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2020.07.22

そうだ秘境、行こう。片道約5時間半、トイレ休憩たったの3回。日本最長の路線バス旅!

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「あの〜うちに泊まられたことはありますか?」

予想していなかった問いかけに、ちょっと言葉に詰まる。瞬間脳裏に浮かぶのは、ここで「はい」とウソをついたほうがいいのかどうか。もしかすると、一見さんはお断りなのかもしれない。いやいや、ここでウソをついて切り抜けたところで、すぐにボロは出てしまうだろう。なにしろ、これから我が身一つで泊まりにいくのだから。
 
だから「いいえ」と答えると「ああ、そうですか」で話は終わった。名前と電話番号を尋ねられて「では、お待ちしています」と。
これが日本最長路線バスの旅の始まりであった。

和歌山をめざすために奈良へ

奈良県は橿原市(かしはらし)の近鉄線大和八木(やまとやぎ)駅前から和歌山県の新宮駅前まで紀伊半島を南北に縦断する、日本最長の路線バス。先年、和歌山に取材に出かけることになり、どうやっていこうかと考えて選んだのが、これだ。理由は単純。ただ新幹線や特急を乗り継いで向かうのではつまらない。普段は使わない手段で目的地に向かうのは、それだけで面白い。せっかくだから前泊して橿原市の名所である神武天皇陵などを見物するのも楽しいではなかろうか。そう思って、ネットで泊まるところを検索したところ一軒の宿を見つけた。

橿原市中心部は平凡な郊外の都市なのだが、こんな建物が残っていることに驚く

とても興味深い宿だった。たいていの宿が予約サイトに登録して、そこから宿泊を申し込む時代にどこにも登録していない。ネットで見つかるのは住所と電話番号。それに、いくつかの個人サイトで泊まった人の感想がある程度。それだけで、つげ義春の『リアリズムの宿』のような出会いがある気がした。果たして本当に営業をしているのだろうか。おそるおそる電話をしてみたところ、冒頭の会話になったわけである。

ほどほどにリアリズムすぎる宿

当日は半日ばかり、名所を訪ね歩いてから宿に向かった。大和八木駅からは100メートルほど。駅前のわずかな繁華街から外れたところに宿はあった。時代劇に出てきそうな旅籠そのままの雰囲気の建物には、古ぼけた「半九旅館」という看板があった。ガラスの引き戸を開けると、そこには商人宿という言葉がぴったりと似合う風景が広がっていた。
出てきたご主人に予約していることを告げると、すぐに部屋へ案内してくれた。部屋は二階の通りに面した部屋。どの部屋にも優劣はないとは思うが、通りに面しているだけでなにか得をした気分になった。風呂は交代制だそうで入る時間だけ聞かれると、そのままご主人は一階へ下りていった。

つげ義春のマンガが好きな人とか小躍りしそうな宿である

しばし部屋を観察し、探検というほどの広さでもないが建物の中をうろついてみた。和室の部屋は昔の商人宿そのもので、部屋にカギもない。21世紀の始まりあたりまでは、地方を旅するとまだまだ、こうしたスタイルの旅館に出会うことも多かった。駅で人に尋ねたり公衆電話のところに置いてある電話帳をめくって、その日の宿にたどり着くのだ。予約サイトのように口コミもないから、地図を頼りにたどり着くまではどんな宿かもわからない。

こういうノベルティグッズも最近は見なくなってしまった

そんなちょっとした旅行も今よりずっと冒険的だった頃を彷彿とさせる宿でった。ふと、廊下のところに貼られた茶色く変色した貼り紙に目をやって驚いた。変色した貼り紙にはなら・シルクロード博覧会と書かれていた。全国のあちこちで地方博覧会が盛んに開催されていた1988年に作家の井上靖を総合プロデューサーに招いて開催された博覧会だ。ボクは出かけはしなかったのだが、メディアでは盛んに取り上げられ、タクラマカン砂漠から持って来た砂の上を歩ける展示なんかがあったと記憶してる。そんな時代には、この旅館はどんな賑わいを見せていたのだろうか。

