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Culture
2022.02.12

日本の未来は進化した平安時代!?「デジタルインク」提唱者に聞く「書くこと」のこれから

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日本の未来と聞いて、どのようなものをイメージするだろうか。

機械翻訳技術が進化して世界がひとつになり、自動車の概念を覆す“飛ぶ車”が街じゅうを飛び交っている。また、人間に寄り添い、超高齢社会の担い手となって人間を支えてくれる、まさにドラえもんのようなロボットもきっと登場しているに違いない。

現代を生きる私たちからすれば、テクノロジーが発達した先の日本の未来は想像を絶する世界だと思う人もいるだろう。果たしてそうだろうか。意外と日本人にとって身近に感じられるもので、平安時代のような世界が繰り広げられているかもしれない。
つまり、進化した平安時代、それこそが日本の未来であって、そんな平安時代と未来を繋ぐキーワードは「創造性」だ。

平安時代と未来が繋がる?

私たちの生活を良くする文明の機器が次々と登場し、世の中は目まぐるしく変わろうとしている。例えば、このコロナ禍では勤務形態や医療などにリモート体制が本格導入された。それを機に技術の発展は一気に加速化されるとも考えられるなかで、今一度立ち止まって考えるべきは“伝統”の部分だ。

とりわけ日本文化のなかでその中核をなす「書」の部分は今後、デジタル化の時流に乗ってどのような変貌を遂げ、そしてその先進的な「書」をもってどのような創造的な世界が作り上げられていくのだろうか。

その疑問を晴らすべく、筆と墨と紙で文字を書くことを基本としない「デジタルインク」をもって社会変革に挑み続ける株式会社ワコムの井出信孝社長にお伺いした。

書と未来も繋がるイメージがないなあ

写真は株式会社ワコムの井出信孝社長。

「デジタルインク」は伝統とどう向き合っているのか?

筆と墨を使って達筆で仕上げるのが日本の書だ。ところが、筆も墨も使わない「デジタルインク」と聞いて、「え!?」と思った人も多いのではないだろうか。

さて、日本の歴史を軽く振り返ると、「書く」という行為は重要な意味を担ってきた。書と言えば芸術作品としての書を思い浮かべる人は少なくないだろうが、実は外交の道具としての一面もあり、明治時代までは朝鮮や中国との外交において筆談という手段がとられてきたのだ。

その方が確実に伝わりそう

–伝統を大切にしたいという人たちからすれば、「デジタルインク」は受け入れづらいところがあるとは思うのです。書の話からずれますが、明治の文明開化とともにこれまでのスタイルとは180度異なる西洋の文化が流入しました。それと同時に目立ったのが、芥川龍之介や川端康成といった明治時代を代表する文豪の死です。西洋の文化の流入と文豪の死は決して無関係ではなく、西洋との運命共同体であり続けることにもがき苦しんだ結果がその悲しい結末であったと捉える識者も少なくありません。したがって、新しいテクノロジーに直面するにあたり「伝統とどう立ち向かうべきか?」が重要な課題となってくるかとも思われますが、その点に関してどうお考えでしょうか。

井出社長:まず率直に言うと、弊社といたしましては基本的に伝統に立ち向かうというよりも、どのように対峙していくか、どんなふうに向き合っていくかという形で考えております。ワコムは「デジタルで書く」という手段を実現する道具を提供しているわけですが、伝統的な「書く」という行為や伝統的な書をデジタルで凌駕してやろうという視点は一切ございません。

これまでの伝統や書に対して頭(こうべ)を垂れると言いますか、つまりリスペクトの気持ちがあってこそのワコムの技術なので。したがって、「デジタルで書く」ということは、日本のこれまでの伝統の延長線に過ぎないと見ています。

元々筆で書いていたものが現代ではボールペンになったように、書くことの発展型ってこと?

