本来ならば。
その日は、両者共に「めでたい日」になるはずだった。
一方は甥の祝言に必要な品を見繕った帰り道、もう一方は主人の孫の初宮参りで開かれた宴席からの帰り道。
そんな祝い事が重なるハレの日に、悲劇は起きた。
事件の発端となった長崎市の中心街にある坂。
現在では「大音寺(だいおんじ)坂」や「喧嘩(けんか)坂」と呼ばれる石畳の階段道だ。長崎地方検察庁と長崎地方法務局の間にあり、約20度の傾斜のついた坂道となっている。もちろん、事件が起こった当時は階段などなく、傾斜がきつい上に雨や雪ですぐにぬかるむ悪路でもあった。
そんな足場の悪い坂道で両者が交錯したのは偶然か。
最初は、どこにでもあるほんの些細な事故だった。
杖が滑って泥が相手方に跳ね上がるという不運でしかない出来事が、何をどう間違えたのか。あれよあれよという間に、町人が武家の屋敷を襲撃。この前代未聞の事件に対し、今度は武士らが町人の屋敷へと討ち入りを決行。
終わってみれば10人が切腹、8人が死罪。
「祝い事」のみならず「人の命」までもが消える大ごととなったのである。
今回は、この「長崎喧嘩(「深堀騒動」「長崎騒動」ともいう)」を取り上げる。
「忠臣蔵」で有名な「元禄赤穂事件」の1年前に起こったため、「長崎版忠臣蔵」ともいわれる討ち入り騒動。
一体、長崎の地で何が起こったのか。
長崎市内に点在する、騒動にゆかりある場所を訪ね歩いた。
悲劇の始まりの舞台となった「大音寺坂(喧嘩坂)」
最初に訪れたのは、JR長崎駅から徒歩15分、長崎市内の中心街からほど近い「大音寺坂」だ。「天満坂」や「喧嘩坂」という名でも呼ばれており、今回の悲劇の始まりの場所でもある。
時間は、ちょうど昼の12時頃。
噴き出る汗をぬぐいながら坂の前に立つ。そして、静かに目を閉じた。
恐らく事件当日と同時刻だろう。取材日の長崎の気温は35度を超えてはいたが、意識を集中して冬の雪景色を想像する。すると、瞬く間に階段は消え去り、鈍色の空の下、雪解け水でぬかるんだ坂が現れた。
時は、元禄13(1701)年12月19日。ちょうど5代将軍徳川綱吉の治世の頃である。
当時、辺り一帯は「本博多町」という名だった。目を凝らすと、見えないはずの老齢の男が2人、坂道に向かう姿がスッと浮かんだ。杖をついている男の名は「深堀三右衛門(さんえもん)」(約69歳)、隣が「志波原武右衛門(しばはらぶえもん)」(約59歳)。彼らは、肥前佐賀藩の家老職「鍋島茂久(しげひさ)」の家臣である。主君の深堀鍋島家は佐賀藩の飛び領6000石を領し、長崎の警護において重要な役割を担っていた。
その日、彼らは三右衛門の甥の婚礼品を調える用事で長崎に出向いていた。問題の坂道に差し掛かったのは、その帰りでのこと。慎重に歩を進めていたが、三右衛門の杖が滑ってしまい、行き会う一行の1人に泥が跳ねあがってしまう。確かに、階段の中段あたりから地面を見下ろすと、なかなかに急な傾斜である。これなら、運が悪いと相手も穏便に済ませることができたはずだ。
だが、ここから事態は予想外の方向へと転がっていく。
一部の資料には信じられない様子が書かれている。「鍋島藩深堀資料集成」(中尾正美編)より抜粋しよう。
「……つまづき倒れるはずみに、泥雫を彼の又助に踏み掛ける。中間以っての外立腹し、己れ何者なれば斯く狼藉に及び候や。高木彦右衛門家来なるぞ、斯様に泥掛けられ、屋敷へは帰られまじ勝負せんと立ち掛る」
中尾正美編 「鍋島藩深堀資料集成」より一部抜粋
要は、まさかの相手がブチ切れたのである。
「泥をかけられたまんまで屋敷に帰れるか!」と、深堀三右衛門らに絡んできたのだ。
ちなみに、文中の「中間(ちゅうげん)」とは男の身分を指す。武家の使用人などの意味で、侍と小者(武家で雑役に従事する下男)の間の立ち位置だ。そんな男が「サイトーさんだぞ」ばりに「高木彦右衛門(ひこえもん)家来なるぞ」と名乗っている。ここで名前を出された「高木彦右衛門」とは、町政を担う重要な役割の「町年寄(まちどしより)」の筆頭格であった人物。だが、そうはいっても、そもそもの身分は町人だ。つまり、町人の使用人が武士2人に難癖をつけているという構図となる。
