸惑いもある。なんせ、初の戦争となるため、従軍記者を派遣した経験がなかったのだ。どのような人材が適任なのか、手探りでやるしかない。
まず、軍との関係を考え、コネクションの有無が重視された。現場の指揮官クラスにツテがある人物。自ずと現場の情報は指揮官に集約されるため、張り付くことができれば特ダネもスクープ可能だ。とはいっても、なかなか、そんな条件該当者はゴロゴロいるものではない。
そこで、次に考え出されたのが、「専門技術」を持った人物。つまり、写生のプロ、文筆業のプロ。当時、芸術界にいた若き日の重鎮たち、「小説家」や「画家」に白羽の矢が立ったのである。
国木田独歩に、正岡子規?豪華すぎる記者の方々
それでは、実際にどのようなメンツが記者として戦地へ赴いたのか。
まず、誤解されがちなのは、この方。国木田独歩(くにきだどっぽ)である。代表作の浪漫的短編集『武蔵野』など、小説家としての肩書で説明されることが多い。しかし、じつはジャーナリストが彼の出発点である。
明治27(1894)年に徳富蘇峰(とくとみそほう)が主催する「国民新聞社」に入社。日清戦争の決定的な転換点となる威海衛(いかいえい)の戦いに、海軍の従軍記者として派遣されるのである。実際に日本海軍の軍艦に乗船し、戦況の報告を綴る日々。この内容は、日本に残っていた弟、収二(同じく新聞記者)への手紙という体裁で紙面に発表。その名も『愛弟通信(あいていつうしん)』。冒頭部分だけご紹介しよう。
「15サンチ敵弾の破丸一片を文鎮となして、西京丸の船房に此文を草す。三十六灘の潮路、今已(すで)に其半(そのなかば)を過ぎぬ。指してゆく先何處(いずこ)ぞや。知らず。知らずと雖も問ひもせず。微笑一番、窃(ひそ)かにうなずくところあれば也。いざいざ、心静かに昨夜よりの事、一つ二つを筆にまかして誌(しる)し、己(おの)が海事通信の端をこゝに開かんとす」
国木田独歩著『弟愛通信』より一部抜粋
当時はまだ「哲夫」と名乗っていた国木田独歩。しかし、この戦況報告のルポタージュによって、一躍ジャーナリストとして歩みだすことに。帰国後は詩や小説を発表し、自然主義の先駆けとなるのであった。
一方で、対照的なのがこちらの方。俳人・歌人の「正岡子規(まさおかしき)」である。
意外といえば意外だ。限られた字数で表現する俳句なのに?と疑問に思うだろう。どうやら、言葉に関係する仕事であれば、言い方は悪いがなんでもよかったようだ。新聞「日本」の記者として、開戦後8カ月経過した頃に派遣。近衛師団付きの従軍記者だったという。
しかし、間が悪い。その一言に尽きる。
じつは、遼東半島に到着の2日後、なんと下関条約が調印。戦争は終わったのだ。そのため、苦労して渡海したものの、実際の記者としての活動はできなかったのだとか。さらに、正岡子規は、帰国途中の船内で喀血(かっけつ)。もともと結核を患ってはいたが、この旅路で大きく病状が悪化し一時は重体に。その後、療養するも、床に伏す日が多くなる生活を余儀なくされるのであった。結果的に、以降の彼の人生は、病魔と闘いながらの創作活動となる。ある意味、彼も大きく人生が変わった一人だろう。
絵だって負けてられない!黒田清輝に浅井忠?
さて、「百聞は一見にしかず」といわれる通り、言葉だけでは足りない。報道には、まさしく視覚を満足させる「絵」が必要である。こうして画家たちも、日清戦争に駆り出され活躍した。
まずは、こちらの方から。日本近代洋画の巨匠と呼ばれた黒田清輝(くろだせいき)。うちわを持った女性(のちの夫人)が湖のほとりで涼んでいる様子を描いた『湖畔』。鴨川をバックに京都の舞妓を描いた『舞妓』などが代表作である。共に国の重要文化財となっている作品だ。
じつは、黒田清輝の従軍記者としての派遣は異色。というのも、日本ではなく、フランスの新聞社から派遣されたからだ。ちょうど10年もの間、フランスに留学していたこともあり、フランス語はペラペラ。そんな経歴が役に立ったのだろう。
黒田清輝は明治26(1893)年に日本に帰国。そして翌年に日清戦争勃発。フランスは、ドイツやロシアと共に、この日清戦争に大いに関心があった。眠れる獅子として有名な清国と日本が戦うワケなのだから。戦況を逐次把握し、いざとなれば口を挟む気でいたのだろう。実際に、フランスは「三国干渉」の当事者となることに。これも、黒田清輝が戦場画家として活躍した結果なのかもしれない。
次に、同じく洋画家の「浅井忠(あさいちゅう)」。国の重要文化財である「春畝(しゅんぽ)」などが有名だ。のどかな早春の麦畑を描いた作品である。
彼はイタリアの画家・ファンタネージに油彩画を学び、その独自の世界観を確立。そんな彼にどうして白羽の矢が立ったのか。なんでも画家修業のために、かつて中国を訪れたことがあるのだとか。この経歴が考慮され、戦場画家として派遣されることになったという。
こうしてみれば、明治時代の芸術家、知識人たちは、なにより好奇心が旺盛であった。中には、自ら「従軍記者」を志願した人もいたという。
それにしても、戦争という悲惨な現実の前で、彼らは一体何を悟ったというのだろうか。非常に気になるところである。それは、ただの「経験」として安易に分類されるものではない。自分の主軸、つまり、生き方や価値観そのものが変わった場合もある。
だからだろう。のちに、政治家となった者も多かったとか。日銀総裁・貴族院議員の深井英五もそのうちの一人。後に電通を創立した光永星郎など、事業を興す者も。バタフライエフェクトのように、「従軍記者としての自分」がその後の人生を大きく変えたといえる。
そして、現在。
私たちにも、そんな価値観のアップデートが、今まさに起ころうとしている。誰もが予測しなかった新型肺炎の世界的蔓延。これまでの常識や慣例がことごとく通じない。だからこそ、自分でも気付かなかった「真の自分」が顔を出すことも。
不要不急の外出自粛もあって、家にいることが増えることも。それこそ、考え方をぐるりと転換するときだ。
なかなか持てなかった「おうち時間」。
「自分」を棚卸しするいい機会かもしれない。
参考文献
『弟愛通信』 国木田独歩著 岩波書店 1990年3月
『教科書には載っていない!明治の日本』 熊谷充晃著 彩図社 2018年7月