「書く」という行為は、言霊を発現するプロセスである

井出社長:ワコムの技術の大きな特徴としては、言霊の視点を持っているということがひとつ言えます。

人間が長い年月のなかで脈々と活動してきたなかには言霊があります。ワコムの視点では「書く」という行為はむしろ、その言霊をどう発現し、どう表現するかであると思っています。ワコムの技術はまさにそういった言霊に寄り添うという理念に基づいています。これは「デジタルで書く」ということが伝統の延長線上にあるということとも繋がってきます。

デジタルになることでより言霊を表現しやすくなるのかも

三筆のひとりとして知られる空海が記した自筆の『能断金剛般若経』草稿本。空海は義浄が訳した『能断金剛般若経』を密教の立場から解釈した。-『空海筆 金剛般若経開題残巻(三十八行)』(奈良国立博物館所蔵/Colbase)

平安時代に日本が誇る最高傑作『源氏物語』が生まれたワケ

筆者が昨年末開催されたワコムの「コネクテッド・インク2021」でのセッション『“描く(書く)”とEdTech ~「創造と学びのキセキ」の可視化事例を通じて~』を視聴するなかで思ったことがある。そのセッションにおいて特に印象的であったのが数学者とジャズピアニストを結びつけていたことである。多くの人たちが考えるように、ジャズピアニストは非常に創作性に富んだ仕事だ。その点は数学に対しても当てはまるのだとか。

数学と言えば、はるか昔に偉い数学の学者が発見した定理に基づいて問題を解くものと考えている人も多いのではないだろうか。そんな人たちからすれば「え!?」と思うだろう。

人間の創造性に関して、アメリカの心理学者、ジョイ・ギルフォードは収束的思考と拡散的思考の2つが重要なカギを握ると説いている。収束的思考とは論理的に考えながら1つの最適解を導くこと、それに対し拡散的思考は固定観念に囚われることなく、新しい発想を自由かつ無数に生み出していくことを指す。

これを数学に当てはめて考えると、私たちのイメージにあるのは収束的思考のほうであって、一方の拡散的思考からは数学に秘められた自由に創り出す面白さが見出される。自分の捉え方を生み出すことこそがまさにアートであり、ここに「数学=アート」の構図が成り立つ。

この収束と拡散がセットになって進化していくのが人間だ。人間は20歳を過ぎた頃から脳細胞が減少し始めると言われているが、大人になるにつれて失われるのがこの拡散的思考である。ちなみに、大人の拡散的思考に対してテクノロジーベースで解決しようというのがワコムの視点だ。

本題の平安時代の話に移る。「平安時代になぜ高い創造性が発揮され、日本が誇る最高傑作『源氏物語』が生み出されたのか?」は、この収束と拡散の関係から説明することができる。

平安時代にはあらかじめ『万葉集』により敷かれたレール(=定理)が存在し、その定理に基づいて創作するということが行われた。一方で、『万葉集』と『源氏物語』の性質が全く異なることからも分かるように、そこには固定観念に囚われず、新しい発想を生み出していこうという拡散的思考が働いていた。こうして、収束と拡散がセットになって創造性が発揮された結果、『源氏物語』が生み出されるに至ったと考えることができる。

龍女書 源氏物語絵巻』-メトロポリタン美術館
『源氏物語』は両方の性質を兼ね備えているのですね!

主体的な学びによって平安文化が花開いた

ここで、日本の文字の歴史を軽く振り返るとしよう。まず朝鮮半島との交流の中で漢字が伝わり、それが万葉仮名となって定着し、その後平安時代に片仮名や平仮名が生まれた。

では、平安時代にこれらの仮名が誕生してから普及するまでの間にどのような経緯があったのだろうか。京都の藤原良相(ふじわらのよしあい)邸跡からは宴会などで使われたと思われる土器がたくさん出土している。現代の紙に相当するものがこの土器であったわけで、その土器には墨で平仮名が記されている。当時、漢字が公式的に使われる文字であったのに対し、平仮名は私的なやりとりに使われていた。奈良時代にも練習用に使われたと思われる木簡が多く出土しているが、その流れから考えると、練習やちょっとしたメモ書きに使用していたことが推察される。

平安時代においてなぜ高い創造性が発揮されたのかと言うと、そこには新たに生み出された仮名を積極的に使うという主体的な学びがあり、まさに書が平安文化を醸成した。そして、こうした主体的な学びがあったからこそ、『源氏物語』という日本が誇る最高傑作が生み出されるに至った。

「書くこと」の持つ力が少しわかりました

平安時代と未来は共通していた!日本の未来に『源氏物語』を超える文学は生まれるか?