これに対し、意外にも2人は丁重に謝っている。
「武右衛門申しけるは、仰せ御尤もに候。併し此の日和にて、此の者老人ゆえ思わず倒れ無調法仕候。何卒御赦免下さるべしと、種々ひしといえども承引せず……」
中尾正美編 「鍋島藩深堀資料集成」より一部抜粋
それでも、高木彦右衛門の使用人は納得しなかった。揚げ句の果てに、深堀三右衛門、志波原武右衛門に近くにあった町屋で待つようにと言い残し、去っていったのである。
続々と武士が飛び出していく「深堀武家屋敷跡」
「長崎喧嘩」ゆかりの場所として次に訪れたのは、JR長崎駅からバスで30分ほどのところにある「深堀(ふかほり)」だ。当時、佐賀藩は福岡藩と1年交代で長崎港の警備を担当。長崎湾の入口にあたる深堀は、警備の上で重要な拠点とされていたようだ。
バス停から歩くこと5分。見えてきたのは、大きさの異なる石の間に漆喰が塗りこめられた特徴的な石塀だ。当時、周辺には深堀鍋島家の家臣らの屋敷が並んでいたという。その歴史の名残りが「深堀武家屋敷跡」である。
風がやむのを待ってから、再び目を閉じる。
しばらくすると、またもや目の前の景色が一変する。夜だろうか。今度は、先と打って変わって騒々しい。怒声が飛び交い、興奮した武士たちが、1人、2人と飛び出していく。どうやら急を要するようだ。
一体、深堀鍋島家の家臣らに何があったのか。
まずは、深堀三右衛門と志波原武右衛門の2人のその後から話を再開しよう。
彼らは、大音寺坂(喧嘩坂)近くの町屋で、難癖をつけてきた高木彦右衛門の使用人を待っていた。一説には夕方4時頃までというから、気が長い方なのだろう。だが、待てど暮らせど彼らは戻って来ず。当時、西国の各藩は長崎奉行と密に連携を取るため、長崎に蔵屋敷を置いていた。そこで2人も、この「深堀」ではなく、佐賀藩深堀鍋島家の長崎屋敷(現在の五島町、JR長崎駅から徒歩7分ほどの場所)へと帰ったのである。
ここで、悲劇が重なる。
運悪く、深堀鍋島家の長崎屋敷はあいにく人が出払っていた。そのタイミングで、先ほどの高木彦右衛門の使用人らが、いきなり集団で押し寄せたというのである。
町民が武家の屋敷へと押し寄せる。それだけでも信じられない状況だが、さらに事態は悪化する。資料によって詳細は異なるが、高木彦右衛門の使用人ら10人余りが棒を持って屋敷の中に押し入り、襲撃したのである。ただ、老齢とはいえ、深堀三右衛門と志波原武右衛門は武士だ。これまで律儀に耐えていた怒りもこの暴挙で一気に爆発。相手を斬り捨てるつもりで応戦したのだが、やはりここでも運が悪かった。
実際の様子については諸説あるが、一部ご紹介しよう。
「武右衛門は迂闊にも自らの刀を傍らの冠木に食い込ませてしまった。武右衛門は何とか刀を抜こうとしたが冠木(門の形をした木組みのこと)に深く食い込んだ刀は押せども引けども動かなかった。…(中略)…三右衛門もすぐに部屋から飛び出してきた。しかし、不運にも石に躓いて倒れたところを大勢に取り囲まれ、武右衛門同様、散々棒で打ちのめされた上に大小の刀を奪い取られてしまった」
坂本勉著「評伝 長崎喧嘩騒動(深堀義士伝)赤穂浪士事件との比較」より一部抜粋
結果的に、主君の大事な屋敷は無残にも蹂躙され、自らは棒で叩きのめされ……。さらに、こうして書くのも非常に辛いが、あろうことか、武士にとっては命よりも大事な刀を奪い取られてしまったのである。
目の前に浮かぶ光景は、そんな大失態を聞かされた当時の深堀の屋敷の様子なのだろう。知らせを聞いてすぐに飛び出したのは、深堀三右衛門の息子である嘉右衛門(かえもん)。当時16歳の彼は父の差替えの刀を持って走っていった。さらには縁者や同輩の武士らが長崎屋敷に向かって後に続く。彼らは討ち入りを予想し、手短に妻子と水盃を交わしたという。
そうこうしているうちに、続々と近隣の屋敷から武士が集まり出した。彼らのボルテージは振り切れるほど高揚していた。なんといっても、主君の屋敷が町人らに荒らされるのを許してしまったのである。それを聞いて冷静でいられるわけもない。だが、天領の地、長崎で集団での討ち入りとなれば、それ相応の処分が待っている。
