幾つもの音が輪唱のように耳に届く。
寄せては返すヒーリングミュージックばりの完璧な波の音。
そこにトビの鳴き声が重なって。
ピーーーヒョロロー。 ピーーーーーヒョロロー。
トビって。随分、最初のピーが長いんだな。
そんなどうでもいいコトを思いながら。
遠くで鳴く蝉の声に、思わずハッと目を開けた。
これぞまさしく夏の海辺……じゃないない。
ミンミン……って、10月中旬だぞ。今は。
ほんでもって、16時過ぎなのに未だ太陽が真上近くにいる感じ。
季節感バグる長崎の海を前に、しばし呆然と立ち尽くす。
そんな混乱気味の私に優しく寄り添ってくれたのは。
海辺の先端で航海の安全を見守る「岬の聖母像」。
後ろ姿だけで「慈愛」を感じさせるその佇まいに。
先ほどまでの心のざわつきが、ゆっくり静かに収まっていく。
そして、しばらくして。
心は凪になったのである。
これって、一体、何の記事?
そう思われた方もいるだろう。
今回の記事は、ダイソンの寺社探訪シリーズの「番外編」。
シリーズ7回目にして訪れたのは予想外の場所、長崎湾の入口近くにある「神ノ島(かみのしま)教会」だ。
ついでに、せっかくの番外編なので。
ほんの少し趣向を変え、教会の取材のみならず周辺もぶらぶらしようという企画である。いつもの如く五感を研ぎ澄ませ、心の声も届けたい。そんなエッセイスタイルで、今回は「神ノ島教会」とその周辺をご紹介しよう。
※本記事の写真は、すべて「神ノ島教会」に許可を得て撮影、使用しています
ホントは小さな離島だった「神ノ島」
JR長崎駅からバスに乗ることおよそ25分。
向かった先は、中華街やオランダ坂など観光エリアとは逆方向。地図上では長崎駅の西側方面となる。海から山、そして工場エリアと、景色は目まぐるしく移り変わり、最後は再び海沿いの道へと戻っていく。
そんな道中、とりわけ興味を引いたのが、大型の造船所だ。ドックの横を通過するたびに、クレーンや船体の大きさにクラクラして目が離せない。なるほど、長崎が造船の町といわれるのも納得である。

そのうち、バスはゆるゆると停車。
最寄りのバス停は「神ノ島教会下」である。
じつは、「神ノ島教会」を訪れるのは先月と今月で2回目となる。
9月末に設定した司祭への取材の日は、残念ながら雨。それも海辺近くに建つ教会なので、バス停から向かう途中、猛烈な風に煽られて傘も裏返るほど。カメラを保護し教会へと辿り着くだけで精一杯だったのである。
どうせなら、晴天の日に撮影したい。
そんなカメラマンの意向もあり、10月中旬に、再び「神ノ島教会」へ。
前回の雨の日には周囲を見る余裕など一切なかったが、改めて見ると、また違った風景が目に入ってくる。漁港があり、ちょうどよい堤防もあり、なおかつ澄んだ海も。夕まずめの時間には釣り人の姿も増え、恐らく付近一帯が絶好の釣りポイントなのだろう。

一方で、海とは反対側を見ると。
かなり高い位置、山の中腹に建つ白い建物が見えた。今回の目的地である「神ノ島教会」だ。
デュラン神父の私財と信者らの資金拠出により、現在の「神ノ島教会」が献堂されたのは明治30(1897)年。
長崎県の中で100年以上の歴史がある教会は22もあるというが、そのうち一番古いのは「大浦天主堂」。「神ノ島教会」は6番目で、令和4(2022)年に献堂125周年を迎えたという。

