放映中の大河ドラマ『麒麟がくる』では、従来の明智光秀像とは一味違う、長谷川博己の知的でアグレッシブな演技が話題沸騰中。明智光秀が築いた城として唯一残っているのは、京都府福知山市にある福知山城(ふくちやまじょう)です。城と隣接する美術館では大河ドラマ放映の1年間、「福知山光秀ミュージアム」を開催。謎多き人と言われている光秀の足跡を辿りに、現地を訪れてみました。
光秀が名づけた町、福智山
山間からやさしい風が吹き、由良川の流れに抱かれた丹波の里に、新たな城と町を築き、「福智山」(福知山)と名づけたのは、明智光秀です。小高い丘の上にある福知山城は、遠くからもその姿を眺めることができます。
100名城に選ばれた美麗な福知山城
「続日本100名城」にも選ばれている福知山城は、実際に目の前で見ると、とても美しい印象。天正7(1579)年頃に光秀によって西国攻略の拠点として築かれました。明治時代には廃城令により、天守周辺の石垣と銅門場所(あかがねもんばんしょ)だけを残すのみとなります。その後市民の間で、在りし日のシンボルを再建しようという機運が高まります。瓦1枚につき3000円以上を1口とする「瓦1枚運動」などで、多額の寄付金が集まりました。市民の熱意が叶い、1986年に天守閣が再現され現在にいたっています。
当時のままの石垣が歴史を感じさせる
天守台の石垣は、光秀時代の創建当時の面影が残されています。何百年もの間、ずっとこの地にあることを思うと感慨深い気持に。一見乱雑にも見える積み方は「野面積み(のづらづみ)」で、自然石を巧みに組み合わせたものです。よく見ると、石垣には自然石以外のものも多く、これらは転用石と呼ばれるもの。近隣の寺院から集められた五輪塔などの石塔類が使われています。理由は諸説ありますが、旧勢力の象徴の寺院を破壊して、石垣に組み込むことで支配を示そうとしたのではと考えられています。ここにも激しい戦国時代の戦いの歴史を感じることができますね。
光秀の生涯を知る、福知山光秀ミュージアム
福知山光秀ミュージアムは、大河ドラマ『麒麟がくる』に併せて、2020年1月にオープン。現存する貴重な資料と共に、光秀の軌跡をたどることができます。案内してくださった福知山市秘書広報課の中井啓太さんは、「小、中学生の年代から見て頂いてもわかりやすい展示になっています」。全国の小中高校の学校行事で利用の場合には、無料で見学が可能。パネルや映像で展示されているので、子どもさんでも興味が持てそうです。
入り口を入ってすぐに、大河ドラマコーナーがあり、出演者の衣装や小道具の展示があります。奥へ進むと若き日の美濃時代から、本能寺の変までをパネルで紹介。時系列になっていて信長や豊臣秀吉との関係も図解していて、とてもわかりやすいです。
続く映像展示では、丹波攻略戦から福知山築城までの光秀を解説。140インチの巨大スクリーンに、地図CG、ドラマ風実写映像を駆使していて、見応え充分。この激しい5年にも及ぶ戦いを成功させ、信長に認められる過程がすんなりと理解できました。
地元に伝わる妻との夫婦愛が胸を打つ
福知山市観光協会イメージキャラクター『光秀くんとひろこさん』は、光秀と妻の煕子(ひろこ)をモデルにしたもの。夫婦の関係性が伺える逸話が、ミュージアムでも紹介されています。光秀は美濃から越前に移り、困窮していた浪人時代がありました。そんな時に来客をもてなすため、 煕子は自身の黒髪を売りお金に換えて、光秀の面目を保ったといいます。妻の献身的な姿を松尾芭蕉が詠んだ句が『月さびよ 明智が妻の 咄し(はなし)せむ』。伊勢国の俳人、又玄の家で貧しいながらも心づくしのもてなしを受けた芭蕉が、光秀のエピソードを取り入れたものです。
多くの苦難を夫婦で乗り越え、光秀は側室を持たずに妻1人を愛し続けたと言われています。夫婦愛の深さが今も地元、福知山の人達によって語り継がれています。
統治者としての手腕の数々
光秀は先進的な経営センスで城下町を建設し、現在の福知山の発展の基礎を築きました。福知山光秀ミュージアムではその手腕の数々も紹介しています。福知山城下は、由良川(ゆらがわ)と土師川(はせがわ)が合流する地点で、たびたび氾濫を起こしていました。光秀は由良川に堤防を築き、前面には濁流の衝撃を和らげる藪を設けたと伝えられています。かつて蛇ケ端(じゃがはな)御藪と呼ばれていましたが、今では「明智藪」として親しまれています。
功績は河川の改修だけに留まりません。領民に課せられていた地子銭(宅地税)の免除を行い、安心して暮らせる町づくりの整備を行いました。様々な土地を渡り歩き、転戦を繰り返した光秀は、この地で領民との温かい交流を育んでいたことが想像できます。
謎が深まる光秀「家中軍法」
福知山光秀ミュージアムは元々の美術館の2階スペースを使っているため、空調などの設備が完備。そのお蔭で開催の1年間を10期に分けた重要な資料の特別展示が見られるのが目玉となっています。
取材の日に一番心に残ったのは、明智光秀の『明智光秀家中軍法』の古文書です。これは明智光秀を祀る『御霊神社(ごりょうじんじゃ)』に所蔵されている貴重なもの。とても綺麗で繊細な文字で、戦国の息遣いが感じられたような気持になりました。光秀が定めたとされる軍団の規律や、軍役の基準を記した全18条からなる軍法で、当時の織田家中には存在しなかった先進的なものでした。合戦の最中に将兵が私語を交わすことにより統率が乱れると判断して、私語の禁止などが書かれています。
この軍法の最後には、「瓦礫沈淪の輩(がれきちんりんのやから)」と自らを称し、川の底に沈んだ石ころのような我が身を引き立ててくれた、信長への感謝の思いを記しています。奇しくもこの軍法が制定されたのは、本能寺の変の1年前にあたる天正9年6月2日。書かれた日付と明智光秀の署名を見ると、何とも言えない気分になってしまいました。福知山の土地で、有能で知性的な姿に触れてみると、何かよっぽどの出来事があったのかと思わざるをえません。日本史上最大の謎と言われる通り、ますます謎が深くなってしまいました。
善政をしいた名君の姿を伝えたい
「本能寺の変」を起こした首謀者、逆臣といったイメージを持たれがちな明智光秀ですが、福知山では今でも名君として慕われています。それは、この地を訪れてみて実感として感じました。福知山城への道順を尋ねると、道行く人が足を止めてとても丁寧に教えてくれます。「市民は謀反人とは思っていないんです。福知山で善政をしいた優れた武将だったことを知ってもらいたいですね」と中井さん。
イメージアップのためにと作られた福知山限定・明智光秀が話す飲料の自動販売機が、福知山城天守台近くにあります。購入すると光秀のセリフが聞こえて楽しいです。市内に数箇所設置されていて、それぞれ話す言葉が違うので、ハイキングがてらに回ってみるのもいいかもしれません。
福知山光秀ミュージアム基本情報
住所:京都府福知山市字岡ノ32-64(福知山城公園内佐藤太清美術館2階)
開催期間:2021.1.11(月曜・祝)まで年中無休
開館時間:9時~17時(入館は16時半まで)
入場料:大人500円、子ども(小、中学生)250円
※福知山城見学とのセットは、大人700円、子ども300円
※1階の美術館展示も見学が可能
公式ウェブサイト