Culture
2020.05.27

石田三成唯一の友「大谷吉継」黒いウワサの真相は? 辻斬り・小早川秀秋を呪殺?

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大谷吉継(おおたによしつぐ)といえば豊臣秀吉に仕えた武将で、白い頭巾を被った、石田三成のたった一人のお友達としても知られています。吉継は、関ヶ原の戦いで、勝ち目がないからやめておけと三成を説得しながらも、最終的には三成に力を貸して戦場に散った義に厚い人物ということで広く知られています。
しかし、その裏ではそんな吉継のイメージとは真逆の黒いウワサがヒソヒソと囁かれていたのをご存じでしょうか? そのウワサを調べてみると、現代の新型コロナウィルスとの共通点がわかりました。

吉継が三成を信頼するきっかけとなった出来事

まずはじめに三成の名誉のために付け加えておくと(笑)、三成は「愛」の文字の兜(かぶと)で大人気の直江兼続(なおえかねつぐ)とも親しくしていました。上杉景勝(うえすぎかげかつ)の重臣だった兼続と豊臣家を支えた三成は忠義に厚い人物として知られており、二人は「義」で結ばれた関係だったのでしょう。現実的ではありませんが、関ヶ原の戦いでは上杉と三成とで徳川を挟み撃ちする作戦があったのではないかという話も残っているくらいです。とはいえ、三成の親友といえば、関ヶ原の戦いで運命を共にした吉継を真っ先に思い浮かべる方が多いでしょう。

吉継と三成は同じ近江(現在の滋賀県)出身で年齢も近く、秀吉の家臣として同じ時間を過ごしていた同志です。二人に関しては有名な逸話が残っています。吉継は皮膚と神経を侵す慢性の感染症・らい病(ハンセン病)を患っており、顔に斑紋ができていたことなどから人々に避けられていました。今のように医学や医療が発達していない時代に、人々が感染症を恐れていたのは容易に想像がつきます。

吉継と三成が同じ茶会に参加した際に一杯のお茶を回し飲みするものの、吉継が口をつけた茶碗は感染を恐れて誰も飲みたがりません。ところが三成だけは何の躊躇もなく口をつけ「飲み干してしまったので、もう一服点てていただきたい」と言ったとか。

周囲の心無い反応に慣れている吉継も、このことには心を打たれ、三成の人間性を高く評価し信頼するきっかけになったのではないでしょうか。

大谷吉継はハッキリ言う性格?

「お前は人望がない」 吉継は、そうハッキリと三成に告げました。

自分ではわかっていても、人から言われると凹みますよね……。
真っ直ぐすぎて白黒ハッキリつけたがる三成の性格に、「付き合いにくいヤツ」と考えていた同僚も多かったと考えられます。「人望がない」という言葉は、三成の高潔さを評価し、信頼関係で結ばれた吉継だからこそ言えた言葉だったのでしょう。

秀吉に引き立ててもらった吉継ですが、秀吉没後は上手く立ち回り、家康との関係も良好だったようです。上杉征伐に際して出兵の準備をしていたのですが、このタイミングで三成が「家康を討つ」とまさかのカミングアウト。吉継は三成の人望のなさを指摘し、勝機がないということを伝え何度も説得を試みましたが、三成の決意は変わらず、最後には力を貸すことを決めたのです。
「お前は人望がない」からの「加勢はできん」ならば、ちょっと酷い言葉に感じますが、人望がないと言いつつも最後には味方になってくれる吉継。これは吉継個人の問題ではなく大谷家存続にも影響を及ぼす決断ですから、吉継の三成に対する信頼や友情がいかに強かったかがわかります。

ところが関ヶ原の戦いの西軍総大将は、豊臣政権の五大老のひとり、毛利輝元(もうりてるもと)となっています。言い出しっぺの三成が総大将と思いきや、なぜ輝元? そこには豊臣の家臣としての格※以外にも、吉継が「お前は人望がない」と言い放ったように、三成では人望がなく人が集まらないのではという裏事情もあったようです。

※ 輝元は五大老、かたや三成は “元” 五奉行

関ヶ原の戦い

この頃の吉継は病で目も見えなくなり、関ヶ原の戦いでは輿の上から指揮をとったとされています。裏切りを予測していたのか、三成と小早川秀秋(こばやかわひであき)の間に布陣。

