「原三溪(はら・さんけい)」という数寄者を知っていますか?
みなとみらいにある横浜美術館で、7月13日(土)から「横浜美術館開館30周年記念 生誕150・没後80年記念 原三溪の美術 伝説の大コレクション」展がはじまりました。
原三溪は、近代日本美術、茶の湯の世界において、その名を轟かせている偉大なコレクターのひとりです。三溪を知らなくても、本牧にある見事な日本庭園「三渓園」はご存じの方がいるかもしれません。ここは、もともと原三溪の自邸でした。
現在の国宝や重要文化財のなかには、三溪の旧蔵品が多く含まれています。そんな三溪の珠玉のコレクションが、これほどの規模で集結するのは史上初!!!
展覧会では、原三溪を「コレクター三溪」「茶人三溪」「アーティスト三溪」「パトロン三溪」という4分野にわけ、ゆかりの美術品を通じて彼の全貌に迫るという構成をとっています。
そこで、和樂webを代表して、わたくし植田が「すごく迷うけれど、コレだけは絶対観るべし!三溪翁の至高の逸品」を考えてみることにしました。先述の各パート(「コレクター」「茶人」「アーティスト」「パトロン」)から1点ずつ推薦したいと思います。
『和樂』の茶の湯記事を担当しているわたくし植田としては、少し「茶人三溪」パートの比重が増えてしまうかもしれません。
原三溪の審美眼は天下一品なので、全作品からたった4つしか選べないのは、もう涙滂沱として禁ぜず……。その分、作品解説に力が入っておりますが、どうか皆さま、この暑苦しさをお許しください!
それでは、おすすめの4作品紹介の前に、三溪のプロフィールと、その当時の文化背景を少しだけさらっておきましょう。
さあ、はじめますよー!
原三溪とは何者なのか? 当時はどんな世の中だったのか?
原三溪(本名・原富太郎)は、明治・大正・昭和初期にかけて、横浜の大生糸商として活躍した剛腕の実業家です。
三溪は、明治元(1868)年に岐阜県の豪農の長男として誕生。祖父と伯父が南画家という絵画が身近にある家に育ち、芸術に親しんできました。
17歳で東京専門学校(現・早稲田大学)に入学後、跡見学園の創立者であり、書家でもある跡見花蹊(あとみかけい)を通じて横浜の生糸商である原善三郎の孫・やすと結婚し、原家の婿養子に。原家は、その当時横浜で主要貿易品の生糸を扱っていた有力5家のうちのひとつでした。
そのころの社会はどんな状況だったかといえば、ご存じのとおり、明治は近代化に向けてガラリと大変革を遂げようとした時代です。初期から20年くらいまでは鹿鳴館の時代ですから、着るものからすべて西洋的なものを取り入れてきたわけですね。
寺院では廃仏毀釈によって伝来の寺宝が次々手放され、伝統芸能においては大名から扶持(ふち)をもらって生活していた能楽師や茶の家元が困窮を極めます。アッパークラスの大名家は没落し、彼らの蔵からたくさんの名物も売りに出されるようになるのです。
そんな時代、大名に変わって社会の主役となっていくのが、商才を発揮した実業家たちでした。
三溪は、義理の祖父善三郎の没後、会社を改組し、海外出店や富岡製糸場を三井家から譲り受け発展させるなどして、実業家として頭角を現していきます。
「コレクター三溪」パートのオススメはこれ!
