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2021.07.20

戦死者の血を吸った板が天井に…。織田信長の孫の無念が遺る、岐阜・崇福寺の「血天井」

この記事を書いた人

初めて「血天井」を見たのは、中学校3年生の夏。きっかけは、確か夏休みの課題レポートだったと記憶している。

京都の東山にある「養源院(ようげんいん)」。
その血天井を見上げた瞬間、無神経にも、口を突いて出た言葉は「黒い……」

父から聞いた「血天井」という言葉。当時の私は、一体、何を期待していたというのか。「血」という言葉の先入観で、ほとばしる「赤」一色。まさか、その「血」が天井から滴り落ちるとでも? 今なら、お化け屋敷のアトラクションじゃあるまいしと一蹴できるが。そのときは、派手な見せ物を想像していたに違いない。

けれど、実際の天井はというと、ほぼ「黒」。生々しいわけでもなく、随分と時間が経ったことを物語る歴史の遺産であった。

「なんだ。思っていたよりも、もっと……」
そして、私は、次に続く言葉を飲み込んだ。いや、飲み込んだというよりも、失ったという方が正確だろう。

何気なく見ていた天井に。
気付けば、様々な形が浮かび上がってきたからだ。その多くは、手の形。大きく開かれた掌(てのひら)だったり、伸ばし切った指だったり。他にも、血に染まった様々なモノの跡が、くっきりと残っていた。急に目の前が3D化されて、約400年前の死に様が、見事再現されたような感じ。

さて、つい懐かしくなってダラダラと書いてしまったが。そろそろ本題へと話を進めよう。

戦場には、生死をかけて戦う者たちの血が多く流れる。そんな彼らの血を吸った「床」や「廊下」の木の板を、天井へ張ったのが「血天井」だ。

この「血天井」、なぜか、京都に複数ある。
最初にご紹介した東山区の養源院をはじめ、北区の源光庵と正伝寺、左京区の宝泉院、右京区の天球院、宇治市の興聖寺など、京都の寺院に安置されたものが多い。

だが、じつは、岐阜県にも。
とあるお寺に、この「血天井」があるというではないか。

その名も「神護山崇福寺(そうふくじ)」。
織田家の菩提寺としても有名なお寺である。

神護山崇福寺(そうふくじ)

いつ、どのような戦があったのか。「血天井」として保存されるに至った経緯とは何か。ここで座っていても、疑問は募るばかり。ということで、やはり現地へ向かわねばと。弾丸で、崇福寺へと取材に出かけたのである。

それでは、早速、ご紹介していこう。
「崇福寺の血天井」にも、やはり、1つのドラマがあったのだ。

※この記事に掲載されている写真は、全て崇福寺より撮影許可を頂いています

「血天井」の正体は、岐阜城の廊下だった!

「この辺りもそうですね……」
2人して、首を思いっきり90度に曲げる。もちろん「上」にだ。

「この辺りは、『手』の跡に見えなくもないですね。相当、こう見たら、いっぱいありますね。手というか、指みたいな感じですね」

神護山崇福寺のご住職「東海宏徳(とうかいひろのり/こうとく)」氏は、こう話す。

神護山崇福寺のご住職「東海宏徳(とうかいひろのり/こうとく)」氏
※写真撮影時のみマスクを外して頂きました

今回、訪れたのは、臨済宗妙心寺派に属する「神護山崇福寺」。JR岐阜駅よりバスで20分ほどのところにあり、近くには長良川が流れる。

神護山崇福寺(そうふくじ)

「昔は、川がこの前に流れていたんですね。もとは3つに分かれていましたが。ちょうど前の道路を西の方に向かって流れていたようなんですが。堰き止めて、今は流れていないんです」とご住職。

崇福寺の創建は永正8(1511)年。
廃寺同然になっていたこの寺を、斎藤一族の1人である斎藤利匡(としまさ)が整備したという。開山は、独秀乾才(どくしゅうけんさい)禅師。

何人もの名僧を輩出したとあって。
なんとも入った瞬間から、そここに目を奪われるお寺である。管理の行き届いた庭から、堂々たる姿の木造の本堂まで。凛とした佇まいに、思わず背筋がシャンと伸びる。

門をくぐれば長い通路が続いている

崇福寺の見事な庭園

崇福寺の本堂

「洪水だったり戦場になったりして、荒廃してたんですが。正保元(1644)年に、今の本堂が建てられているんですね」

これには驚いた。380年近く前に建てられたというが、全くその年季を感じさせない。もちろん、耐震工事として壁を増やすなど補強はしたようだが。それでも、こうして江戸時代から本堂が立派に残っていることは、感慨深い。

「もともとは、岐阜城の床板だったんです」

はて。
なんと、コチラの「血天井」が、じつは岐阜城の一部だったとは。それにしても、一体、岐阜城で何が起こったというのか。そして、どうして崇福寺の天井に使われたのか。

