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2020.10.12

和歌が上手すぎて命拾いした戦国のスーパーマン、細川幽斎。ゆかりの地、京都と彼を支えた人を追ってみた

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結果的に「戦国の勝者」が決まった関ヶ原の戦いと関連する諸戦を通じて、東軍・西軍ともに多くの死者が出ました。足利将軍・織田信長のもとで武将として功を挙げ、同時に『古今和歌集(こきんわかしゅう)』の解釈などを「古今伝授(こきんでんじゅ)」という形で師から授けられるほど歌詠みにも優れていた「戦国のスーパーマン」細川幽斎(ほそかわゆうさい)も、本来なら上で述べた「戦の死者」になっていました。

しかし、なんと彼は「和歌の才能がありすぎる」という理由で、皇室総出になって助命されたという歴史があります。今回は、幽斎が晩年の居城とし、その場で死んでもおかしくはなかった戦「田辺城の戦い」の舞台となった田辺城を中心に、幽斎ゆかりの地を大特集!

戦に突入した背景や、戦で彼を支えた寺社の存在、戦後の田辺城の様子などを、実際に現地へ行って取材してみました。

3分でわかる「田辺城の戦い」

慶長5(1600)年、石田三成と徳川家康の対立は激化し、家康は自身に従わない上杉景勝(うえすぎかげかつ)を討伐するべく、諸将を従えて会津へ出陣しました。当時、細川家の家督はすでに息子の細川忠興(ほそかわただおき)に譲られていたため、彼は細川軍の大部分を率いて家康軍に参上。しかし、そうはいっても領国である丹後国を空っぽにするわけにはいかないので、幽斎を含む重臣数人とわずか500余の兵力でこの地の留守を預かりました。

ただ、三成はこの隙を見逃しはしません。たちまち1万5千といわれる大軍で幽斎を攻め、細川軍は他の城を焼き払って田辺城に籠城しました。

幽斎も合戦経験の豊富なベテランだったのですが、やはり多勢に無勢。大軍の勢いはすさまじく、幽斎は劣勢に立たされました。しかし、幽斎はあくまで降伏しません。西軍が田辺城攻めに乗り気でなかったこともあり、なんとか寡兵で持ちこたえることはできていましたが、落城は時間の問題でした。

「このままでは幽斎が死んでしまう……!」この事態を一番憂慮したのは、時の天皇である後陽成天皇(ごようぜいてんのう)であったといわれます。幽斎を死なせれば、古今伝授の秘技が失われてしまうかもしれない。そう考えた後陽成天皇は、最終的に天皇の勅命という非常に強い形で両軍に講和を命じ、さすがの幽斎もこれには従って城を明け渡しました。幽斎の特別扱いもさることながら、西軍の大軍は田辺城攻めにかかりきりとなり、関ヶ原本戦に間に合わなかったという意味でも重要な場面でした。

田辺城

本能寺の変勃発により政局が大きく一変したのち、幽斎は田辺城の建築を終えました。

城門は平成4(1992)年に建てられたものです

もともと、彼の領地である丹後国の中心地は、現代でも天橋立で有名な観光地・宮津。しかし、幽斎はあえて舞鶴の地に田辺城を築き、ここを東部の抑えに位置づけたといいます。

田辺城の特徴は、なんといっても「水」です。この地は伊佐津(いさづ)川や高野川といった河川がいくつも流れ込む平地で、加えて水分量が多く沼地のような場所だったといいます。

そのため、幽斎は城を造るためにわざわざ川の流れを変える「瀬替え」という大規模な工事を行い、なんとか城を築きました。

しかし、こうした話を聞いていると「じゃあ、もっと城に適した山の中とかに城を造ればいいのでは?」と思ってしまいます。幽斎は、なぜこんな城に適さない場所を選んだのでしょうか。

まず、戦国の後期には険しい山の中にあるような「山城」はだんだん築かれなくなっていき、代わりに田辺城のような「平城」が増えていました。これは城が単に守りの要害というだけでなく、戦の大規模化にともなって兵士たちを城下に住まわせ、城下町を繁栄させて交易や商売に活用する必要が出てきたからだといわれています。事実、田辺城の立地も川や海がほど近く交易に適しており、戦乱が終焉に向かう中でより領国の経営を意識した土地選びになったのでしょう。

ただ、そうはいっても戦のことを考えていなかったわけではありません。豊富な水資源を生かして何重もの堀を築き、攻めにくく守りやすい城に仕上げました。

写真左側で水色になっている部分が堀

また、瀬替えによって本来であれば川のある土地に城が建っているため、地下水が豊富に湧き出る特徴がありました。地元では「真名井の清水」として親しまれる良質な水で、これを城内にも引き入れていたため、田辺城での籠城戦でも役に立ったのではないかといわれています。

本丸の井戸跡

籠城戦が無事終結したのち、関ヶ原で東軍本体も勝利しましたが、戦後の細川氏はその功績から領地を2倍以上に加増されて国替えに。以後、この地は京極氏・牧野氏が城主となり、明治6(1873)年の廃城まで領国経営の基盤となりました。江戸時代には日本海海運の拠点として栄え、優れた城下町が形成されています。

つまり、幽斎の目論見は大当たりだったわけです。

現在、田辺城跡は「舞鶴公園」として整備され、江戸時代から残されている石垣や復元された城門、資料館などが併設されています。

施設名: 舞鶴市田辺城資料館(舞鶴公園)
住所: 624-0853 京都府舞鶴市南田辺15-22
営業時間: 資料館9:00~17:00、公園は入場自由、
定休日: 資料館は月曜日(祝日の場合はその翌々日)、祝日の翌日、年末年始
公式webサイト:  https://www.city.maizuru.kyoto.jp/kurashi/0000001204.html