まさに商人宿という雰囲気の部屋。こういう宿に泊まりながら原稿を書く生活もいいか

ご主人に声をかけて、あれこれと聞いてみるのはあまりにも野暮なような気がして、一人で想像しているうちに眠りについた。

乗客の少なさに募る不安

翌日は朝から晴れていた。大和八木駅から新宮駅前に向かうバスは1日に3本だけ。車窓を楽しむのなら早い時間がいいだろうと、朝一番のバスに乗ることにした。その日は、新宮よりも少し前の川湯温泉に泊まることにしていた。それでも午前9時15分に出発したバスが目的地に到着するのは14時47分なのだ。日本でも1番の長大な路線なのだが、はじまりのバス停に特に感慨はない。出発地である大和八木駅前は少々古ぼけたベッドタウンの趣があるだけ。賑わいはとっくに郊外へと移っていっているわけだ。橿原市は、前述の通り神武天皇陵や橿原神宮などもある歴史の宝庫なのだが、街のターミナルにはそのような風情はない。ただ、かつては街の中心として栄えた残り香がやがて歴史になりそうな気がする。

けっこうバスは早い時間から待機している。本当に乗るのか覚悟を決める瞬間だ

そんなことを考えているとバスが来た。行き先表示板には「新宮駅」と書いてある。ここは奈良県でも京都や大坂に近いところなので、本当に遠くへいくんだということを意識する。そんな長大路線を走る車両だが、見た目はごく普通の路線バスである。でも、乗り込んでみるとつり革がなかったり座席が観光バスのようなしっかりした座席だったり長旅仕様になっているのに気づく。
車両の前方に向かって右左、どちらの座席に座るのがいいだろう。車窓の風景のことを考えたが、まったく気にする必要はなかった。なにしろ、ボクのほか客はたった3人だけだったからだ。

トイレ休憩が3回という試練

運転手の「発車します」の一言と共にバスは動き出す。しばらくはバスは市街地を走っていく。その間にも自動音声のアナウンス。このバス路線が沿線自治体の支援で維持されていることが説明される。

もともとこのバスは1963年に奈良大仏前〜新宮駅の区間で運行が始まった。奈良県の南の大部分を占める十津川村(とつがわむら)に国道186号線が開通したのは1959年。陸の孤島であった紀伊半島の中央部を貫く極めて重要な生活路線である。マイカーが当たり前となった現在では乗客は決して多くはないが、なくなっては困る路線。そのため乗客が減少した2011年の紀伊半島豪雨による水害以降は沿線自治体の支援で維持されているというわけだ。

以前は、電光掲示の昔ながらの料金表示だったそう。今でも書かれている所要時間が危険だ

路線の多くを占める十津川村へも道のりは長い。ベッドタウンと田園の入り交じった風景を1時間半ほど眺めて、バスはようやく五條(ごじょう)バスターミナルに到着する。途中3度ある休憩の1回目がここで入る。

当然だけど食べ物も売ってない

五條バスターミナルは市街地のイオンに併設されたものだ。まだまだ街の中にいる雰囲気は強いのだが、目の前に開ける紀伊山地を見ると、どのようにバスはくぐり抜けていくのだろうと思う。
もうひとつ気になるのは、休憩が3度しかないこと。バスの中にトイレはついていないから水分をとるのには気をつけなくてはならない。それに食べ物。きっと途中で食べ物を買うことなどできないだろうと、バスに乗る前にコンビニでおにぎりを4つ買っていたが、ここまでの1時間半ほどの道のりで、もう少し買っておいたほうがよかったかと不安になってしまった。

どう見ても距離のスケールが妙な地図。奈良県って本当に広いんだと確信する

10分ほどの休憩時間を終えてバスは再び走り出す。乗客は変わらず。自分のほかは、ハイキング風のリュックを携えた初老の女性たち。生活路線とはいうものの、地元民らしき人の姿はない。
五條を出るとバスは次第に山の中へと入っていく。自動音声で次々と次の停留所の名前が知らされ、料金表の表示が増えていく。もっとも降車ボタンが押されることはなく、バスはトンネルや峠を幾度も上り下りしながら走っていく。