それでも見逃せるはずなどなかった。
誰もが切腹覚悟の上で出立したのである。
21人の深堀義士の墓碑がある「菩提寺」
先ほどの「深堀武家屋敷跡」から歩くこと8分。
「長崎喧嘩」ゆかりの場所として最後に訪れたのが、こちらの「菩提寺(ぼだいじ)」だ。大きな寺標が目印の曹洞宗のお寺である。
じつは本堂ではなく、寺標の左手にある坂を上がったところが、今回の目的地だ。木の下に設置されている案内版の向こう、ズラリと並ぶ墓碑が見えた。
真っ直ぐ墓碑の前まで進んだ。
数えてみると21人もの墓碑がある。先ほどの深堀の武家屋敷から慌ただしく飛び出していった武士たちだろうか。彼らがその後どうなったのかと気になって仕方ない。
深く息を吸って、またしても目を閉じようとしたその瞬間、中央の墓碑に刻まれた名が目に入った。思わず息が止まる。
「深堀三右衛門」そして「志波原武右衛門」。
彼らだ。天災の如く突然の不運に巻き込まれた張本人、この騒動の中心人物である。武士の矜持まで根こそぎ奪い取られたその最期はどのようなものだったのか。資料によって詳細は異なるも、ここから話を再開しよう。
深堀三右衛門と志波原武右衛門は、既に覚悟を決めていた。差替えの刀が届けば、すぐに高木彦右衛門の屋敷に討ち入りし、狼藉を働いた彦右衛門の使用人を斬り捨てるつもりであった。そんな意気込みで長崎屋敷を出たところで、息子の深堀嘉右衛門と遭遇。刀を手に入れ、共に高木邸へ向かったのである。
現在の長崎市の中心街にある浜町アーケード。その入口辺りから奥へと広がっていたのが当時の高木邸だ。深堀三右衛門らは、この屋敷の門前で喧嘩の相手を出せと叫ぶのだが、どうにも反応がない。そこに、福田伝左衛門が声をかけ、自宅で一服を勧めたという。一説には、伝左衛門は長崎屋敷に出入りする町人で、高木彦右衛門とも懇意にしていたとか。こうして伝左衛門は高木邸への討ち入りを断念させるべく説得を試みる。同時に、水面下では深堀側と高木彦右衛門側が接触。和平交渉が開始され、まとまりつつある状況であった。
だが、しかし。
だからといって、深堀三右衛門、志波原武右衛門の立場からすれば、このままでは終われないだろう。
残念ながらというか、やはりというか。必死の説得も受け入れられず。再度、討ち入りを決行すべく高木邸に出向いたところで、今度は深堀から加勢する第一陣が到着。駆け付けたのは縁者や同輩の深堀武士たちで、この中には祝言を挙げる予定のかの深堀三右衛門の甥も含まれていた。勢いをつけた三右衛門らは、ここぞとばかりに高木邸に押し入ったのである。
じつに、討ち入り後の深堀武士の動きは無駄がなかった。
まずは相手が使えぬよう、槍、そして弓は弦を切って外に出す。火事にならぬよう、こたつやかまどの火に水をかけ、火鉢は白洲に伏せる。さらには襖や障子は蹴り倒し、見晴らしをよくする。これらの手順を踏み、近隣への討ち入りの影響を最小限にしたとか。その動きはのちに賞賛までされている。
女性らには目もくれず、抵抗する者を斬り捨てる。喧嘩の相手であった使用人はもちろん、家来の不始末は主人の不始末ということで、主人の高木彦右衛門の討ち取りにも成功。ただ、彦右衛門の息子である彦八郎も標的であったが、彼は見つけられず。心残りはあったものの、20日の明け方から始まった討ち入りは昼前には終了したという。
全て終えたのち。
本懐を遂げた深堀三右衛門は高木邸で切腹。
志波原武右衛門はというと、引き揚げる道の途中、鐵(くろがね)橋で切腹。
討ち入り開始後に高木邸に到着した第二陣の深堀武士も含め、記録上、最終的な人数は21人。
だが、実際の人数はさらに多く、周辺には続々と深堀武士らが詰めかけ、かなりの騒動になっていたようだ。
討ち入りに参加できず、見守ることしかできなかった多くの武士たち。
彼らもまた、同じ深堀武士として本懐を遂げたといえる。
一連の騒動の背景にある「長崎」の特殊性
