ビールの季節がやってきます! 一年中いつ飲んでも美味しいビールですが、その輝きが一層増すのはやはり夏。缶や瓶を開ける瞬間の小気味の良い音。グラスの中をトクトクと満たしていく美しい液体、そしてそれに覆いかぶさるように生まれるなめらかな泡……その佇まいを想像するだけで「夏」を連想する人も多いのではないでしょうか。
夏を表す季語としても使われるビールは、いまや日本人の生活の中に深く入り込んだ飲み物。でもこのビール、いったいいつから日本にあるのでしょうか。
初めてビールを造ったのは、蘭学者だった!
ビールが日本人によってはじめて醸造されたのは江戸時代末期。ペリーが浦賀に来航した数か月後に一人の蘭学者によって生み出されました。その男の名は川本幸民。数々の業績から「日本化学の祖」と呼ばれる人物です。
幸民は黒船の来航に驚き、怯える人々に対し「臆することなかれ!彼らが持参したビールなる酒なんて簡単につくれる」そんなメッセージを示すためにビール造りに挑戦したと言われています。ペリーによって幕府に献上されたビールを口にし、それからわずか数か月程度でビール造りに成功した川本幸民。「ビール」という酒の概念がなかった時代に、どのようにして醸造したのか。そして川本幸民はどのような人物で、出来上がったビールはどのような味わいなのか……気になりますよね!
その謎を解くカギは「幸民麦酒」というビールにありました。川本幸民の残した「化学新書」をもとに、日本で最初に造られたビールを再現したものです。
「幕末のビールとは一体どんなものなのか」
そう思いながらグラスに注いでいくと透明感のある銅色の液体で、なんとも滑らかで豊かな泡立ち。口に含むと少し酸味を感じる飲み口で、一瞬の間をおいて麦のふくよかであまみのある味わいと柔らかな苦みがふわりと広がります。どことなく日本酒を思わせるような、スッキリとしたでも飲みごたえのあるビール。
「こんな美味しいものを、幕末にたった数か月で造りあげることができたなんて!」
そんな衝撃をうけつつやはり気になるのは、その醸造過程のこと。原材料はどうしていたのだろう、どのような道具を使い、どのような方法で造っていたのだろう?そんな謎を探るべく、「幸民麦酒」を醸造している兵庫県伊丹市のブルワリー「小西酒造」の辻󠄀 巖さん(以下辻󠄀さん)にお話をお伺いしました。
数々の顔を持つ、酒飲み川本幸民とは
–まずは川本幸民のビールを再現したという「幸民麦酒」を造ろうと思ったきっかけを教えてください
辻󠄀さん:川本幸民生誕の地である兵庫県三田市から「幸民生誕150周年式典」を実施するので、彼の造ったであろうビールを再現してほしい、という依頼をいただいたのがきっかけです。醸造するにあたり、当時の醸造方法や味わい、そして川本幸民についても徹底的に調べました。
–人物像についても調べたのですね
辻󠄀さん:そうですね。「造り手」によってその酒の味わいは変わります。川本幸民が造ったであろうビールの味を予想するために、川本幸民について書かれている文献を読み漁りました。
–川本幸民とはどのような人物なのでしょうか
辻󠄀さん:兵庫県三田市で生まれ、江戸で蘭学と医学を学んだ川本幸民は、蘭学者として当時最先端であった数々の西洋の書物を翻訳。そして自ら翻訳した本を元に、実験を行い実証を行っていました。
日本ではじめてマッチや銀板写真を試作したり、「化学」や「蛋白質」などという言葉も川本幸民が生み出したものです。教科書の歴史上はあまり耳にしない人物ですが、「日本化学の祖」として化学の教科書の表紙になっていてもおかしくない業績を持った人物だと思います。
性格はといえば、負けず嫌いで完璧主義者。そして酒をこよなく愛し、大酒飲みという一面も持っていたと言われています。酒好きだからこそ知っていたであろう知識があるはずで、完璧主義者だからこそ妥協しなかったであろう点などがあるはず。これらのことを幕末のビールを再現する上でのヒントにしました。
鎖国下における海外からの原材料輸入
ビールの原材料は麦芽、ホップ、酵母、そして水。現代のビール造りにおいても、それらの多くは海外からの輸入品です。川本幸民がビールを醸造しようとしたのは江戸時代末期。当たり前ですがビールの原材料が市場に出回り、手軽に手に入るような時代ではありません。江戸時代において麦といえば「六条大麦」でしたし(ビールに使用するのは二条大麦であり、六条大麦を使用すると渋みなどが出てしまう)ホップなどというものは存在すら知られていませんでした。
酵母もまた然り。とにかくビール造りに詳しい人が仮に江戸時代にタイムスリップしたとしても、なにもかにもないので、すぐにお手上げになってしまう状況です。
では川本幸民は各原材料をどのようにして揃えたのでしょうか。
–ビールに苦みや香りをつけ、ビールを腐りにくくするという重要な役割を持つ植物、ホップ。日本で初めて野生のホップ(カラハナソウ)が発見されたのは、明治4年(1871年)北海道岩内市においてですが、幸民はどのようにしてホップを入手したと考えますか?