私は、「血天井」を凝視しながら、少しずつ頭の中で歴史を遡り始めた。

関ヶ原の戦いの前哨戦の行く末

日本の歴史上、幾度となく大きな戦いが繰り返されてきたことは、誰もが知るところ。いつの時代も、時の権力者たちが主導権争いに明け暮れる。なかでも有名な合戦といえば、慶長5(1600)年に起こった「関ヶ原の戦い」であろう。

この戦いで、徳川家康率いる「東軍」の勝利が確定し、のちに300年弱続く江戸時代が始まっていくのだが。じつは、天下分け目の戦いは、この戦い1つではない。もちろん、時系列でみれば決定的な最終局面の戦いではある。しかし、日本各地では、その前から、既に「関ヶ原の戦い」の前哨戦が始まっていたのである。

関ヶ原古戦場

山城(京都府)の伏見城では、徳川家康の友で最も信頼のおける家臣であった「鳥居元忠(とりいもとただ)」が壮絶な最期を遂げる。丹後(京都府)の田辺城では、「細川幽斎(ゆうさい)」がのらりくらりと籠城するも、朝廷の働きかけで開城。これらは前哨戦の一部だが、両者とも「東軍」側の城が落城した結果に。

一方で、もちろん「西軍」側の城が落城した戦いもある。それが、美濃(岐阜県)の「岐阜城」の攻防戦である。

当時の岐阜城の城主は「織田秀信(ひでのぶ)」。
「織田」の姓がつくだけあって、ご想像の通り、織田信長の一族である。それも直系、信長の孫にあたる人物だ。幼名は「三法師」。

三法師といえば、「清須会議」の場面を思い浮かべる人が多いだろう。天正10(1582)年に織田信長が「本能寺の変」で自刃し、三法師の父であった「信忠」も同じく運命を共にする。こうして天下取り目前で、信長の宿願は残念ながら潰える形に。

それだけではない。信長の死により、戦国の世はさらに混乱。次期ポスト争いが新たに勃発し、その争いに巻き込まれたのが、孫の三法師であった。議論の場となった「清須会議」にて、豊臣秀吉(当時は「羽柴秀吉」)より支持を受け、三法師はわずか3歳で織田家の後継者となるのであった。

「織田信長公画像」(崇福寺所蔵)

ただ、その後、実際に織田一族が天下を取ったかというと。
そこまで世間は甘くない。二男の「信雄(のぶかつ)」や三男の「信孝」らがいたにもかかわらず。いつの間にか天下人になったのは、三法師を利用した秀吉。

当の三法師はというと。
この秀吉から諱(いみな)の1文字である「秀」を与えられ「秀信」と名乗ることに。文禄元(1592)年には岐阜城主となり、秀吉から13万石を与えられる。ちなみに、当時の秀信は13歳。さすがの秀吉も、そこまで無下な扱いはできなかったようだ。

このまま、安泰な日々が続くかと思いきや。秀信に、さらなる過酷な運命が襲いかかる。
それが、秀吉の死。

またしても、天下取りの争いに巻き込まれる秀信。当時、彼は21歳。ここで、政局を読み違わなければよかったのだが。「西軍」側より誘いを受けて、そのまま与することに。秀吉に対して、岐阜城主となった恩義を感じていたのか。結果論だが、秀信は勝ち馬には乗れなかったのである。

慶長5(1600)年8月22日。
「関ヶ原の戦い」の2週間ほど前であろうか。各地で前哨戦が行われているなか、岐阜城にも東軍が押し寄せる。なお、この戦いに参戦した「東軍」側の武将はというと。秀吉子飼いの「福島正則」、そして「池田輝政」らの豪華な面々。蓋を開ければ、秀吉に大事にされていた戦国武将らが、ぞくぞくと「東軍」へと鞍替えしていたのである。

そんな「東軍」側の兵力は大きく、両者の差は歴然。この展開に、秀信の家臣らは岐阜城にて籠城戦を進言するのだが。

秀信は頑として首を縦に振らなかった。そして、家臣らの反対を押し切り、岐阜城から打って出て野戦を挑んだのである。

案の定、結果は大敗。

残念ながら、西軍側からの援軍は期待できず。さらなる「東軍」側の攻撃を受け、岐阜城は、まさかのたった1日で陥落。時間を稼ぐコトすらできないこの敗北は、今後の「西軍」側の動きに大きく影響を及ぼすことに。

こうして日本各地の前哨戦は、やがて「関ヶ原の戦い」へと繋がっていくのである。

戦死した将兵38名の声なき声

「ここから見えますね。あの、金華山の上なんで。岐阜城は、あそこの一番上」

言われるがまま本堂の戸を開けると、ちょうど山上に城が見えた。実際に、岐阜城と崇福寺を見比べると、その位置関係は思いの外、近いことが分かる。つまり、あの場所から、「血天井」となる床板が運ばれたということか。