さて、ここに1つ大きな疑問が残る。
そもそも江戸時代は身分制社会だったはずだ。それなのに、どうして町人らは前代未聞の暴挙に出ることができたのか。ここからはその背景を探りたい。
カギとなるのが「長崎」の地、そして「高木彦右衛門」という人物だ。
まず長崎についていえば、長崎は天領、つまり幕府直轄地である。
そのため、長崎には幕府が任命する「長崎奉行」が置かれ、密貿易やキリシタンの取り締まり、西国大名の指揮監察など市中警備を中心に行われていた。一方、町政は4人(のちに6人)の「町年寄(まちどしより)」が主な役割を果たした。この町年寄、天和元(1681)年には1,000人超の地役人の頂点に立ち、長崎奉行の支配下で町政と貿易実務を担当していたとされている。
なかでも、より大きな影響力を持っていたのが「高木彦衛右衛門」である。高木家は代々、町年寄を世襲する家であり、さらに唐とオランダ船の商売の残品を銅などで取引する権利(代物替)を得たことで、莫大な財をなす。元禄10(1697)年には町年寄と兼務せず、長崎貿易の統括者の地位に就任。元禄11(1698)年には、米80俵を与えられ、幕府直属の役人としての処遇を受けている。町人ながらも名字帯刀、駕籠(かご)も許されていたというから、相当なものだ。これも、鎖国下で唯一の貿易港であった「長崎」の特殊性が関係するといえるだろう。
高木彦右衛門は驕り高ぶり……と書かれた資料もあるが、長崎の経済的繁栄に貢献した側面は否めない。町人ながらも長崎奉行や幕府と繋がりを持つ特殊な立ち位置に出世した高木彦右衛門。彼の名を出せば、恐らくある程度は融通が利いたのだろう。彼の使用人たちも、いつしか特権的な意識を持つようになったのかもしれない。
貿易で栄えた長崎。その利潤を享受する一部の町人。
その一方で、異国の脅威にさらされる長崎を警護していたのは佐賀藩や福岡藩の武士たちだ。負担が大きいにもかかわらず、町人都市として発展していた長崎では、身分制の境界が曖昧になっていく。武士たちにとっては歯がゆい状況だったに違いない。だからこそ、討ち入りには、縁者や同輩のみならず、多くの深堀武士たちが集結したのだろう。主君の受けた恥辱を雪(そそ)ぐとの大義名分の下、これまでの不満が爆発したとも思えるのである。
そんな特殊な状況下で起こった「長崎喧嘩」を幕府はどのように処断したのか。
突き詰めれば、騒動の張本人はあくまで使用人。公儀の役人の処遇を受けていた高木彦右衛門が殺される理由はない。ただ、深堀武士側も、町人からの襲撃を許すことなどできない。雪辱を果たす気持ちも理解でき、加えて佐賀藩深堀鍋島家にはこれまでの戦の功績もある。
これらを踏まえ、幕府の判断はというと。
まず「高木彦右衛門」の身分は「町人」とバッサリ。今回の騒動で、高木彦右衛門殺害は問題にならず。
次に、徒党を組んで争うことを禁じた「武家諸法度(ぶけしょはっと)」にも抵触しない。ちなみに、これは事前に根回しがなされている。事実、討ち入りの現場に来ていた深堀武士ら全員が参加となれば、深堀鍋島家断絶ともなりかねない。そのため、討ち入りに参加した武士たちを限定するよう誘導され、最終的には深堀三右衛門と志波原武右衛門以外に、先駆け10人、後駆け9人で落ち着いたという。
こうして、「長崎喧嘩」の当事者に下った裁決は以下の通り。
深堀鍋島家側に対しては、長崎という天領の地で騒動を起こしたことにつき、第一陣の先駆けの10人は切腹、第二陣の後駆けの9人は五島へ遠島(流罪)。佐賀藩家老職、深堀鍋島家の「鍋島茂久」は、事件当時、深堀には不在であったため、不問とされた。
ただ、佐賀藩としては自発的に深堀鍋島家の長崎屋敷を召し上げ、深堀の家来が長崎へ出ることを禁じた。
ちなみに、裁決がなされる直前は情報が錯綜した。
助命の噂もあったが、一転、19人全員が切腹との情報もあり、一旦は死装束を準備していたという。だが、蓋を開ければ、9人は遠島。この知らせに、急遽、死装束から旅支度に変更したとか。討ち入りのほんの僅かな時間差で、生死が分かれる事態となったのである。