そして35歳のとき、前蔵相の井上馨(かおる)から、平安時代の仏画の傑作《孔雀明王像》を破格の1万円で購入。定かではありませんが、1万円というのは、今でいうところのおよそ数千万から1億円ほどの規模になるかもしれません。この話題は新聞にも載り、若き三溪は不世出のコレクターとして一躍その名を知られるようになりました。
まず1品目、「コレクター三溪」を代表する作品は、この《孔雀明王像》をおいて他にないでしょう。
孔雀明王は、毒蛇を食べ、その毒を甘露としてしまう孔雀を神格化した像。4本の手にザクロ、孔雀の羽根、蓮華、倶縁果またはレモンのような果実といった呪術的意味があるモチーフをもち、その描線はふくよかで精緻美麗。平安後期の仏画を代表する傑作中の傑作で、のちに国宝に指定されました。
他にも、三溪の目利きぶりを示す作品が。
下写真の狩野永徳の作品《松に叭叭鳥(ははちょう)・柳に白鷺図(しろさぎず)》は、もともと永徳の祖父・狩野元信の作品だといわれてきました。しかし、三溪はこれを観て、永徳筆だと断言したそう。この作品が、数少ない永徳真筆の屏風だと認められたのが平成20年のことです。三溪はこの作品に出会った当時に、すでに永徳だと見抜いていました。
近代茶道の主役に躍り出た数寄者たち
さて、三溪のコレクションは、祖父伯父が南画家だったこともあり、最初は南画とゆかりの深い煎茶趣味の美術品からスタートしますが、《孔雀明王像》購入以降、古書画の収集に熱が入り、仏教美術、琳派作品へと広がっていきます。そして、三溪は茶の湯の世界へ足を踏み入れていくことになりました。
明治30年代ごろになると、急速に近代化が進んだ社会のなかに、伝統的な日本に対する興味が戻ってきます。外国文化を輸入していると、今度は伝統文化とは一体何か、自分たちが依拠するものとは一体何か……たとえば相撲や歌舞伎や能楽、そしてお茶といったナショナルな文化につながる揺り戻しの時代がやってきました。そうした近代茶道界の主役に躍り出たのが、財界人や実業家、高官などの数寄者たちです。
彼らニューカマーの人たちは、茶の家元や宗匠のように茶道を本業とする人とは別の立場で、それまでの茶道では手がつけられていなかった、あらたな美意識の文脈を見出していきます。
具体的にいうと、茶道の世界に「日本美術」をイントロデュースしていったのでした。
江戸時代の茶道具は、実用に即した、厳格なルールのなかにある純粋な道具。茶席以外での存在意義はほぼありません。
しかし豊かな財力をもつ数寄者たちは、生活芸術が結実した茶席という構図のなかに日本美術の名品を置き、懐石や点前といった洗練された日本美の型のなかで、「美術鑑賞」をおこなったのです。
その数寄者の代表的な人物のひとりが、原三溪です。三溪より前の第一世代には、先述の井上馨がいました。そして三溪と同時代の数寄者として最も有名なのが、三井財閥を大成した旧三井物産の社長・益田鈍翁(どんのう 本名・益田孝)です。鈍翁は三溪より20歳ほど上で、三溪にとって兄のような存在だったといえるでしょう。
実業家たちがお茶をするようになったのは、この益田鈍翁がきっかけだといわれています。もともと鈍翁は、弟の克徳(かつのり)がお茶をやっていたので、その影響ではじめたらしいといわれていますが、鈍翁の大きな功績としては「大師会(だいしかい)」というお茶会のスタートがあげられるでしょう。
大師会は、弘法大師の《坐右銘》の書を手に入れた鈍翁が、それを披露するために催した大茶会でした。
(大師会は現在も続いていて、日本を代表する茶道具商や茶の美術館が席主を務める。「東の大師会、西の光悦会」と称されており、茶道具の傑作、名品が観られることでも有名)
当時、大師会は絶大な人気。益田鈍翁のバックにいたのが、政界のボス・井上馨で、ふたりとも政財界の大立て者ですから、彼らを取り巻く社交の場として、お茶をたしなむ財界人が頻出していったのです。鈍翁と三溪、「電力の鬼」とよばれた松永耳庵(じあん 本名・松永安左エ門)。この3人こそが、コレクションした美術品のレベルといい、人間のスケールといい、最も数寄者らしい数寄者といってよいかもしれません。
「茶人三溪」パートのオススメはこれ!