平安時代からさらに時代を下り、戦後の教育体制に目を向けると、平安時代とは対照的に、受動的な学びが教育現場で強いられてきた。英語教育を例に挙げると、「グラマーや英単語のテキストをテストのために丸覚えしたものの、テストが終わるとすぐに忘れる」、そんな経験に身に覚えがあるという人は多いのではないだろうか。こうした経験は受動的な学びの結果の産物と思われる。もし長年学校現場で強いられてきた受動的な学びが良い作家が育たない、出版不況という今日の出版業界が抱える話とも繋がっているとすれば、看過できない事態である。

–デジタルインクの構想をもって想定される日本の未来とは、戦後の受動的な教育体制から脱却し、主体的な学びが促された先に実現され得る、まさに創造性の未来であるとは思うのです。もしかするとデジタルという武器によって新たな文字や文学が生まれることがあるかもしれません。この点においては、新たな文字が生まれ、主体的な学びがあり、新ジャンルの文学が勃興した平安時代と共通するものがあります。そんな日本の未来では、日本文学史上の最高傑作とも評される『源氏物語』を超えるものが生まれることも考えられますが、だとすればそれはどんな文学だと思いますか。

井出社長:主体的な学びというものをキーワードとして捉えるのであれば、学びの在り方が個に向いていくということがまず考えられます。集団的、半ば強制的、なおかつ一様な学びを集団で受け取るのではなく、個々の人間がそれぞれの興味と熱い思いで学びができるような探求型教育が最近のブームでもあるようですが、そういった個を掘り下げていくという面でワコムのデジタルインクは寄与していくことになるのではないかと思います。

実際、ワコムの技術では学びの軌跡を可視化したり、個の学びの特徴を抽出したりといったことができます。ワコムの技術によってベクトルが個に向くことで、より自分自身に向き合ったりだとか、あるいは自分と他人という関係性のなかで他人をさらに深い切り口から理解したりだとかいったことが可能になるかと思います。

もし平安時代に平仮名が出来て、そこに探求的な学びというものがあって、『源氏物語』が誕生したという背景があるとしたら、個に向いている現代ではさらに個を探求し、さらに自と他を掘り下げていく環境というのが出来上がって、文学との向き合い方に関しても深みが増してくるのではないでしょうか。その文学が『源氏物語』を超えるものであるかどうかは分からないですが、実際のところその後も色んな素晴しい文学が生まれているわけでして。とにかく何かしらの文化的な潮流が見られたら面白いなとは思っております。

日本における文学の歴史とこれから

一般に、日本文化は個人主義の西欧文化に対し、集団を重んじた文化であると考えられている。これが良いのか悪いのかは置いといて、「十七条の憲法」を作った聖徳太子の「和をもって貴しとなす」の精神が生き続けているためであろう。その流れを汲む形で誕生した『源氏物語』は概して規範性が高く、多様性を重視する現代の価値観とは対極的に位置づけられる。

その後の江戸時代には教訓よりも社会風刺を重んじた洒落本や滑稽本が流行。全体主義の型を破り、個に根差した文化が生まれた。明治の文明開化とともに、反面教師として江戸の体制が槍玉にがあがるなかで、文豪の坪内逍遥は十返舎一九の作品に見る笑いを低俗卑猥であると一蹴。『小説神髄』をもって近代文学の在り方を明確にする流れがあった。その後、同調圧力が国家ファシズム化した戦時体制があり、戦後のポストコロニアルの時代を経て今日に至る。

新型コロナウイルス感染症の患者が中国の武漢で初めて報告されてから2年以上が経過しても収束の目途が立たない状況が続いており、また別のウイルスによるパンデミックが数年単位で起こり得ることも考えられるなかで、従来のやり方が抜本的に見直されようとしている。新型コロナウイルス感染症の感染拡大が後押しし、最新テクノロジーによる社会変革は一気に進むことだろう。社会変革と言うと大げさに聞こえるかもしれない。これから起ころうとすることは、平安時代で喩えるならば、噴火や地震などの災害に見舞われていた平安時代初期に空海が諸外国の文化を取り入れ、立ち直しを図った、弘仁(こうにん)のモダニズムに相当する出来事なのだ。