三成の旗印「大一大万大吉」: “一人が万人のために、万人が一人のために力を尽くせば吉となり天下泰平が訪れる” という意味。今風に言うと “one for all all for one” です。

そして、小早川秀秋の裏切りをきっかけに西軍は総崩れ。敗戦が明らかになると吉継は「敵に首を渡すな」と言い残し家臣の湯浅五助(ゆあさごすけ)に介錯を頼み、その場で自刃しました。五助が吉継の首を埋めた場所は「大谷吉継の首塚」として残っています。

画像:長浜・米原を楽しむ観光サイト「大谷吉継の首塚」

大谷吉継にまつわる黒いウワサ

その生き様に感銘し、脇役キャラながらも一定数のファンを持つ吉継ですが、実は吉継にはその人間性にそぐわない黒いウワサがありました。「大坂の辻斬り犯」と「呪い殺し」です。

大坂の千人斬り

天正14(1586)年、大坂で辻斬りが多発。このとばっちりを受けたのが吉継でした。「悪瘡は千人の生き血を舐めれば治るという話だ」と、明らかに吉継を意識した悪意あるウワサを流す者もおり、これに三成が激怒。秀吉も懸賞金の高札をたてて下手人捜しに力を入れました。その後も辻斬りは続き、吉継の仕業だと吹聴する者に今度は秀吉が激怒……という始末。
結局吉継とは全く関係のない人物が犯人だったのですが、吉継が患っていた未知の病に対する嫌悪感や恐怖が、このウワサの本質だったのではないでしょうか。新型コロナウィルスに対峙する現代でもさまざまな差別が見られますが、共通したものを感じずにはおられません。吉継を貶めるこの根も葉もないウワサは、400年以上経った今考えると、本人の代わりに周囲が本気で怒ってくれるという吉継の人望や、有能さゆえに受けるやっかみを示す内容ととらえることができるでしょう。

裏切り者の小早川秀秋を呪い殺した!?

吉継には死後のウワサも存在します。関ヶ原の戦いで敗戦のきっかけとなった、裏切者の小早川秀秋を呪い殺したというものです。秀秋は21歳という若さで亡くなっています。一説では発狂とも伝えられていますが、どうもアルコール依存症が原因だったようです。もしかしたらそのアルコール依存も吉継の呪いを恐れてのことだったのかも。そう考えると結果的に吉継の呪いと言えないこともないのかもしれませんね。21歳の秀秋の死と呪いのウワサには、西軍を裏切った他の武将も青ざめたことでしょう。

吉継の霊に怯える小早川秀秋 月岡芳年 作『魁題百撰相 金吾中納言秀秋』
wikimedia commonsより

ただ、私なら裏切者の秀秋を呪い殺すかもしれませんが(笑)、吉継は性格的にそんなタイプではないような……。これも吉継が病のため顔を隠していたことで、何か得体のしれない恐怖が作用していたのかもしれません。ヨーロッパやインドでは古くかららい病(ハンセン病)は “呪い” だと考えられていたので、その影響が覗えないこともありません。今も昔も “目に見えない未知のもの” は恐ろしく、遠ざけたい気持ちが差別や偏見に繋がっているのだと考えられます。

現代のコロナと共通する差別意識

人類は進化してきたはずなのに、400年前も現代も未知の病に対する周囲の反応に進化がないということには驚きが隠せません。「家族に感染者がいるから、あの家の子とは遊んじゃダメ」、「あの店のオーナーはコロナだ」など、例を挙げるときりがありません。また海外では、流行の初期にアメリカで見られた「コロナはアジア人の病気」などといった根拠のないウワサも。
想像の範疇でしかなかった吉継の直面した偏見と差別。今まではサラッと読み流していた内容ですが、今回のコロナ騒動で、「あぁ、こういうことだったのか……」と身に染みて理解。コロナ禍の意外な副産物です。

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書いた人

生まれも育ちも大阪のコテコテ関西人です。ホテル・旅行・ハードルの低い和文化体験を中心にご紹介してまいります。普段は取材や旅行で飛び回っていますが、一番気持ちのいい季節に限って着物部屋に引きこもって大量の着物の虫干しに追われるという、ちょっぴり悲しい休日を過ごしております。