数寄者についての前置きが、少し長くなってしまいました。レビューに戻りましょう。
展覧会会場の「茶人三溪」パートに進むと、彼が手に入れたさまざまな茶道具が展示されています。そのなかで個人的に特に注目したのは、茶人パート陳列のトップに飾られている、源実朝の《日課観音(にっかかんのん)》と《井戸茶碗 銘 君不知(きみしらず)》です。
この2つの作品は、「茶人三溪」を体現する取り合わせだと思います。というのも、この茶道具には知られざる物語があるからなんですね。それをちょっとお話ししたいと思います。
三溪は69歳のときに、脳溢血で長男の善一郎を亡くしてしまうんですね。昭和12(1937)年8月6日、善一郎49歳でした。彼はコロンビア大学卒で、和辻哲郎の『古寺巡礼』にZ君として登場するなど、三溪の教養見識を受け継いだ嫡男で、三溪の悲しみはいかばかりであったか、察するにあまりあるものがあります。
約1週間後に、三溪は善一郎を追善する目的で「浄土飯供養会」の茶事をおこないました。
その茶事の薄茶席に掛けられたのが、この《日課観音》です。ちなみに、なぜ観音という言葉に「日課」とつくのかといえば、これは源実朝が毎日「日課」として描いた写仏画の一枚だからなんですね。
世の中が安定していなかった戦国時代、戦さの死者を供養するとともに、血なまぐさい合戦や謀略に明け暮れる自身の救済のために、日々、観音や地蔵像を描くことを日課とした武士や為政者たちがいました。
心の平静や修行の一環で毎日仏様を描いているため、日課観音の特徴としては、描線に迷いがなく、清澄な趣致をもつ作品が多い印象を私はもっています。まさに実朝の《日課観音》も、そうした面を強く感じるものでした。
軽やかでありながら純粋。内の祈りがダイレクトに伝わってきて、グッと胸がつまります。善一郎をしのぶ「浄土飯」の茶事について少し知っていると、なおさらかもしれません。
茶道具は主人の心を代弁する
哲学者の谷川徹三は『茶の美』(昭和51年 淡交社刊)という本のなかで、「私には忘れることのできない茶会がある」と、三溪の浄土飯の茶事の取り合わせに触れていました。
懐石は、溜塗の飯器に蓮の葉と紅蓮の花弁を敷き、花弁のなかに炊きたての白飯を盛りつけ、各自それを飯碗にとって蓮の実のスープをかけるという趣向。向付(むこうづけ)は大徳寺納豆。
濃茶席は南宋時代の僧・断溪妙用(だんけいみょうよう)の墨跡。次の間には後醍醐天皇の第1皇子遺愛の琵琶・銘「面影」、そして薄茶席の床には、この源実朝の《日課観音》。
そして谷川は次のように記しています。
「三溪先生は静かに談笑せられて、その面貌(めんぼう)挙措(きょそ)毫(すこし)も平生と異なるところないのであるが、実はその一週日前に、先生は令嗣(れいし)善一郎さんを失っていられたので、その日の茶会はその追善の心をこめられたものだったのである。先生はそれを一言も口にせられない。
ただその『浄土飯』によって、墨跡の詩意によって、飾りの琵琶の銘によって、床の一軸の画像とその像を描いた人の誰もが知る運命によって、その心中を無言のうちに語られたのである」
その「浄土飯」茶事で、薄茶の主茶碗に使われたのが、《日課観音》と一緒に陳列してある《井戸茶碗 銘 君不知》です。とても小ぶりな茶碗です。ろくろ目がゆったりとまわり、一部光沢のある灰青色の釉薬の流れが、君不知(鷹の両翼の裏の羽根模様)に似ていることから、この銘がつけられたのだそう。
こちらは、元は銀閣寺の什器(じゅうき)。そして雲州蔵帳(うんしゅうくらちょう)記載なので、松江の数寄大名、松平不昧(ふまい)公の愛玩品という歴史もあります。
銘「君不知」の語感も味わい深いですよね。もう息子と会えない三溪に重なると、茶碗という器物の世界をこえて、感情が堰を切ったようにあふれ、せつなくなります。茶道具のこういうところが面白いんですよね。
茶人三溪のパートの私のおすすめ作品は他にもありますが……見逃せないのは、こちらの《日課観音》と《井戸茶碗 銘 君不知》です。どうか皆さんも、じっくり味わってみてください。
(長文になりましたので、前後編に分け、後編に「アーティスト三溪」「パトロン三溪」のオススメ作品の続きをお話しします)
後編→押忍!原三渓!日本美術を救った天才コレクターは生き方もすごかった!
展覧会情報
展覧会名 「横浜美術館開館30周年記念 誕生150年・没後80年記念 原三溪の美術 伝説の大コレクション」
会場 横浜美術館(神奈川県横浜市西区みなとみらい3丁目4番1号)
会期 2019年7月13日(土)~9月1日(日)※会期中、展示替え有り
公式サイト