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2020.08.31

10分の1に期間短縮?豊臣秀吉主催、800人参加の大イベント北野天満宮大茶会の謎!

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ほんの少し前。コロナ禍での盆の帰省を巡って、あるSNSの投稿が話題を呼んだ。「帰省しないで欲しい」と真正面から頼めばいいものを。その婉曲すぎる表現に京都人の真意が分からないというのだ。

「京都は住みにくい」「京都人の言いたいことは分からない」。全国津々浦々からの苦情も、全て「京都あるある」の1つと片づけられる強引さ。ただ、京都人から言わせてもらえれば。その婉曲さが、そこはかとなくよい。これこそが、私たちの美徳なんだと信じていたりもする(私だけかもしれないのでご注意を)。

「京都は分かりづらいのう」
さて、あの人も、そう思ったのだろうか。
あの人とは、織田信長の夢を継いで実現した天下人、豊臣秀吉である。

しかしながら。
そんな不透明過ぎるベールに包まれた京都の地で、なんと、秀吉は多くの人を巻き込む大茶会を開催。それが、天正15(1587)年10月1日の「北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)」である。

どうして秀吉は、このような大茶会を開いたのか。

そして、もう1つの謎。
なぜ、10日間の予定のはずが、1日で終了したのか。

今回は、非常に謎多き、秀吉主宰の茶会に焦点を当てる。それでは、お茶を片手に。めくるめく「北野大茶湯」の魅惑の世界へご案内しよう。

じつは秀吉にとって3度目の大茶会だった?

天正15(1587)年10月1日。
京都の北野天満宮とその周辺一帯の松原で、大茶会が開催された。その名も「北野大茶湯」。主催者は、もちろん、この方。太閤・豊臣秀吉である。

豊臣秀吉像

じつは、この天正15(1587)年に、秀吉は九州平定を行っている。当時、九州で最も勢いのあった島津勢が秀吉に降伏したのは同年5月。また、京都に造営中の邸宅である聚楽第(じゅらくだい)が完成したのも同年9月。この2つの祝いを兼ねて、この「北野大茶湯」が開かれたと考えられている。

ちなみに、秀吉が開いた大きな茶会は、これで3度目。
思いのほか、それなりの頻度で、秀吉は茶会を催していたようだ。ただ、勝手きままにというワケではない。もちろん、その開催の裏側には、政治的意図が読み取れる。

そもそも、秀吉の天下人までの道のりは、決してラクなものではなかった。この時点では、未だ安泰とは言えず。道半ばというところだろうか。

天正10(1582)年6月に本能寺の変で織田信長が自刃。弔い合戦により明智光秀を倒し、次に織田信長筆頭家老の柴田勝家(しばたかついえ)をも自刃へと追い込む。こうして、信長の後継者争いに、秀吉はスタートダッシュをかまして、頭一つ抜け出すのである。その後は、信長の次男である織田信雄(のぶかつ)、徳川家康と対峙するも講和に。加えて臣従にまでこぎつける手際よさ。立ち止まらず、ただただ走り抜けたような印象だ。

そして、天正13(1585)年。ようやく秀吉は関白に。これを受け、同年10月7日に開かれたのが「禁中茶会(きんちゅうちゃかい)」。どうやら、天皇家や公家に対して、権勢の誇示を目的とした茶会であったようだ。さらに、翌年天正14(1586)年12月。今度は、太政大臣となる秀吉。これを受け、天正15(1587)年の正月に開かれたのが「大坂城茶会」。こちらは、武家家臣団に対する権力の誇示、そして統率の意味も込められていた。

さて。
それでは、今度の「北野大茶湯」は、どこに権力を誇示したかったのか。

北野天満宮

じつに、これまでの茶会と「北野大茶湯」を比べれば、一目瞭然。両者には、ある決定的な違いが存在する。それは、この「北野大茶湯」が、参加者を限定しなかったというコト。

つまり、1度目は天皇家・公家が参加、2度目は武家が参加。そうして3度目の大茶会は、なんと町人も百姓も参加できたというのである。秀吉の支配領域が、次第に広がっていく様がよく分かる。「北野大茶湯」は、庶民に対し権力を誇示するものだったと考えられる。