教会の名である「神ノ島」は地名である。
現在は陸続きとなったので分かりづらいが、かつてこの地は、その名の通り「島」であった。島の名前の由来だが、一説には「神功皇后(じんぐうこうごう)」がこの地を訪れ、榊(さかき)に鈴をつけ祈願したからだとか。
ちなみに、豊臣秀吉の時代の「神ノ島」は直轄地だったという。
だが、次の徳川の世、江戸時代に入ってからは佐賀藩深堀領となり、佐賀藩から離れた飛び地となった。その後、明治時代になって「神ノ島村」として独立、昭和42(1967)年に島の北側が埋め立てられて陸続きに。「島」ではなくなったのである。
長崎市内にしては珍しく平坦な道が続くと思っていたが、道理でと腑に落ちた。ただ、喜んでばかりもいられない。小道を抜けて教会の前に到着すると、かなり傾斜のある階段がお目見え。ここぞとばかり、カメラマンに先を譲ることにした。

階段は88段あるという。
段数は多くないが傾斜が半端ない。お年を召した方にはキツイだろうにと思っていると、どうやら信者の高齢化に配慮して平地にも教会の建物があるようだ。
一気に駆け上がるカメラマンの後ろ姿を恨めしそうに眺めつつ、荒い息を吐きながら2度ほど首を傾げた。あれれ、こんなにも身体って重かったっけ。まさか私にだけ重力が効きすぎる謎の現象が……。不可解にもほどがあると嘆くも、そうだ、恐らく溜まりに溜まった記事のせいだと無事に責任転嫁が完了。単なる運動不足と代謝機能低下をなかったことにして、階段を上がる。
あと数段のところ。息を整えようと立ち止まったところで、誰かの視線を感じた。じっと見られているような……横を見れば、いつからいたのか、人懐っこい猫と目が合った。なんとも愛嬌のある猫である。これだけで、階段の辛さも吹っ飛ぶのだから、癒しの効果はスゴイのひと言。
ようやく階段の上まで到達すると。
眼下には、陽光に煌めく海。遠くの方には白い「女神大橋」が見える。まさに絶景を眺める最高のロケーションだ。午後の日差しはきついが、涼しい風がとても心地よい。
目的地の「神ノ島教会」はお出迎え猫のすぐ後ろ。
明治9(1876)年の当初は、別の場所に仮聖堂が建立されたというが、明治14(1881)年、ラゲ神父によって、現在の場所に木造の教会が造られた。

その後、デュラン神父が設計したのが、現在の教会だ。
外観では判別しにくいが、レンガ造りである。
当時は階段の下がすぐ海岸であったため、船で建材を運搬したようだ。のちにレンガの摩耗と劣化防止のため、上から漆喰で覆ったという。
禁教時代から現在に受け継がれる信仰
それでは、早速、教会の中へ。
門を通って、左側にぐるりと回れば教会の入口。右手に行けば、信仰の水先案内人として語り継がれる「西兄弟」の墓と顕彰碑、さらには「高鉾島(たかほこじま)殉教者の記念碑」がある。

──高鉾島
ちょうど石碑の向こうに見える、目の前の小さな島のことだ。「神ノ島」からみて南東に位置し、「神功皇后」が鉾(ほこ)を立てたという伝承から島の名前が付いたようだ。
ちなみに、当時、海外からは別の名前で認識されていた。
江戸時代にオランダ商館の医師として来日したケンペルの著書『日本誌』。その中の地図に記された高鉾島の名前を訳すと「殉教聖職者の山」となる。
その約85年後、ケンペルと同じく医師として来日したツュンベリーも、著書『江戸参府随行記』の中で大勢のポルトガル人修道士が高鉾島の山の絶壁から海に突き落されたとの内容を記している。それを信じるならば、まさに殉教者が多く眠る島といえるだろう。

実際に高鉾島で処刑されたのは宣教師だけでない。
彼らを匿うなどした協力者たちも処刑されている。「神ノ島教会」の殉教者の記念碑に記された名前は「ガスパル上田彦次郎」と「アンドレア吉田」。
当時は、江戸幕府の「禁教令」により、キリスト教を表立って信仰することが難しくなった時代。だからといって、信者全員が棄教したわけでもない。キリシタンだと発覚してもなお棄教せず殉教した者、一方で隠れて密かに信仰した者など、状況に応じた形で信者は祈ることを止めなかった。
両名は、まさに「祈り」だけでなく、行動にまで出た人たちだ。追われた宣教師を匿った罪で捕縛、元和3(1617)年10月1日、あの高鉾島で斬首された。「司祭がいなくなることは自分の命を失うよりも辛い」。彼らは尋問の際にこう話したという。

