明治の建築物が数多く残る街並みで、観光地として人気を集める滋賀県長浜市。明治33(1900)年建設の第百三十銀行長浜支店をリノベーションした「黒壁ガラス館本館」を中心に、カフェやギャラリーなどが点在しています。取材に訪れた日も、町の中心部・黒壁スクエアは、若い観光客で賑わっていました。
観光地として人気の高い長浜ですが、その歴史は古代にまで遡ります。知られざる長浜の歴史、そして豊臣秀吉と長浜の不思議な縁についてご紹介しましょう。
湖底遺跡に古墳も。古代から続く長浜の歴史
長浜が位置する湖北エリア、その歴史は縄文時代に始まります。約7000年前の尖底深鉢(せんていふかばち)をはじめとする縄文土器類が発見された葛籠尾崎(つづらおざき)湖底遺跡をはじめ、約4000〜4500年前にかけての縄文土器類が発見された醍醐(だいご)遺跡、古墳時代に築かれたとみられる茶臼山(ちゃうすやま)古墳や古保利(こほり)古墳群など。古代から長浜の地で人々の暮らしが営まれていたことがわかります。
奈良時代以降、湖北エリアでは仏教信仰が広まり、自然信仰や土着の神祇(じんぎ)信仰などの中で濃密な宗教文化がつくりだされました。2万本もの萩の花が咲き誇る寛平7(895)年創建の神照(じんしょう)寺や、狩野山楽・山雪、円山応挙らの障壁画が残る大通寺(江戸時代創建)など、長浜市内にも歴史ある仏教建築が多く残っています。
中世に入り、室町時代末期から安土桃山時代にかけての長浜は、織田信長、羽柴(豊臣)秀吉の天下統一の動乱に巻き込まれていきました。安土桃山時代から江戸時代は、小堀遠州(こぼりえんしゅう)や海北友松(かいほうゆうしょう)など湖北出身の文化人たちが才能を開花。さらに、京都や大坂、北陸、そして名古屋を結ぶ交通の拠点であったため、商業の拠点、庶民文化の拠点として栄えます。
明治維新後の長浜は、織物産業によって蓄えられた経済力によって近代化を歩みはじめました。明治15(1882)年には鉄道が開通し、琵琶湖の連絡船が運航を開始します。長浜は近代交通においても要所となったのです。
秀吉が最初に築いたとされる長浜城
中世まで、長浜の地は「今浜」と呼ばれていましたが、これを「長浜」に改めたのが、秀吉です。長浜は、秀吉が初めて一国一城の主(あるじ)となった場所であり、のちの城下町経営の礎を築いた地でした。この地の歴史は、秀吉と彼の築いた城「長浜城」をなくして語れません。
長浜城のもととなった城は、バサラ大名として有名な京極道誉(きょうごくどうよ:佐々木高氏)が室町時代初期に築いた「今浜城」といわれています。以降、家臣らが守将として在城しました。
時は下って、天正元(1573)年。織田軍が小谷城を落とし、浅井氏を滅ぼすと、木下藤吉郎(きのしたとうきちろう:後の豊臣秀吉)は小谷城攻略の功績が認められ、浅井氏の領地の大部分を与えられます。その領地の中には、今浜もありました。このとき、藤吉郎は羽柴秀吉(はしばひでよし)と名乗り、城持ちの大名へと出世を果たします。
元亀元(1570)年、秀吉は琵琶湖の湖上交通を重要視し、今浜に石垣を築く作業など築城工事には近郊からたくさんの人が駆り出されたようです。百姓や僧侶、武士たちへ「鍬やもっこを持参して作業に参加するように」と秀吉が命じた文書が残されています。
天正5(1577)年頃、ついに長浜城は完成しました。発掘調査や同時期の他の城などからみて、長浜城の石垣は野面(のづら)積み(加工されていない自然石を積み上げる技術)で築かれたと考えられています。しかし、詳しい図面などは残されておらず、秀吉の時代に長浜城がどのような姿をしていたか、わかっていない部分も多くあるのです。
秀吉は、地名を今浜から「長浜」に改め、城が完成すると、当時住んでいた小谷城から長浜城へと家族とともに移り住みます。この頃、小谷城下にあった商家なども長浜に移り、商人の町として城下町が栄えていきました。
天正10(1582)年、「清須会議」で長浜城は柴田勝家の甥の勝豊(かつとよ)が入城しますが、その年の12月、秀吉は勝豊を降伏させて長浜城を取り返します。さらに天正11(1583)年、秀吉対勝家の「賤ヶ岳合戦」では、長浜を軍事拠点として秀吉が大勝。信長の後継者として、天下統一の道を歩み始めました。
その後、秀吉の家臣である山内一豊(かつとよ)も、天正13(1585)年から長浜城に5年間在城。江戸時代に入り、慶長11(1606)年には、徳川家康の異母弟である内藤信成とその子、信正が入城したとされていますが、信正が摂津高槻城に移ることにともなって、元和元(1615)年頃に長浜城は廃城となりました。
信長も秀吉も訪れた竹生島
長浜城の工事が進む天正2(1574)年頃、秀吉から竹生島(ちくぶしま)宛てに1通の手紙が届きます。そこには「かつての領主であった浅井長政が、竹生島に預けていた材木を(築城工事のために私に)引き渡してほしい」という要求が書かれていました。
長浜の西に位置する周囲2kmの島で、古来信仰の対象となっていたことから「神の棲む島」とも呼ばれる、竹生島。
浅井氏や織田信長、豊臣秀吉も参拝したとされる宝厳寺(ほうごんじ)や都久夫須麻(つくぶすま)神社、重要文化財の観音堂など、歴史的価値のある建築物が残されています。
そんな竹生島の歴史的建築物のひとつ、国宝に指定された宝厳寺の唐門には、秀吉との不思議な縁がありました。
宝厳寺の唐門と秀吉の不思議な縁
慶長8(1603)年に竹生島に建てられたとされる唐門。破風板(はふいた)内部の正面中央には大きな蟇股(かえるまた)が置かれ、その内部は極彩色の牡丹の彫刻で埋められており、豪華絢爛な桃山様式の美を今に伝えています。
そもそもこの唐門は、慶長7〜8(1602〜3)年、長浜城築城における材木提供以降、荒廃していた宝厳寺の伽藍(がらん)整備を目的に、豊臣秀吉の子である秀頼によって京都の豊国廟(ほうこくびょう:秀吉の亡骸を葬った場所)の楼門を竹生島に移築したものとされていました。
ところが、豊国廟の楼門はその前にも一度移築を経験していることが、近年になって明らかになったのです。
2006年、オーストリアの世界遺産・エッゲンベルグ城に飾られていた壁画が、豊臣時代の大坂を描いた屏風絵であることが判明。そこには大坂城の本丸と二の丸の間にかかる屋根や望楼を持つ豪華な橋(極楽橋)が描かれていました。なんとその橋の正面の姿が、宝厳寺の唐門の入り口部分と酷似していたのです。この調査結果から、慶長元(1596)年頃の大坂城にあった極楽橋が、慶長5(1600)年に豊国廟に移築され、その後、竹生島へと移築されたと推測されます。
江戸時代の初期に徳川家によって落ちた大坂城、その一部が今も竹生島に現存しているとは……。秀吉が初めて城持ちの大名になった地である長浜に、天下を手中におさめた秀吉の象徴ともいえる豊臣大坂城の遺構が唯一残っていることは、不思議な因縁を感じさせます。