小瀬甫庵(おぜほあん)の『太閤記』には、北野大茶湯の開催を告げる高札が、同年8月2日に市中に立てられたと書かれている(原文には天正13年と記載されているが、天正15年の間違いと解釈されている)。その内容を一部抜粋しよう。

「来る十月朔日、北野松原において、茶湯を興行せしむべく候、貴賤に寄らず、貧富に拘らず、望(のぞみ)の面々来会せしめ一興を催すべく、美麗を禁じ、倹約を好み営み申すべく候」
(竹内順一ら著『秀吉の知略 北野大茶湯大検証』より一部抜粋)

ポイントは、「貴賤に寄らず、貧富に拘らず」という部分。身分や貧富は関係なく、誰でも望めば参加できるというのである。町人だって、百姓だって。秀吉主宰の茶会に行くことができるとは。さすが、太っ腹。庶民から出た天下人は違うと、誰もが思ったことだろう。

ああ、だから。なるほど。
そのため「美麗を禁じ、倹約」にて、ということなのだろうか。

様々な階層の者が参加するため、質素倹約な茶の湯を行うようにとのお達しなのかと、一瞬、納得しつつ。しかし、そこは派手さを好む豊臣秀吉。やはり、私たちの期待を裏切ることなく、サクッとかましてくれる。どうやら、豪奢な茶の湯を禁止したのには、他の理由があるというのだ。それが、高札の最後の部分で示されている。

「秀吉数十年も留め置きし諸道具かざり立て置くべきの条、望み次第見物すべきものなり」
(同上より一部抜粋)

単に、自分の茶道具を目立たせたいだけという驚きの理由である。

若き日の秀吉は、亡き主君、織田信長に目をかけられ出世する。挙げた武功に対して、信長から茶道具が下賜されたことも。その上、その茶道具を使って茶会を開くことも許されていた。そこから秀吉は天下人へとのし上がり、信長同様、「名物狩り」を実行。最上級の茶道具を蒐集したのである。

ちなみに、信長所持の茶道具の多くは本能寺の変で消失。そのため、秀吉所持の茶道具が、当代随一のコレクションになるのだろうか。これを広く世間に公開して見物させたい。そんな気持ちから、あえて自分以外の者には、質素倹約を求め、自身のコレクションを際立たせようとしたのである。

織田信長像

そんな秀吉の高札に対して、人々の反応はというと。『太閤記』によれば、京都、奈良、堺の茶人ら、特に質素な茶人である「わび数寄(すき)」らは、ありがたいと喜んだとか。加えて、京都の茶人たちは、なんとかここで秀吉に認められ、堺の茶人らに一泡吹かせてやろうと算段していたとも。

なお、高札の内容だが、残された書物によって諸説ある。この高札が立てられた範囲も、京都、奈良、堺の3ヵ所としているものもあれば、全国としているものも。なんなら高札は立てずに流布したというものまで。ただ、時期的にみて、未だ奥州(東北地方)、小田原(神奈川県)などの征伐がなされていない段階では、全国各地からの参加者を募ったと考えるのは難しいだろう。畿内での公示にとどまったと考えられる。

どうして10日間のはずが1日に?

さて、ここで、簡単に「茶の湯」を説明しておこう。
室町時代、村田珠光(じゅこう)により編み出された「侘茶(わびちゃ)」。「茶」に禅の精神を取り入れ、それが豪商や戦国大名らにもウケて爆発的な流行に。そんな村田珠光の後継者・竹野紹鴎(たけのじょうおう)に学んだのが、千利休(せんのりきゅう)であった。

秀吉に茶の湯を指導したのも、この千利休。そして、今回の「北野大茶湯」のプロデュースを手掛けたのも彼である。本来であれば、茶室や四畳半以下の小間で少人数の客を招いて茶を飲む侘茶だが。そんなお決まりの茶会ではなく、常識から外れた「茶会」を模索した。