辻󠄀さん:一説によれば、川本幸民はこのカラハナソウを使用してビールを醸造したと言われています。しかしわたしはその可能性は低いのではないかと考えました。なぜならば明治期の記録として、カラハナソウで造ったビールが「苦みのないまずいものであった」という記述が残っているから。
ホップは受粉によって苦み成分が弱まってしまうので、雄株と雌株が混在している野生ホップでは苦みが十分にでないんですね。それ故、野生ホップを使用してビールを醸造したとしてもビールの肝である苦みのない液体になってしまうんです。「負けず嫌いで完璧主義者」である川本幸民は、黒船来航によって口にしたビールを確実に再現しようとしたはずで、苦みのないまずいビールを造ったはずはないと考えました。
–ペリーによってもたらされたビールは、どのような味わいだったと思いますか
辻󠄀さん:おそらくしっかりと苦みが強いものだったと思います。ビアスタイルでいえばペールエールですね。
長い時間がかかる船旅に耐えられるよう、防腐効果があるホップをふんだんに使用していたと思います。そしてそれを再現しようとした川本幸民のビールは、「苦み」を重視したものであったはずなんです。
–では一体どのようにホップを入手したのでしょうか
辻󠄀さん:おそらくですが、蘭学者であり医師であった川本幸民は薬や蘭書と一緒に、海外からホップを入手していたと思います。当時麦芽も日本にはなかったので、ホップと麦芽両方を海外から、それも「黒船来航から数か月で醸造をした」という期間の短さから考え、おそらく清あたりから輸入したものを使用したのではと考えております。
–酵母も同じく輸入したものだったのでしょうか
辻󠄀さん:当時の移動手段は船であり、数か月という時間をかけて生きた酵母を運ぶことは至難の業です。ですので酵母に関しては日本酒造りに用いられる「清酒酵母(酛 もと)」を使用した可能性が高いと思います。川本幸民は、自身が翻訳した文献の中でギスト(イースト)と発酵について説明しているのですが、江戸時代において発酵の過程を理解してるということは本当に驚くべきことだと思います。
竈(かまど)と酒樽(さかだる)で挑戦したビール造り
–材料についてイメージができました!ビールは銀色に輝くタンクで造ってるイメージなのですが、江戸時代においてはどのような道具を使用して醸造していたのでしょうか
辻󠄀さん:自宅に造った竈(かまど)、そして酒樽や酒つぼを利用してビールを造っていたと考えられています。実は川本幸民がビールを醸造した場所の近くに、我が小西酒造(清酒白雪)の江戸店(江戸支店のようなもの)があったんです。当時江戸店の店先には酒樽がごろごろと転がっていたでしょうし、酒造りの道具は比較的容易に手に入ったと思われます。
–竈(かまど)で麦汁を造り、酒樽などで発酵を進めたということですね
辻󠄀さん:そうですね。酒飲みである川本幸民なので、日本酒造りに関する知識を総動員してビールという新しい酒を醸したのだと思います。ちなみに麦汁を造る過程でろ過をする必要があるのですが、その際には日本酒を濾す際に使う酒袋(麻布)を使用していたと考えられます。
絹や木綿だと細かすぎる。麻だとちょうどいい具合に麦汁と不要物をわけることができるんです。
–酒樽で醸造したら、炭酸などは抜けていってしまわないのでしょうか
辻󠄀さん:残された文献によると、幸民のビールは1~2日で一気に発酵をさせています。発酵し終わってすぐは炭酸が溶け込んだ状態なので、強い炭酸感はないにせよ、自然発酵をしている現在のクラフトビール程度の炭酸はあったはずです。
「臆することなかれ! 彼らが持参したビールなる酒なんて簡単につくれる」そんなメッセージを示すための挑戦であったこと、川本幸民の完璧主義で負けず嫌いな性格、そしてビール完成後に試飲会まで開いたということを考えると、彼の造った日本人初のビールはかなりレベルの高い美味しいものだったと思います。
ビールを再現する過程で、歴史の1ページを紐解いた!