「ちょうど明日が殉教記念祭なんですよね」
「神ノ島教会」の司祭、山内啓輔師(以降は「山内神父」と表記)がそう教えてくれた。
取材したのは9月末。毎年、殉教日の前後の日曜日に殉教祭を執り行うという。
ただ、高鉾島には渡れないという。
無人島だが、じつは私有地。信者ではない一般の方が高鉾島を購入したため、勝手に島に渡ることができないのだとか。

さらに、同じ場所にある顕彰碑についても教えてくれた。
やはり「神ノ島教会」を語る上で、外せないのが彼らふたりであろう。「ミカエル西忠吉」と「ペトロ西政吉」の「西兄弟」である。
「神ノ島教会」の資料によると、禁教令時代でも江戸時代初期の段階で、既に「神ノ島」にキリシタンが住んでいたようだ。さらに「大村の郡(こおり)崩れ(キリシタン検挙・弾圧事件)」では、大村藩の信者が逃げてきたとも。江戸時代後期には、外海(そとめ)地方からの移住も確認されている。島民の多くが信者だったこと、離島であるため監視の目が届かなかったことなどの理由で「神ノ島」では代々、信仰が受け継がれていったという。

とはいえ、やはり正々堂々と信仰を外部に表すわけにはいかなかったはずだ。そんな耐え忍ぶ時代が過ぎ、大きな転機となったのが元治2(1865)年の「信徒発見」だ。
当時は未だ江戸時代だったが、既に鎖国政策も終わり、各国の貿易商人達が長崎に居留。そんな居留地の外国人のために建てられたのが「大浦天主堂」である。「天主堂」と掲げられた文字を見た潜伏キリシタンが、意を決して来日中のプチジャン神父を訪問。そこで、キリスト教の信仰を告白したのである。
こうして信徒発見の噂が流れると。
神ノ島の漁師であった「西兄弟」が動き出した。彼らも秘密裏にプチジャン神父を訪ね、彼がローマ教皇から派遣された神父であるかを確認。分かった瞬間には、あまりの喜びにひれ伏したという。
その後、ふたりは自分たちの船を使って各地のキリシタン集落を訪れた。命懸けで船を漕ぎ、彼らと神父の橋渡しとなって布教活動を行なったのである。
そんな西兄弟を称え、平成12(2000)年、彼らの墓は教会の敷地内に移されている。

昔の人々が命を懸けた信仰。
それは、今なお「神ノ島」の住人へと受け継がれている。
「信者の登録者数は400人強ですかね。クリスマスの時は(ミサなどの参加者数が)200人弱ぐらいだと。昔はそれこそ2階の上までいっぱいになってたっていう話ですけど。やっぱり(階段を)のぼりきれない人たちがたくさんいらっしゃって」と山内神父。
日本のカトリック教会の教区は15ある。
そのうち「長崎教区」の管轄は長崎県で、東京に次いで信者が多いといわれている。当然ながら教会の数も多く、長崎教区内で司祭が常駐する教会は約70ほど。彼らは同じ教会に留まるのではなく、数年おきに異動するそうだ。
山内神父にこれまでの赴任先を尋ねると。
「神父になって10年目ですかね。最初は浦上に2年行って、福江(五島)に1年行って。イタリアに2年行って、本部で1年……」
現在の「神ノ島教会」は約5年。一番長いのだという。
移住歴がそこそこの私でも、さすがに1年での移動はない。司祭が、じつはこれほどの転勤族だったとは驚きだ。