その光景は圧巻。
当時の北野天満宮は、境内のみならず、その一帯に松の木が多く、「北野松原」と呼ばれていた。その松原に多くの茶席が出現。本格的な野外の大茶会。

室内ではなく屋外、その上、多くの人で賑わう茶会など、そうそうないだろう。どれほどの人数かというと、残念ながら確定はできない。残された資料には、数値に大きな差があり、京都吉田神社の祠官(しかん)であった吉田兼見(かねみ)の日記『兼見卿記(かねみきょうき)』では、803人。一方、奈良興福寺の多聞院の院主、英俊(えいしゅん)の日記『多聞院日記』では、1600人。倍ほど違う人数となる。

なお、当日の北野天満宮は見ごたえ十分。
参加者らは大木の下など、それぞれ趣向を凝らした茶席で「茶の湯」を楽しんだ。例えば、千利休らと親交のある茶人として有名な大和(奈良県)の塗師(ぬし)松屋3代目の松屋久政(ひさまさ)。彼の茶席は、ちょうど北野天満宮の大鳥居より北の石鳥居脇に設置され、松屋三名物の「鷺(さぎ)の絵」がかけられていたという。

豊臣秀吉も立ち寄ったのが「美濃(岐阜県)の一化(いっか)」の茶席。もともと秀吉とは旧知の間柄。設けた囲い茶室の脇で、松葉を燻(ふす)べており、煙が立ち上がっていたという。一化が点てた「こがし」を飲んだ秀吉は、上機嫌。「今日一番の冥加(みょうが)」と褒め、手にあった白い扇子をその場で与えたようだ。

また、京都の茶人の中では末席といわれる「ノ貫(へちかん)」。彼の茶席も秀吉に褒められている。なんでも、幅が1間半(約2.7メートル)、柄が七尺(約2.1メートル)の朱塗りの大傘を立てていたというのである。鮮やかな「赤」が陽光に照らされ、人目を引く。その茶席の見事さに、秀吉は諸役を免除したとの記録が残っている。

一方、今回の主役である秀吉はというと。
もちろん「黄金」。北野天満宮の拝殿の中央に、ご自慢の黄金の茶室を配した三席を設けて、諸道具40点を飾ったという。ちなみに、諸道具といっても、どれも名物道具となる恐れ多い展示である。

なお、秀吉より茶席の分担を命じられた3名の茶人。千利休、津田宗及(つだそうぎゅう)、今井宗久(いまいそうきゅう)らも、拝殿の四隅、もしくはその周辺に、茶席を設けて、秀吉と共に4茶席で対応した。

こうして、かなりの準備期間を費やして行われた「北野大茶湯」。
にもかかわらず、じつは、この茶会。10日間の予定のはずが、なんと1日で終了したというのである。この秀吉の謎めいた行動はどういうことか。その理由として様々な憶測が飛んだ。

まず、10日ではなく、もともと開催日程が1日だったのではとの疑い。これに対しては、博多商人の神屋宗湛(かみやそうたん)の日記が参考になる。宗湛は船旅で向かったが、残念ながら到着したのは10月8日。もう既に北野大茶湯は終わっていたところ。そんな宗湛に、秀吉は慰めの言葉をかけている。つまりは、10日間の予定であれば間に合ったものを、秀吉側の理由で1日に切り上げたから、慰めたと考えられるのだ。

では、どうして1日で終了したのか。
これには諸説ある。例えば、先ほどの『多聞院日記』では、北野大茶湯の開催直前に、平定した九州で一揆が起こったからと記されている。その対応に、武将たちが九州へと下向しなければならなかったというのである。

一方で、予想外に、秀吉が北野大茶湯で茶を点てることに疲れてしまったからと主張する説も。『兼見日記』によれば、8人1組でまとめられ、茶席に入ると籤(くじ)を引かされるのだとか。籤は4種類。1番籤は秀吉のお点前で茶が飲める。2番籤は利休、3番籤が宗及、4番籤が宗久。800人を4人でさばくと考えると、単純計算で1人当たり200人。段々と疲れてきて、馬鹿馬鹿しくなったのではないかとの見立てである。

ただ、どちらにせよ、九州で起こった一揆は想定内ともいえるし、疲れたのなら翌日より茶を点てなければいいだけのこと。こうなると、なんとも秀吉の単なる気まぐれではないのかと思わずにはいられない。