一方、高木側に対しては、深堀鍋島家の長崎屋敷を襲撃した使用人ら8人は死罪。高木彦右衛門の息子である彦八郎は、親が襲撃された際に隠れて出会わなかったことを咎められ長崎から追放、家財や屋敷は没収された。かつての高木家の権勢は影も形もなくなったのである。
じつに処分が下されたのは、騒動からおよそ3ヵ月後の元禄14(1701)年3月21日。
奇しくも、その1週間前。3月14日には、討ち入りで有名な「忠臣蔵」の題材となった「元禄赤穂事件」が起きている。江戸城で刃傷沙汰を起こした赤穂城主、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)はその日に切腹。
時期は1年ほど違うが、両者は「討ち入り」という行為が同じなだけに、なにぶん比較をされることが多い。
だが、その原因や背景は全く異なる。似て非なるものといえるだろう。
一説には、赤穂事件の討ち入りは、この「長崎喧嘩」を手本にしていたという噂もある。じつは遠島先の五島まで赤穂浪士が訪ねて詳細を聞いたという話もある。
なぜだか、五島列島の久賀島(ひさかじま)の栄健寺には、赤穂浪士の1人「寺坂吉右衛門」の墓だとされる墓碑まである。
だが、どの話も確証はない。
大いなる人々の関心が呼びよせた結果なのかもしれない。
取材後記
最後に。
遠島となった9人の深堀義士のその後について触れておこう。
本来、遠島となれば妻帯は許されない。だが、遠島先の福江藩(五島藩)では、事実上、妻帯が許され、一説には7人が新たに現地で妻を娶ったという。子どもができた者もおり、これまでの家族と離れても、また新たな幸せを見つける武士もいたようだ。
だが、その8年後。
宝永6(1709)年5月。5代将軍徳川綱吉が没し、流罪の9人は赦免。彼らは晴れて深堀の地に戻ることになる。それでも手放しで喜べないのは、新たな妻子の存在があるからだろう。そもそも妻帯など許されていないし、当時は他領の者を連れて行くことはできなかった。つまり、9人は、今度は島の新たな妻子らと生き別れとなったのである。
遠島となっても涙、遠島が解かれても涙。
複雑な気持ちを抱えた者もいたなか、9人は深堀へと出立。
現在は、先に切腹した12人の義士と共に、菩提寺に墓碑が並んでいる。
こうして、多くの人生を狂わせた「長崎喧嘩」。
それを「運命」という一言で片付けるには、あまりにも酷だろう。
振り返ってみれば。
何度も何度も引き返せる機会はあった。
討ち入り直前の場面で行われた和平交渉。いや、それ以前にも大音寺坂での諍いの直後、町屋で両者が和解できる可能性もあった。いやいや、それをいうなら、そもそも泥がはねた程度のことを問題にしなければ、これほどまでの大惨事にならなかっただろう。
そう考えると、無念で仕方ない。
どちらかが行き過ぎれば、もはや後戻りは難しいということか。
だが、今は違う。
やり過ぎて失敗をしても、逆に行動を起こせなくても。
いつでもやり直せる、しがらみのないそんな世が来ているのだ。
あとは、間違いを正す一歩を踏み出せるかどうか。
できることなら。
いい世が来た、そう思いたい。
写真撮影:大村健太
参考文献
中尾正美編「鍋島藩深堀資料集成」 深堀史跡保存会 1974年
郡家真一著 「五島物語 -歴史と伝承-」 国書刊行会 1974年
丹羽漢吉著「長崎おもしろ草 第2巻 史談切り抜き帳」 長崎文献社 1977年4月
坂本勉著 「評伝 長崎喧嘩騒動(深堀義士伝) 赤穂浪士事件との比較」 新風書房 1999年12月
田中耕作著 「江戸半ば鍋島佐賀藩」 佐賀新聞社 2002年3月
江口功一郎著 「長崎喧嘩録」 創芸出版 2003年12月
長崎市史編さん委員会編 「新長崎市史 第二巻 近世編」 長崎市 2012年3月
平幸治著 「肥前国深堀の歴史」 長崎新聞社 2014年1月
基本情報
名称:大音寺坂(喧嘩坂)
住所:長崎県長崎市賑町3-1
公式webサイト: なし
名称:深堀武家屋敷跡
住所:長崎県長崎市深堀町5丁目191
公式webサイト: なし