それにしても、なかなか大変な仕事だ。
住む場所が変わるだけでもひと苦労。その上、新たな赴任先で住民たちと、ゼロからまた新しい関係を築いていく。同じ信仰を持ってしても、容易ではないだろう。所変われば……というではないか。
「いや、じつは……全教会で同じなんですよ。日本でも世界でも。いわゆる教会のカレンダーがあって、(例えばミサにしても)聖書の部分はここを読んでくださいとか、決まっているんです」と山内神父。
驚きの情報だ。
つまり、信者からすれば、どこの教会に行っても同じ内容のミサを受けられるということか。もちろん、司祭の話はそれぞれだろうが、テーマとなる聖書の一節は同じ。ミサを司式する側、受ける側、それぞれにとって非常に合理的な仕組みといえるだろう。

こうして、色々とお話を聞かせていただいたところで、取材は終了。
やはり知らない世界は、奥深いものである。
未知なる世界に、ほんの少しだけ触れられた気がした。
「岬の聖母像」のラストショット
雨の日はそのまま「神ノ島教会」をあとにしたが。
2回目の訪問では、せっかくの天気に恵まれたのだ。今度は周辺をぶらぶらと歩くことに。
まずは教会の聖堂を出て、山手側に見える聖母マリア像に一礼。
再度、高台からの眺めを堪能しつつ、階段を降りようとしたところで。むむむ。またもや、誰かの視線が……。
やっぱり、キミか。最後にまたしても、猫と目が合った。
鞄からスマホを取り出すたびに、餌をもらえると勘違いしてずっと後ろをついて来たのだが。ようやく猫も無駄骨だと理解して諦めた様子。見送る様子もない猫を横目に、教会をあとにした。
次に向かうのは「岬の聖母像」である。
最初に建てられたのは昭和24(1949)年。キリスト教伝来で有名な「聖フランシスコ・ザビエル」。彼の渡来400周年記念で建立されたが、のちに建て替えられたという。現在は2代目の聖母像で、高さは約4.6mだとか。
海に近付くにつれて視界が開け、遥か彼方には女神大橋の姿が見えた。
ふと、同じような景色を思い出した。あれは富山県の「新湊大橋」だったか。これまで多くの地域を移住してきたが、一時期「富山県」に住んでいたことがある。釣りが好きだったので休日の度に漁港へとよく足を運んだものだ。ぶらぶら歩いていると、そんな懐かしい記憶が一気に甦ってきた。

そうこうするうちに「岬の聖母像」に到着。
じつは今回の取材で、どうしても「岬の聖母像」を写真に収めたかった。
元々撮影予定ではあったが、偶然にも取材前日に「岬の聖母像」の話題がネットニュースで流れたからだ。なんでも今年の3月に降った大雨で、聖母像の建つ岩盤が崩れ、移設予定だというのである。
「(崖の)下が崩れてきて、ちょっと危ないので、どうにかしてくださいと長崎市の方から言われたので。私の一存では決められないので、アンケートをとって信者さんたちの意見を聞いたんです」と山内神父。
中学生以上の信者335人の投票により移設候補地を決定。半数近くの信者らが教会前の海岸付近の平地を選んだとか。移設費用は1,000万円超。なかなか大変な金額だが、寄付やクラウドファンディングで賄う考えだという。予定では本年度中に着工、来年度中の完成を目指すそうだ。

つまり、今後は「崖の上」にいる「岬の聖母像」ではなくなるということ。約8mの崖の上から、長崎湾の入口を見守るシルエット。その姿をもう見ることができないのだ。
ならば、ここはカメラマンに頑張ってもらうしかない。
やはり階段を上がって岩の上に立ち、聖母像の真下からを狙うか……。いや、少し離れて真正面からのショットもいいだろう。とはいえ、さすがに海の中から撮影を……という提案もできず。「岬の聖母像」の前に広がる岩場あたり、通称「ドンク岩」が最適だと、カメラマンと打ち合わせをした。ドンクとは、長崎県の方言で「カエル」という意味で、遠目から見れば似ているのだろう。