そして、日本文化の殻を破り、決して遠くはないその未来に誕生している文学とは、貴族社会向けに高度に規範化され、閉ざされた側面を持つ『源氏物語』よりもむしろ、庶民文化が花咲いた江戸後期に登場したような文学に近い、いやそれをはるかに超えるものではないだろうか。少なくとも井出社長の言う個を探求するなかで見出される文学というのは、そういう江戸の文化の延長線上にあるのではないだろうか。

ところで、YouTuberが投稿するコンテンツのなかでもパロディー化されたもの(政治的な風刺を含む)は特にウケが良い。それはまさに自と他(を含めた社会)に関心を向けることで生み出される。もしかするとそういった類のものが具現化されるのかもしれない。

「アート」の定義は時代の変化や教育によって変わる

近年、AI技術の開発が進められるなかで注目を集めているのがビッグデータの活用である。総務省が平成25(2013)年に公開した情報通信白書によると、「ICTの進展に伴いビッグデータをリアルタイムで生成・収集・蓄積し、そのデータを分析することで、結果的に未来の予測や異変の察知などの領域における新事業の創出に繋がる」とされている。

さまざまな領域でのビッグデータの活用が期待されるなか、ワコムが目を付けたのが学習領域への応用だ。例えば数学の場合、従来の教育では「問題には必ず答えがある」という考えのもと、その答えを見出すために必要な定理を学校で教わり、問題を解くことに重点が置かれてきた。

そもそも正解を導き出すことだけが学びではない。「何をどう書いたのか?」を目に見える形で再現し、試行錯誤しながら乗り越えていく過程こそに価値があるとワコムの井出社長は言う。ワコムではそのような視点に立脚しつつ、時空を乗り越え、まるで時間軸が戻っていくような学びの振り返りを可能にすべく挑み続けている。

ワコムの製品を使って学習する様子。

どんなに偉い学者が素晴らしい理論を発表しても、世の中に存在するあらゆる事象・現象を説明し得るほどに万能なものではない。それゆえ今も尚、科学者による真実を求めた終わりなき戦いが続いている。そもそも物事には正解というものは存在しないのかもしれないが……。その意味では、ワコムが思い描く教育に対する構想は本来あるべき視点に立ったものと言える。

束縛から放たれた新たな教育スタイルの中でこそ人間の創造性が育まれるのであって。そこから生まれるアートがこれまでとは異質なものであり、また「アート」の定義も違ってくるであろうことは何となく予想できる。

ズバリ!未来の書の在り方とは?

–平安時代にせよ、未来にせよ、書というものの根本は変わらず、学びのための道具であるという点でも共通しているということが分かりました。従来の書では、例えば「ハネ」「トメ」といった手法がとられるところにまさに日本の美があり、そうした「造形的な美をもって表現された結果物=アート」として考えられてきたように思います。ともなれば、デジタルインクによって「アート」そのものの定義が変わるということも考えられますが、そもそも未来における「アート」の定義とは何でしょうか。

井出社長:基本的に、言霊を表現していくという本質は伝統的な書と変わらないと思います。言霊の発現の仕方、在り方というのはもっと多様になってくることが考えられます。「トメ」「ハネ」といった造形的な表現、アートという部分は今も昔も変わらず、造形的な結果物に至るまでの軌跡そのもの、つまりトメられる軌跡、ハネられる軌跡という要素がプラスされ、アートとしての書が創造されていくのではないでしょうか。

–それと、未来の書の在り方についてはどうお考えですか。

井出社長:未来の書においては、どれくらい迷いや確信を持って書いたかが重要になってくると思います。そういうニュアンスを伴った文脈そのものが完成された書と帯同し、並走していくような気もします。

