後に続くかもしれぬ勇者たちに、告げておこう。決して、決して、今から言うことを聞き洩らしてはならぬ。
「ここは目に見えぬ魔物らの棲む地。特に歴史ファンよ、刀剣ファンよ、この地に足を踏み入れるならば、しかと覚悟せよ……」。
ここまでで文字数108つである。人間の煩悩の数と同じである(だからなんだ)。
それではこれより煩悩の淵、人を魅惑の底なし沼に落とす町――栃木県足利市へ、ご招待しよう。
「呼ばれてしまった」者のタワゴト
理屈は不明なのである。ここだ! と思ってしまったのだから、それが真実、それが全てなのである。
「あ~そりゃあ呼ばれたんさね」。なんかいろいろなご縁をたくさん持ってきてくれる地元の人はそう言った。「何か、ここでやることがあるんでねえの?」
正直、霊感やら直感やらなんぞ、ほんのひとかけらすらも持ち合わせていない。目の前に巨大なオバケさんが束になって迫ってきていようが、まったく気づきもせず通り過ぎる自信がある。それでも、その言葉は真実そのものだと、信じずにはいられない何かがこの足利にはある。
信じられるだろうか? この地にいると、呼吸が楽なのである。比喩ではなく、物理である。
東京都内から電車で北関東に向かっていたところ、ふと体が軽くなって車窓から風景を眺める。停車した駅には「足利市」とあった。それが、この地に移住を決めた理由である。本当である。
この時の私は、重大なミスを犯していた。そう、「ここが、かの有名刀工ゆかりの地だと気づかずにいた」のである。刀剣ファンにあるまじき、なんたる失態、なんたる体たらく。それでも、まるで吸い寄せられるかのように、この地への移住手続きは滞りなく終わった。
そして、いまだ吸引力の変わらない、ただ1つの町。それが、栃木県足利市である。ふと気づけば、そうした同志があちらにもこちらにも。
この危険性、ご理解いただけただろうか。栃木県が魅力度ランキング最下位だなんて、そりゃあこの地が栃木だと、あまり認識されていないだけの話なのである(それもちょっと寂しいのだが)。
そして、さらなる深みへ
足利では、東京などの大都市では考えられないようなことが日々起きる。初めて入ったお店で店員さんが「今日は暖かいですね」なんて会話をひとしきりしてくれたり、2度目に行ったお店で「これ作ったから持ってきな」と惣菜をくれたり。
中でも、自転車の一件は今でもちょっと夢だったのでは、と思っている。
恥ずかしながら、干支が3周する年プラスアルファまで、自転車に乗れなかった。それでも必要だから、と自転車屋さんに相談に行ったのだが、どんなものがいいかといったことのみならず、まったく馬鹿にもせず、乗る練習に息を切らしながら1時間ほども付き合ってくれたのだ。そして、練習用にと1カ月ほど貸し出してくれた。――と、ここまで完全ボランティアである。あれが果たして現実だったのか……知らぬうちに極楽浄土に足を踏み入れていたのではあるまいか。
足利というのは、そんな土地である。
話題沸騰した、あの刀剣展示の地!
さて、前置きがずいぶん長くなってしまった。
先ほど、有名刀工ゆかりの地である、と、わりとさらっと書いたが、さらっと流してはならない。平成29(2017)年、人口約15万の静かな町が、突如として沸きに沸いた。その理由が、名刀展だったのである。
山姥切国広(やまんばぎりくにひろ)、布袋国広(ほていくにひろ)。刀剣界の超有名人である名工・信濃守国広(しなののかみくにひろ)の作の中でも最高傑作と評される2振。これが同時に展示されたのである。
他の目的地を回ってからのんびり午後に会場に到着した私が突き付けられた現実は、「朝のうちに入場整理券を配り終わっていたので、残念ながら……」だった。そんなこともあってか、転入が決まってもしばらく忘れていたのだったが。
ある時、このお方に出会ってしまったのである(引き合わせてくれたのは、そりゃあ呼ばれたんさね、のかたである)。
足利刀剣界の重鎮、足利郷土刀研究会会長の田部井勇(たべい いさむ)さんだ。
名刀展の折にも大活躍された田部井さんは、長年足利の刀剣と刀剣関連施設についての研究を続けておられる。
お会いしてお話を伺ううちに、布袋国広だけでなく、山姥切国広もこの足利の地で打たれたのだ、と知った。
国広の最高傑作2振がともに作られた足利って、一体何ものだ?