この道のりで南朝のスゴさを体感する

30分ほど走ったあたりで、道路標示に賀名生(あのう)という文字が見えた。賀名生は南北朝時代に南朝方の拠点が置かれた土地である。1348年、南朝方の年号では正平3年に高師直(こうのもろなお)に吉野を陥落させられた後村上天皇が逃れて、この地に行宮を定めた。現代であってもただバスに揺られているだけでも、お尻が痛くなり疲労が積み重なっていく土地である。そんな道を逃れてくるのは、いったいどれだけ大変だったのだろうと考える。もとより、路線の多くを占める十津川村は幕末に尊王攘夷派に属した者の多い勤王の土地柄である。その源流を辿れば南北朝時代へと至る。かつて、都で政争に敗れたりしたものが、逃れるのがこの道だったわけだ。でも、単に敗北者が這う這うの体で駆け抜ける落人の道なのではない。やがて至る熊野灘は日本の東西へと海の道を繋げている。だから、この道は再起や再生を図る者の道だともいえる。

賀名生もゆっくり見物したいところだが、涙を呑んで次回へ。ちなみにまだ五條市である

次第に山は深くなっていく。バスの前方に向かって左側の窓から目を凝らせば、次々と停留所が過ぎていく。山の中のなにもないようなところのポツンとある停留所。数軒の家が並んだ集落にある停留所。その形は様々だ。その集落も、谷の中腹にへばりつくように家が並んでいたりする。なんで、ここの住人の祖先はこの土地に住もうと思ったのだろうか。山深く険しいとはいえども、多くの歴史が通り過ぎていった道だということを考えると、様々なドラマが浮かんでは消えていく。

それでもこの道は便利な道なのだ

車窓に流れる新緑を見ていると「住めば都ですね」と口走ってしまいそうになる。だが、ここは生きていくには覚悟のいる土地だ。時々、バスがスウッとスピードを緩める。そして運転手が「あちらが、水害の地すべり後です」と、簡潔にマイクで案内してくれる。そう、先年の和歌山県豪雨で谷を流れる川は暴れ狂い、あちこちで道も崩れた。

復旧工事は続くが熊野川の水は何年も経ったいまでも濁ったままだという

その結果として、現在の国道がある。復旧した国道はところどころで、これでもかというくらいにコンクリートの要塞になっている。かつては、集落の中を国道が通っていたわけだが、また数十年後にやってくるであろう水害に備えた新道は標高の高いところを通り集落が近づくと高度を下げていくを繰り返す。それぐらい頑強にしても耐えられるのか? ところどころに残る自然の猛威は、文字にならない、この土地の心性を語っているように見える。

土木工事の技術力を結集したような道が続く

そんなことを考えていると90番目の停留所である上野地についた。上野地では20分間の休憩がある。ここではトイレにいくだけではなく立ち寄りたいところがあった。近くにある谷瀬(たにぜ)の吊り橋である。
長さが297.7メートルあるという吊り橋は十津川村の名所である。歩道として使われている吊り橋としては日本で2番目に長い。

吊り橋ができたのは1954(昭和29)年のことだ。それまで対岸の谷瀬集落の人たちは川を渡るために谷の底まで降りて丸木橋を渡っていた。それではあまりにも不便だし、川が増水するたびに丸木橋は流れてしまう。そこで、当時集落で一軒当たり20万から30万円を出して工費の大半をまかなってできたのが、この橋である。上流に車が渡れる橋ができた今でも、ここは生活道路として使われていて地元の人や郵便配達はバイクで走り抜けていくという。

3分ほど歩いて吊り橋の前に来て、本当に渡ってよいものかと躊躇した。約300メートルほどの対岸は存外に遠くに感じる。なにより、想像していはずの川面から約54メートルの高さは想像以上だった。
それよりも、一歩踏み出すのを尻込みさせるのは注意書きだ。橋の入口のところに大きな横断幕が掲げられている。

危険ですから一度に20人以上は渡れません

平日の橋の回りにはほかに誰もいない。だから、渡っていて人が多すぎてプッツンと綱が切れてしまうなんてことはないだろう。でも、もしも自分が落ちそうになっても助けてくれる人はなさそうだ。橋は真ん中に板が渡されているだけで両側からは真下が見える。それに、手すりの金属製の綱もひょっとして間から落ちてしまうのではないかと嫌な想像をしてしまう絶妙な感覚があるのだ。