ワコムとしては、完成された書だけではなく、トメやハネのニュアンス、迷い、確信が表れた言霊の軌跡をいかに可視化し、書と一緒に提示する、一緒に楽しむ、一緒に享受するということを大切にしておりまして。それによって、完成品である書に対する理解もより一層深まり、新しい表現だとか、またその表現に対する楽しみ方だとかが文化のレベルで湧き上がってくることになるでしょう。

もちろん、文化を創ってやろうとかそういう次元の話ではなく、人間の深遠に近づいていくという意味では、言霊の一端の可視化をもって完成された書を提示したり、あるいはそれを書いた人にフィードバックを送ったりすることがむしろ技術的な実験レベルの話ではなくなると思うわけです。「この書があってこの軌跡があるんだ」、逆に「この軌跡があってこの書があるんだ」というように、表現の新たな楽しみ方が創造される、そんな世界がまさに未来の日本ではないでしょうか。

「書」の未来、ワクワクしますね!

井出社長が述べた未来の書に対する考えは、前述の「数学=アート」の話とも繋がっている。筆者の脳裏にふと思い浮かんだのが、YouTubeチャンネル『予備校のノリで学ぶ「大学の数学・物理」』を運営する教育系YouTuberのヨビノリたくみさんが『中学数学からはじめる微分積分』のコンテンツ内で紹介していた大人になって数学を学ぶメリットであった。ヨビノリさんはそのコンテンツの中で

世の中の複雑な物事を抽象化して、キレイなものだけを寄せ集めたのが数学である

と述べているわけだが、確かに数学の本質とはそういうものなのかもしれない。しかしながら、「数学がキレイ、美しい」と感じるのは数学が得意な人のみに与えられる特権であるのも実情である。人が問題を解く過程にもフォーカスを当て、その過程を他人に共有することに主眼を置いた教育をもって初めて収束と拡散がセットとなって発揮され、数学の本質部分である創造性が見出される。その結果、「数学=アート」を楽しむ権利が万人に与えられるのではないだろうか。

株式会社ワコム

液晶ペンタブレットやペンタブレット、スタイラスペンなど、人間の「書く(描く)」に特化したデバイスを開発するIT企業。

「デジタルで書く」ということだけはGAFAにも負けないという強い拘りを持ちながら地球一を目指し、人間の創造性の可視化のために日々挑み続けている。

公式ウェブサイト:URL

あとがき

今回お話を伺うなかで筆者が個人的に気になったのは、木簡などの歴史的遺物の解析をサポートする取り組みだ。似たような事例がイスラエルの大学でも進められており、具体的にはAIアルゴリズムによる予測技術を活用しながら、粘土板上の消失した楔形文字を解析し、古代メソポタミアで話されていたとされるアッカド語を復元するというものなのだが。AIをはじめとするテクノロジーが日本文化の継承の面でどのような影響を与え得るかについては今後のテーマのひとつとなりそうだ。

書というと、紙と筆と墨を使って書く時代から始まったものと考えがちだ。歴史を遡ると、旧石器時代にも洞窟や石器に文字らしきものを書き記すという、まさに書の時代があったわけで。その点で人間の言霊というものを追求するワコムは伝統に寄り添う企業と言えるが、そういった人たちの言霊がワコムの技術を通じて可視化され、そこから新たな表現が生まれる可能性にも期待を寄せる筆者なのであった。

書いた人

1983年生まれ。愛媛県出身。ライター・翻訳者。大学在籍時には英米の文学や言語を通じて日本の文化を嗜み、大学院では言語学を専攻し、文学修士号を取得。実務翻訳や技術翻訳分野で経験を積むことうん十年。経済誌、法人向け雑誌などでAIやスマートシティ、宇宙について寄稿中。翻訳と言葉について考えるのが生業。お笑いファン。

この記事に合いの手する人

編集長から「先入観に支配された女」というリングネームをもらうくらい頭がかっちかち。頭だけじゃなく体も硬く、一番欲しいのは柔軟性。音声コンテンツ『日本文化はロックだぜ!ベイベ』『藝大アートプラザラヂオ』担当。ポテチと噛みごたえのあるグミが好きです。