桂林寺

続いてご紹介するのは、室町時代の応永8(1401)年に開かれたと伝わる曹洞宗の寺社「桂林寺(けいりんじ)」です。

田辺城からほど近い場所に位置するこの寺は、幽斎を含め細川家と非常に縁が深いことで知られています。

特筆すべきエピソードとしては、田辺城の戦いに際して、当時の住職・大渓和尚(だいけいおしょう)がとった行動が挙げられます。なんと、彼は修行する弟子たちを率いて田辺城へ向かい、籠城軍に参加したというのです。絶対的不利な戦況にも関わらず、お坊さんが戦場に突撃したというのですから、にわかには信じられない話でしょう。実際、今回取材で話を聞いた住職の方も「住職になって26年経つが、最初にこの話を聞いたときは『ホントかいな!?』と思った」と言っていました。

しかし、住職の方に聞けば、現在は熊本にある細川本家に伝わる古文書の中に「田辺御籠城図」という史料があり、そこで「桂林寺」と書かれたのぼり旗を見つけたとのこと。大渓が戦に参加していた可能性は極めて高いです。

桂林寺からの眺望(当時は田辺城を見下ろせたので、城を攻めた西軍がこの地に陣を敷いたとのこと)

さらに、この話はただ「参加した」だけでは終わりません。寺に伝わるところによれば、住職一同は籠城戦で大活躍。その功績から、細川忠興より室町時代の名画家・窪田統泰(くぼたむねやす)の書いた「絹本著色 仏涅槃図(けんぽんちゃくしょく ぶつねはんず:京都府指定文化財)」や「楚鐘(ぼんしょう:舞鶴市指定文化財)」の寄進を受けたそう。

その縁から、現在でも細川家とは深い付き合いがあるといいます。

他にも、境内には大規模な山門や国重要美術品となっている石灯籠(いしどうろう)、竜宮城のような形をしている鐘楼堂(しょうろうどう)など、見どころがたくさん。田辺城へ観光に行く際には、ぜひセットで訪れてほしい場所といえます。

施設名: 桂林寺
住所: 624-0936 京都府舞鶴市紺屋69

瑞光寺

桂林寺と同じく田辺城近くに位置する「瑞光寺(ずいこうじ)」。

こちらも細川家との縁が非常に深く、そもそも初代住職の明誓上人(みょうせいしょうにん)は幽斎の招きによってこの場所に瑞光寺を開山しました。明誓もまた大渓と同様に田辺城の戦いに参加し、城の搦手門(からめてもん)を守ったと伝わります。桂林寺といい、当時のお坊さんがどれだけの「ファイター」だったかよく分かりますね。

そして、やはり明誓もバッチリ戦果を挙げたよう。一説には、町屋100軒分ともいわれる広大な土地を褒美として与えられたと伝わります。また、正面の山門は田辺城からの移築であるとされ、幽斎の娘が明誓の家に嫁いでいたとも。

名実ともに細川家ゆかりの寺であり、数少ない田辺城の遺構が残されているという点で歴史的価値も高いです。

ちなみに、開山の明誓は、家系をたどっていくと南北朝時代に南朝で奮戦し、英雄的な存在として知られる「楠木正成(くすのきまさしげ)」に行きつくと伝わっています。そのため、境内には細川家の家紋だけでなく、楠木家の「菊水」紋も確認できました。

左が細川家、右が楠木家の家紋

細川家と楠木家。ともに室町時代の乱世で活躍した両家の伝統が息づく寺でもあるのです。

施設名: 瑞光寺
住所: 624-0929 京都府舞鶴市字寺内100

今後の「麒麟がくる」での活躍に期待

今回中心として取り上げた細川幽斎は、大河ドラマ『麒麟がくる』でも光秀の盟友として活躍しています。しかし、皆さんご存知の通り、彼は光秀を裏切るのです。
友達だと思ってたのに……。最期の最期で明智光秀を見捨てた二人の「盟友」
最近の回まで「こんなイイ人が、光秀を裏切るのか……?」と思っていました。ところが、放送再開後にドラマ内で足利義輝の追放が検討されると「義輝様の追放もやむを得ない」と、後年の伏線にしか思えない非情な決断を下しています。

今回紹介した「田辺城の戦い」はドラマで取り上げられないと思いますが、そこで描かれている「優秀で人当りもいいが、非情な決断を下すこともいとわない幽斎」の姿は、史実での人物像に近いのではないかと思います。ドラマを見て「細川幽斎」という武将に興味をもった方は、ぜひゆかりの地を訪れてみてください!

舞鶴市へのアクセスと観光情報

今回紹介した施設がある舞鶴市へのアクセスは、JR京都駅から西舞鶴駅まで特急で約1時間30分。東京からのアクセスも良く、土日を利用した1泊2日の小旅行にも最適です。

また、今回ご紹介した幽斎関連施設以外にも、舞鶴市には多くの観光スポットがあります。以下に関連する観光情報サイトを掲載いたしますので、旅行の際にはぜひチェックしてみてください。

海の京都DMO:https://www.uminokyoto.jp/
京都府中丹広域振興局 :http://www.pref.kyoto.jp/chutan/gaiyou.html

書いた人

学生時代から活動しているフリーライター。大学で歴史学を専攻していたため、歴史には強い。おカタい雰囲気の卒論が多い中、テーマに「野球の歴史」を取り上げ、やや悪目立ちしながらもなんとか試験に合格した。その経験から、野球記事にも挑戦している。もちろん野球観戦も好きで、DeNAファンとしてハマスタにも出没!?