いきなり20人とか来ないと思うけど怖い

へっぴり腰で渡っていたら、バスの出発時間にも間に合わずに置き去りになってしまうかもしれない。でも、次に渡る機会はいつくるだろう。そう思って、走り抜けるように橋を渡った。ゆらゆらと揺れる橋はタイミングを合わせればバランスを崩すことはない。でも、300メートルは意外に長い。なんとか対岸にたどり着いて時計を見ると残り時間は10分。橋のたもとにある土産物屋も気になったが立ち寄っている暇はなく、もう一度走り抜けて対岸に戻った。

ここのお土産屋でグッズも売っているそうなので、次回はマイカーで来てみたい

東京に戻ってから聞いたのだが、この橋は生活用のため夜になっても閉じられたりはしない。そこで、京都や大坂の大学生は深夜で車に乗って訪れる一種の肝試しスポットになっているという。中には、ハイヒールでスタスタと渡る猛女もいるというのだ。それを聞いて、下が見える昼間と漆黒の闇に覆い尽くされた夜中とどちらが怖いのか、一度試して見たくなった。

熊野詣の厳しさをちょっとだけ感じる道中

 
バスに乗って一息ついていると「発車します」の一言があって、バスは動き出した。途中、十津川村の宿泊施設・ホテル昴でほかの乗客は全員降りてしまった。あとは、空気のほかはボクを運んでいるだけである。

そこで既に3時間以上。多少は気を遣っているようなしつらえの座席でもお尻は痛くなってくる。シートベルトもなく揺れているわけだから、ガタガタとする振動が身体全体に疲労を溜めていく。平たい田舎道を走るような閑散としたバス路線ならば運転手も、お客と雑談する余裕もあるのだろうが、道は険しい。だから、特になにかあるわけでもなく、バスは走っていく。

この写真だけを見ても、ここが日本のどこかわかる人は少ないだろう。そんなレアな道のり

平安や鎌倉時代の人々は、これより遙かに険路である熊野古道を通って熊野詣へと向かっていた。藤原定家(ふじわらのさだいえ)の記録には輿に乗っていたものの豪雨で人事不省になったという記録もある。それよりは現代はマシになっているのだろうか。いやいや、車窓を眺めながら無為に過ごすことができるのは、けっこうな贅沢ではなかろうか。
やがて、バスは長い長い奈良県を抜けて和歌山県へと入った。
まだまだ山は深いし目的地は遠い。それでも和歌山県という道路の標示が見えて、ホッとした。
紀伊半島と奈良県の広さを自分の身体全体を使って感じる。それが、このバス旅の価値なのだと思った。
もうちょっとおおげさに、こんなことも考えた。この試練を乗り越えれば日本国内のどんな過酷な旅も辛くはなくなるだろう……と。

最後に驚かされたのは女風呂だった

そこからは早かった。多少は平たくなった道路をバスは進み、川湯温泉へと至った。
大和八木からの運賃は4200円。とても路線バスとは思えない料金である。運賃を払って「ありがとうございました」と一言を添えて下車すると、バスは路線バスらしく無愛想に走り去っていった。
泊まれるところを尋ねて、一番安いホテルに素泊まりで入った。それでも、露天風呂が使えるというのでいってみると、河原に湯船が掘られている形式だった。

写真中央のゴザが掛かっているところが女風呂だった……

ちょっと驚いていると若い女性の嬌声が聞こえてきた。湯船は男女別なのだが、河原の少し離れたところに女風呂があって別段仕切りはなかった。男風呂のほうも更衣室から湯船までは、河原を5メートルほど歩かねばならないようだった。

このまま入ってよいのか、恐る恐る前に進んだ。幸か不幸か、灯りは少なくなにも見えなかった。 

書いた人

編集プロダクションで修業を積み十余年。ルポルタージュやノンフィクションを書いたり、うんちく系記事もちょこちょこ。気になる話題があったらとりあえず現地に行く。昔は馬賊になりたいなんて夢があったけど、ルポライターにはなれたのでまだまだ倒れるまで夢を追いかけたいと思う、今日この頃。