これに対して、京都人を試したのでは、との指摘もある。

なるほど。
じつは、堺や奈良の茶人は、多く参加していた北野大茶湯。秀吉は堺の茶人らとの繋がりが強い。実際に、秀吉と共に茶席を分担したのも堺衆の面々である。蓋を開ければ、開催地は京都であるにもかかわらず、京都の茶人らはメイン会場に呼ばれることはなかった。

しかし、である。
この仕掛けこそ、秀吉の「試金石」というのだ。

聚楽第の建築、京都大仏の造営など京都を盛り立てる政策を次々と展開していた秀吉。機が熟したところで、身分を超えて誰もが平等に茶の湯を楽しめる「北野大茶湯」を自ら開催。室町時代に栄華を誇った将軍家が衰退し、その代わりとして登場した織田信長の亡き今。更なる代わりとして「ワシが来たで」ってなもんだろうか。

ほれ、京都人よ。ワシええやろ? となるワケで。
ただ、そもそも緩和政策ばかりであれば、京都人が受け入れることなど当たり前。だからこそ、秀吉は、ちょっとした細工を施し、受け入れにくいシチュエーションをわざと設定したのである。それが、堺の茶人らをメイン会場に配置したコトだ。

それでも京都の人がわんさか来て。
京都の茶人らが盛り立てて。
そうか、そうか。京都の人は、ワシのコトえらい好きなんか、となる予定。

……だった。

しかし、実際はというと。
少ない見積もりで参加者は約800人。なんと1,000人以下という有様。初日でコレである。一般的には、初日に一番参加者が集中するはずだろうに。秀吉から見れば少なかったのかもしれない。「なんや、京都人め」てなコトに。

この1日で、秀吉は、京都人の心を察知したのだろうか。このまま続けたところで、おそらく参加者は減る一方。それなら、いっそ、この1日目で終了させてしまった方がよい。なんなら、京都人が行けばよかったと悔しがればよいではないか。そんな思いもあったのかもしれない。こうして、秀吉は急遽1日で、茶会を止めてしまったのである。

さて、この真相、未だ定かではない。
ただ、確かに、当時の秀吉は拠点を置く場所に迷いがあった。「大坂」とするか、「京都」とするか。そういう意味で、秀吉は「京都人」そして「京都の地」を、この北野大茶湯で試したともいえるのだろう。

果たして、秀吉の胸の内はいかなるものか。

ただ、生粋の京都っ子(今は北陸ですが)から言わせてもらえれば。
私も、私の姉も母もそうだが。京都の人は、おそらく「外の目」を非常に気にするタチである。体裁や見栄えを、ことのほか重視するきらいがある。だからこそ、列に並んだり、一番乗りなど、自分の気持ちが溢れ出るような行為は、あまり好きではない。ようは、気持ちとはうらはら。逆の行動へと走る傾向にある。

「本音」と「建前」を器用に使い分ける京都人。
それは、胸の内をなかなか見せないのと同じコト。興味のあるものでも、歯を食いしばって我慢する。そうして、少し時間が経過してから。あまり興味がないような顔で、さも暇つぶしくらいの余裕を持って。中盤くらいで参加するのである。そう考えれば、京都人が初っ端から、皆が皆参加すると想定する方が間違っている。京都人の本領発揮は、中盤あたりからなのである。

豊臣秀吉にモノ申せるのなら。
試すのであれば、その判断基準も「京都基準」で見極めてもらいたい。

ただ。
そんな面倒くさい土地柄はイヤだろうに、と思わずにいられない。

結果論として。
大坂を拠点とした方が、秀吉の性格には合っていたのでは?
そんな気がしてならない。

(※あくまで京都人への感想は、個人の意見となります)

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参考文献
『秀吉の知略 北野大茶湯大検証』 竹内順一ら著 淡交社 2009年6月
『神社で読み解く日本史の謎』 河合敦著 株式会社PHP研究所 2015年6月
『秀吉の虚像と実像』 堀新ら著 笠間書院 2016年7月