–川本幸民の造ったビールを再現する上で苦労したことはなんでしょうか
辻󠄀さん:やはり川本幸民という人物、そして彼が造ったビールについて調べることが一番大変でした。川本幸民がその業績に対し歴史的にあまり知られていないのは、3度にわたる火事、そして関東大震災によって書籍や記録が消失してしまっているからなんです。度重なる火事によって都度引っ越しているので、ビールを醸造した場所もわからないような状況でした。
わたしはとにかく川本幸民について知るべく、彼に関する様々な文献を読み、東京に住む川本幸民の玄孫(やしゃご)にも会いに行きました。そのようにビール造りのために川本幸民について研究をしていると、なんといままで歴史上解明されていなかった「幸民がビールを醸造した場所」にたどり着くことができたんです。
–それは一体どうやってわかったのでしょうか!?
辻󠄀さん:俗説では川本幸民がビールを造った場所は「露月町(いまの新橋あたり)」とされていました。しかし川本幸民の弟子である村上宏五郎が1849年に母親に書いた手紙の中に、「茅場町の川本幸民宅に厄介 になる」という一文を発見したのです。
川本幸民は茅場町に住んでいた! そしてそこでビールを醸造していた!
その事実を確かにするために、わたしは江戸東京博物館や国会図書館など様々な場所で文献を調べましたが、そのような史実は出てきません……苦戦を強いられる中、その事実にたどり着くことができたのは、大阪府立図書館に保管されていた茅場町の古地図。その地図にはしっかりと「川本幸民」と名前が記載されていました。
そしてそれはなんと、わたしたちの白雪江戸店があった場所から100mも離れていなかったのです。とても不思議な縁を感じました。
–ビールを造るための情報を集めていたら、歴史の1ページを紐解いてしまったのですね!
辻󠄀さん:そうですね。当時は話題になり新聞などにも取り上げていただきました。こうして集めた川本幸民なる人物の性格、醸造した場所、原材料、使用した道具といった情報を元に当時のビールを再現しました。
ビールを通じてその時代を人物を想う
約170年という時を経て、川本幸民の残した「化学新書」をもとに醸造された幸民麦酒。幸民麦酒は小西酒造の定番ビールのひとつとして多くの人に「幕末の味」を伝え続けています。
最後に小西酒造の辻󠄀さんはこう語ってくれました。
「日本初のビールがどのようなものであったか。それを造ったのが誰で、どのような味わいであったのかを広く世間の人に知ってもらいたいと思っております。またこのビールを飲むことで、川本幸民なる人物に興味を持ち、知識を深めてほしいです」
一本のビールを通じてその時代と人物を想う
様々な歴史背景を知り口にする「幸民麦酒」は、また違った味わいがするような気がします。
ビールから透けて見えてくる川本幸民なる人物の生き様と、当時の時代背景。
一杯のビールは雄弁に様々なことをわたしたちに語り掛けてくれるのです。
暑い日の夕暮れ。ゴクゴクと喉を鳴らし一気に飲み下すビールもよいですが、グラスの中の一杯ととことん向かい合うのも、ビールの最高の楽しみ方なのです。