坂本から安土へ。明智光秀の治める坂本城から織田信長の居城である安土城へは当時は琵琶湖を渡るのが最短ルート。実際に坂本城は城内に琵琶湖の水を引き入れた水城であったといわれています。「御館様のご機嫌はいかがであろうか…」などと考えながら琵琶湖を渡ったかどうかその胸中はわかりませんが、光秀になった気持ちで琵琶湖から安土城のあった安土山を眺めてみましょう。
琵琶湖ネットワーク
近江は都に近く、また北陸へ通じる要所でもありました。信長は安土城を中心に、対岸に大溝城(織田信澄)、北岸に長浜城(羽柴秀吉)、南岸に坂本城(明智光秀)を置き、水上交通ネットワークを築きあげました。
坂本城は元亀2(1571)年、長浜城は天正3(1575)年に築城。安土城は天正4(1576)年から3年の月日をかけて築城、大溝城は安土城とほぼ同じ時期で、大溝城の縄張りは光秀が担当したといわれています。
宣教師ルイス・フロイスは、都と比叡山の抑えとして築かれた坂本城を「豪壮華麗で安土城に次ぐ天下第二の城」と評価。実際に坂本城には大天守と小天守があり、安土城の試作品との見方もあります。
坂本城から安土を望む
坂本城本丸跡から琵琶湖を眺める
光秀が安土へと向かう時は琵琶湖の水上交通を利用したと考えられています。直線距離は30kmに満たず、当時は琵琶湖を渡るのが最速ルート。堺の豪商で茶人の津田宗及(つだそうぎゅう)も坂本城に招かれた時に“ 御座船を城の内より乗り候て、安土へ参 ”と『天王寺屋会記』に残していて、坂本城から船で安土に向かったことがわかります。
ヨシの湖を行く
琵琶湖の風景で印象的な“ヨシ”。琵琶湖最大の内湖である「西の湖」は安土山の西に位置し、甲子園の約74倍の広さがあります。西の湖には琵琶湖全体のヨシの70%相当が群生していて、ヨシは水を綺麗にする働きや、魚の産卵場所や鳥の棲み家を提供するといった生態系保全にも一役買っています。
西の湖にはヨシに覆われた当時と変わらない素朴な原風景が残ります。
琵琶湖からの安土山
西の湖からは信長の居城があった高さ約199mの安土山が望めます。安土山には5重6階、地下1階の天主※があったことがわかっています。それまでの城の常識を覆す威圧感ハンパなしの見栄えです。サラリーマンならこの辺りでお腹が痛くなるポイントでしょうか。もう「今日のご機嫌はどうかな」なんて悠長なことは考えてはいられません。腹をくくるタイミングです。
現在は坂本から安土への船はありませんが、このように光秀気分を味わいたいなら西の湖めぐりがおすすめです。西の湖すてーしょんから午前1便と午後1便、定期便が運航していますし、グループで一隻貸切るという手もありますので、歴史好きの旅仲間で貸切るのもいいかもしれません。
内湖に囲まれた安土城
安土城は内湖に浮かぶかのような城でしたが、当時安土山に面していた内湖は干拓により消滅し、西の湖だけが残る今の形となりました。
現在の安土城跡
大手道
大手門跡を抜けると、石段が続く大手道。幅6~7m、約180mにも及ぶ直線の石段は他の城には見られないものです。
大手道の左右には羽柴秀吉や前田利家ら家臣の伝屋敷跡があります。しかし、こちらの大手道は実際には使われていなかったというのです。実際の登城口はここより西に位置する百々橋口(どどばしぐち)と言われています。
それではこの幅の広い立派な直線の石段は何のために作られたのでしょうか。安土城は軍事的な目的よりも、権力の象徴、見せるための城といわれています。実はこの道は天皇のための行幸道だったのではないかと考えられています。この石段の正面高くに豪華絢爛の天主がそびえ立っていたのでしょう。
百々橋口からの登城ルート
他の家臣と同じように、光秀も大手道ではなく百々橋口から尾根道を通って登城したと考えてよさそうです。百々橋口から登ると摠見寺を通って城へ入ることになります。摠見寺は嘉永7年(1854)に主要な建物が焼失してしまいましたが、仁王門と三重塔は現存してます。
城の中枢部へ
行幸道である大手道からも普段使われていた登城ルートからも、城の中枢部へは黒金門(くろがねもん)を通ることになります。黒金門付近には他の場所とは異なり巨石が使われており、重厚な雰囲気を醸し出しています。この付近の石垣にも高い熱によるひび割れのような火災の痕跡が見られますが、それでもなお400年以上もの時を経てどっしりと構えている姿が印象的です。
本丸には京都御所の清涼殿に似せた本丸御殿がありました。天皇のための立派な御殿ではありますが、なんと信長はこの御殿の上、天皇を見下ろすような形で自分の住む天主を作ったのでした。
光秀は「なんと畏れ多い…」と思いながら本丸御殿とそれを見下ろす天主を見ていたのかもしれません。「やっぱり今日はやめておこうかな…」なんて思っても時すでに遅し。もう天主はすぐそこです。
現在天主跡には礎石が残るのみ。本能寺の変の後の火災により、天主は焼失。一説には光秀の家臣の明智左馬之助(秀満)が火を放ったとも。左馬之助に関してはこのあと追っ手をかわして馬で琵琶湖を渡ったなどというミラクルな逸話も残っています。
謎の多い安土城は、その全容の僅か20~30%しか解明されていないといわれています。
もし発見されれば安土城調査を大きく推し進めることになるであろうローマ教皇に贈られた安土城図の屏風絵も、バチカン美術館の奥深く眠っているのか、はたまた別の場所に運び出されたのか、行方知れずのまま今日に至ります。
坂本城の今
では、もう一方の坂本城の現在の姿はどうでしょうか。水城であった坂本城は現在では琵琶湖の湖底に沈んでいてその姿を見ることはできません。まれに水位が低くなったタイミングで、石垣の一部が湖面から顔を出す程度のようです。
光秀が詠んだ句に「心しらぬ 人は何とも 言わばいへ 身をも惜しまじ 名をも惜しまじ」というものがあります。「自分の心を知らない人は何とでも言えばよい 身分も名誉も惜しくない」という内容です。
信長と光秀の関係については歴史上の謎として数多くの説が語られています。みなさんも坂本城跡から、安土城跡から、湖上(西の湖)から、その関係に思いを巡らせてみてはいかがでしょうか。
大河ドラマ「麒麟がくる」近江八幡市推進協議会 協力