夢の鼎談が実現! 足利の刀剣談義が止まらない!
足利郷土刀研究会会長の田部井さんと、足利市教育委員会文化課の主幹・齋藤和行(さいとう かずゆき)さん、史跡足利学校事務所の学芸員・大澤伸啓(おおさわ のぶひろ)さんという、夢のような鼎談の場を設けていただくことができた。
あまりに面白いお話ばかりだったので熱中しすぎて、メモにどなたの発言だったのか、書き留め忘れてしまった。大半について内容のみを以下に纏めさせていただくことにする。面目ない。
足利の刀たち
足利には、かなり良い刀がいくつもある。
以下は足利市民文化財団および足利市の所蔵だが、
(公益財団法人 足利市民文化財団・所蔵)
・脇差 布袋国広
(足利市・所蔵)
・脇差 環(源清麿)
・刀 津田越前守助広(二代助広)
・刀 備前長船与三左衛門尉祐定
・刀 備前長船清光
・刀 大和守安定
など
布袋国広は重要美術品、環の脇差は「四谷正宗(よつやまさむね)」の異名でも知られる幕末の名工・源清麿(みなもときよまろ)の作のうち、唯一「環」という銘が切られた貴重な品であり、県指定文化財となっている。その他も、刀剣ファンに人気の高い刀工の作ばかりだ。
また、この地ゆかりの郷土刀もある。
・下坂継正(しもさかつぐまさ)
・源景国(みなもとかげくに)
なお、布袋国広も「足利学校で打った」とあるため、足利ゆかりの刀である。
足利学校とはどんな存在だったのか?
では、その足利学校とは、当時どんな存在だったのだろうか?
足利学校の校長にあたる庠主(しょうしゅ)は、代々僧侶が務めてきた。そもそも僧侶とは最先端の知識を持つ者であり、勉強の先生なのである。平安時代の源義経にしてもあまたの戦国武将にしても、僧侶のもとで一定期間学んでいる。
そんなこともあり、足利学校で学ぶ者は僧侶の姿になる必要があった。戦闘のための武家ではなく、学問を志す者である、という意志表示である。
ただ、戦国武将の軍師の多くもここで学んでいる。天文学・易学・兵法といった必須の知識が、足利学校には揃っていたからである。
「だから豊臣秀次は、庠主の三要(さんよう)を連れていってしまったんですよね」「秀次ってかなりの学問好きだったんじゃないでしょうか」「歴史の評価も見方次第なのかもしれませんね」と、お三方。
!? どういうことだろう?
目を白黒させている私に、大澤さんが解説してくれた。
「庠主は、学校にある書物・知識のすべてでもあったんです。だから、三要1人を連れていってしまえば、全部知識が手に入ってしまうということです」。
なんたること……。
三要はその後徳川家康の軍師となって、江戸幕府草創期を力強く支えた。
戦国武将の武田信玄は、軍師の雇用にあたって「占いは足利にて伝授か?」と尋ねたといい、武田勝頼と北条氏政は足利学校を戦禍から救うべく「濫妨狼藉(らんぼうろうぜき)の禁制」を発している。
誰がここで学んだか、といったことは足利学校側の記録には残っていないという。それは名簿を作成しておらず、基本的に学んだ者の手記によってしか経歴を知る手立てがなかったからなのだそうだ。そんなわけで、国広が足利学校で学んだのかどうか、というのは不明だという。
「足利学校打ち」の布袋国広
「田部井さん、もしかしてなのですが、足利学校というのが一種のブランドとなっていた可能性ってありますか?」と大澤さん。
「その通りですね。布袋国広については間違いなくこの辺りで打たれたと思いますが、時代が下ってくると、箔をつけるような意図で足利学校、と銘が切られたのであろう作も見受けられます」と田部井さん。
そうすると、現代に置き換えると「東大打ち」みたいなものなのだろうか? そうお聞きすると、そうかもしれないね、と楽しそうに笑われてしまった。