あとは撮影のみと意気込んでいると。
なぜか、急に無言で立ち尽くすカメラマン。後ろ姿が悲しそうである。
はて。最近どこかでこの光景を見たなと、デジャブを疑い始めたところで、急に清水寺の梵鐘の撮影を思い出した。一体、何が起こったのかと、彼の背後から覗くと。柵と共に立ち入り禁止の文字が見えた。
確かに確かに。岩盤が崩れそうだから「岬の聖母像」を移設するという話なワケで。立ち入り禁止にするのは、ごもっとも。さすがにこれを無視して柵を乗り越えるチョイスはありえない。こうして色々な場所でレンズを覗いた結果、残念ではあるが、大人しく斜め後ろ付近より「岬の聖母像」を撮影することとなった。
それにしても驚いたのは「岬の聖母像」と「鳥居」が同居しているコトである。こちらは「恵比寿神社」の鳥居だとか。大漁祈願、海上安全など、海と関りのある御利益があるのだろう。

再び、「岬の聖母像」を見つめる。
このショットが見納めかもしれないと思うと、少し寂しい気もするが。
場所がどこであろうとも。
航海の安全を見守ることに変わりはない。
ちなみに、私のイチ押しはコチラの写真。

後ろ姿が表す、無限の包容力。
しばらくすると、やはり心は凪になったのである。
取材後記
つい最近、カメラマンから、あえて寺と神社にこだわる理由は?と訊かれた。
タイトルがねえ。まあ「寺社探訪」っていう名前のシリーズにしたから……と答えるワケにもいかず。けれど、逆に、その問いかけで気付いた。自分が何を考えているのか、どんな信念や願望を持っているか。コーチングを受けたように目が覚めたのである。
なにも「寺」や「神社」という外側の「器」で判断しなくてもよい。それが教会でもモスクであっても構わない。言い方は乱暴だが、怪しげな新興宗教でなければ、信仰の対象はなんだっていい。今も昔も共通する「人々の信じる力」に魅せられて取材しているだけなのだから。
そうして選んだのが、今回の「神ノ島教会」だった。
これまでも「教会」には興味があったし、写真でひと目見て、崖のような高台に建つその姿が忘れられなかったのである。

取材と写真撮影で、2回にわたって「神ノ島教会」を訪れた。
周辺を歩きながら「神ノ島」そのものの歴史を肌で感じ、取材からも多くの知識を得た。だが、私の心に一番残ったのは、人々の中にある生きた信仰だった。
私たちは、つい「器」だけを見てしまう。
あの神社の静かな雰囲気が好き、この寺の見事な庭園を見たい、その教会のステンドグラスがとても綺麗……。そういう意味では、確かに白亜の「神ノ島教会」も高台に建ち、「岬の聖母像」も見事。夕日差すステンドグラスも見応えは十分だ。
その一方で、教会内部は少し雰囲気が違った。パイプオルガンの音色が鳴り響き、荘厳で厳粛で……という空想の中の「ザ・教会」のイメージよりは、どちらかというと現実的。数多くのキリスト教関連の新聞、ミサや行事関連のチラシ、洗礼申込書などが置かれ、小さな告解室もあった。日々の祈りが積み重なった光景だったのである。
ある者にとっては見学施設だが。
ある者にとっては信仰の場であり、神と対話する大事な場所なのだ。
改めてその事実に気付いた瞬間、「人々の信じる力」に魅せられてと言いながら、自分が外側しか見ていなかったことを恥ずかしく思った。

今更ながらだが、目に見えるモノが全てではない。
だからこそ、この仕事を選んだ。目に見えないモノを、つたない「言葉」でどこまで伝えられるのか。読んだ人に、どうすれば心で感じ取ってもらえるのか。
教会で生きた信仰に触れたことが、再び初心を強く刻むきっかけとなったようだ。
「神ノ島教会」を訪れた日。
それは意外にも、自分自身と対話する日となったのである。
参考資料/カトリック神ノ島教会献堂125周年記念・神ノ島教会の沿革
基本情報
名称:神ノ島教会
住所:長崎県長崎市神ノ島町2-148
公式webサイト:なし
「ダイソンの寺社探訪」シリーズ一覧はこちら。