岐阜城

「ちょっとはっきりした経緯はわからないんですけど。岐阜城は、関ヶ原の戦いの1ヵ月前くらいに『東軍』に攻められて。そのあと、お城に入った人はおらず、岐阜城は廃城になって。加納にお城が建てられて。加納城は岐阜城の材木を使って建てられたという話なんですけど。その時に、この床板だけこちら(崇福寺)に運ばれたようです」

本堂の廊下の天井3面に「床板」が張られている

本堂の一番外側。くるりと囲うように廊下が続く。その天井一面に張られたとなると、予想以上に使われた床板は多いといえる。

ただ、よく考えてみれば。
歴史の上では、岐阜城はあっさりと1日で落城したといわれているが。だからといって、戦死者がいなかったワケではない。それまでに多くの者が命を落とし、無念の最期を遂げたはずなのだ。

当時の戦を思い描き、「血天井」の1つ1つを目で追っていく。説明書きには、このように記されていた。

「戦死した将兵(38名)の霊を弔うため」

討死や割腹など理由は様々。そんな彼らの思いを少しでも浄化させたい。だからこそ、血が染み込んだ床板を、そのまま天井に張ったのだろう。

「手の跡は…どれがそうかといわれても、分からないんですけど。まあ、だいたい着ているものの跡とかかなと、そのように見えますね。まあ、私もあんまりマジマジと見たことがないので」と苦笑するご住職。

手や指の跡のようにもみえる(崇福寺の「血天井」)

武具など身に着けているモノらしき跡も(崇福寺の「血天井」)

さて、ここで気になるのが。
城主の秀信のその後。
家臣らが、我が命を捨てでも守りたかった主君の顛末はどうなったのか。

岐阜城は落城。秀信はというと。
円徳寺で剃髪し、数名の家臣らと共に高野山(和歌山県)へ。当時の高野山は「アジール(聖域)」的な存在。罪の浄化作用を期待してとも考えられる。

なお、秀信はかの地でひっそり暮らしたというが、その後、どうやら側室なども設けていたようである。ただ、家臣らの願いも届かず、長生きはしなかった。若くして死んだとされている。

じつは、10年ほど前のこと。
この秀信の子孫の方々が、崇福寺にお参りされたことがあるのだとか。

「先代(の住職)が会ったんですが。『織田』と書いて『おりた』と呼ぶということらしいんです。和歌山の方に住まわれてるようですが」とご住職。

崇福寺が織田家の菩提寺だからだろう。
それにしても、現代まで脈々と受け継がれている織田家の血筋。この話を聞いて、岐阜城に散った家臣らの思いも通じたのだと、少し気持ちが軽くなった。

一方で、「血天井」として、戦死者の霊を弔った崇福寺はというと。江戸時代に入り、徳川家より32石を拝領。のちに有栖川宮家の祈願所に指定されている。織田家関連の貴重な寺宝を後世に引き継ぐ同寺。戦国時代ファンを惹きつけてやまないのも頷ける。

最後に。
冒頭でご紹介した養源院の「血天井」は、徳川方の鳥居元忠ら「東軍」側が籠城した「伏見城」の床板だという。

そもそも初めから、勝負など成立するはずもない。それほどまでに圧倒的な兵力差。そんな不利な状況であってもギリギリまで持ちこたえ、鳥居元忠は最大限に時間を引き延ばした。全ては家康との約束を果たすため。

こうして、じつに伏見城では多くの血が流れた。鳥居元忠をはじめ籠城した将兵の最期は自害。養源院のみならず、京都の「血天井」の床板は、そんな伏見城から運ばれたもの。徳川方の将兵を供養するために、天井に用いたのである。

そして、今回訪れた崇福寺の「血天井」も。
「東軍」「西軍」に違いはあれど、勝敗が既についている状況は「伏見城」と同じ。どう転んでも勝つことはできない。先には、悲惨な結果が待ち受けているのを承知で、彼らは最後まで戦った。逃げなかったのである。

若かりし頃見た「血天井」には、安直な感想しか持てなかった。
怖い、大変だ、可哀そう。

しかし、今は違う。
耳を澄ませば、彼らの声なき声がこだまする。

彼らの選択が正しいか、正しくないか。
そんな単純なものではない。
一滴の「血」の背後には、何千もの人々の葛藤が透けて見えるのだから。

今、彼らの「血」が染み込んだ天井を見上げて、こう思う。

正しいか、正しくないかではない。
ただ、理解できる、それだけだと。

撮影:大村健太

参考文献
『戦国合戦地図集』 佐藤香澄編 学習研究社 2008年9月
『信長公記』 太田牛一著 株式会社角川 2019年9月
『その漢、石田三成の真実』 大谷荘太郎編 朝日新聞出版 2019年6月

基本情報

名称:臨済宗妙心寺派 神護山 崇福寺
住所:岐阜市長良福光2403-1
公式webサイト:http://www.sofukuji.net/

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。