足利という地は、良質な砂鉄が採れるのだという。良質な砂鉄からは、美しい地鉄(じがね)が生まれる。足尾山系から渡良瀬川が運んでくる砂鉄で国広も鍛えたのではないか、と田部井さんは話す。名工の腕と上質の材料、それが合わさって生まれたのが、布袋国広と山姥切国広なのだろうと、お三方は目を細めた。布袋国広と山姥切国広は地鉄がよく似ており、同じ土地の材料を使ったと見て間違いないだろうという。
「山姥切国広」のこと
長年刀剣に携わってきた田部井さんが「見た瞬間に、わっ! と思った」というのが、山姥切国広である。国広の作100本ほどの資料を見てみたが、これは文句なしに別格なのだという。
「山姥切国広1本で国広の地位が決まったといっても過言ではないかもしれません」とまで田部井さんに言わせる名刀、恐るべし。
先端部分の鋒(きっさき)に焼かれた刃文は特に見事で、田部井さんは、ここまでの高い技術をもって作られたものはそうそうないだろうと語る。
この山姥切国広は、備前長船(びぜんおさふね。岡山県瀬戸内市)の名工・長義(ながよし/ちょうぎ)の作を写したものだが、長さや寸法のみを再現し、地鉄の鍛えや刃文などは国広独自のものなのだという。
なお、「山姥切」の名はもともと長義(本作長義、と呼ばれている)のほうには付けられておらず、国広のほうから発したものである、との回答を徳川美術館から得たそうだ。
山姥切国広には「平顕長」の名が切られている。これは足利領主・長尾顕長(ながお あきなが)を指し、国広は顕長のためにこの名刀を鍛え上げた。顕長は館林城主でもあり、恐らくは国広も足利以前に館林に逗留していたであろうと田部井さんは見ている。顕長の軍で足軽大将として大活躍したという話もあり、この働きにより感状とともに吉広(よしひろ)の槍を授かったと伝わる。
※なお、2021年2月21~3月15日(鎮火)の山火事により、長尾の居城である足利城址・両崖山(りょうがいさん)にある御嶽神社(おんたけじんじゃ/みたけじんじゃ)境内の月読命・三日月神社、天満宮の祠が全焼した。
足利市では山林火災緊急支援寄附金を募っている。
ただ、確たる資料が残っていないのだそうだ。国広に限らず、刀工の鍛冶遺構も、長尾氏の工房も、なかなか確証が取れない。それは、大火や洪水でまちが埋もれたままで残ることもなく、時代とともに変化したり、渡良瀬川の氾濫に伴う流出や崩壊などによって失われたからなのだという。齋藤さんは、渡良瀬川の流路の変化で遺跡の一部がなくなっている場所も多数あるのだと教えてくれた。
「確かな伝承があると、とてもいいのですが。大名に付属した刀工は必ずいたはずですし、いつぐらいの時期にどこで伝わっていた、というような情報があったら、ぜひ欲しいです」。お三方は口を揃える。
新たな刀剣の発見によって、だんだん分かってきたこともあるという。
「もしかしたら歴史が変わるかもしれませんよ」。田部井さんは少年のように満面の笑みを浮かべた。
足利と刀剣、そしてこれから
足利という地は、交通の要衝として栄えた町である。東山道と渡良瀬川の交わる地であり、古代より人も物も集ってきた。刀から他分野のいろいろなことが分かりますよね、と齋藤さんは目を輝かせる。顕長と国広の関係も、山姥切国広や本作長義によって示されている。
「本作長義も、足利市にとって非常に貴重な刀です。いつか徳川美術館と協力して展示ができたら、と夢見ているんです」。皆が一斉にうなずいた。
水・鉄・炭・人。刀剣製作のために必要な材料が揃う町、足利。美しい山並みと雄大な渡良瀬川を擁するこの地に、様々な交流がまた生まれようとしている。
取材協力(順不同)
・足利市教育委員会文化課
・史跡足利学校事務所
・足利郷土刀研究会
・公益財団法人 足利市民文化財団
アイキャッチ画像:「脇差 銘 日州住信濃守國廣作(布袋国広)」公益財団法人 足利市民文化財団所蔵