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Culture
2020.06.15

あの豊臣秀吉が激怒して懸賞金をかけた男!徳川四天王・榊原康政の「無」の境地とは?

この記事を書いた人

2015年、世界に衝撃的なニュースが走った。
ロシア連邦保安庁が発表した懸賞金についてである。

エジプトで起こったロシアの旅客機墜落事故。関与したテロリストの特定に役立つ情報提供に、なんと5,000万ドル(当時のレートでは約61億円)の懸賞金を支払うというのだ。犯罪史上、この金額はとてつもないモノ。それほど、ロシア政府の本気の怒りが感じられる。

そう、懸賞金は、一言でいえば「怒り」だ。
絶対に許せない。
探し出してやる。
何をしてでも捕まえてやる。その、「何をしてでも」の極端な例が「カネ」なのだ。執念のような、呪いのような。そこには、どす黒い底なし沼のような「闇」が存在する。

そんな懸賞金が、まさかのまさか。戦国時代にかけられていた。
かけたのは、天下人になる前の豊臣秀吉。

そして、かけられた男こそ、今回の主役。徳川家康の家臣で「徳川四天王」と名高い「榊原康政(さかきばらやすまさ)」である。

榊原康政は、家康よりも6歳年下。同じく徳川四天王の1人、本多忠勝(ほんだただかつ)とは同年齢。

榊原康政とは同期の本多忠勝像

忠勝が武勇一辺倒だったのに対し、康政は文武両道のお手本のような武将と評される。その知略で、徳川家康を天下人へと導いたとも。派手さが好まれる戦国時代には珍しい「無」1文字の旗指物。それが康政のトレードマークなのだとか。

今回は、その「無」に込められた、智将「榊原康政」の人生観をたっぷりとご紹介しよう。

今ならSNSで誹謗中傷され激怒したって感じ?

「豊臣秀吉が懸賞金をかけた」という部分。このタイトルが気になる!という方のために、早速、話を進めていこう。

そもそも、どうして?というところから。
豊臣秀吉が、なぜ徳川家康の家臣に懸賞金をかけたのか、である。

その答えは、至ってシンプル。
「秀吉が激怒したから」である。

じつは、秀吉と家康は、一度、合戦で対峙したことがある。厳密にいえば「秀吉VS家康と織田信長の二男・信雄(のぶかつ)の連合軍」という構図。その名も、天正12(1584)年の「小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦い」である。この戦いで、秀吉は、家康の家臣・榊原康政(さかきばらやすまさ)に卑怯な手を使われたというのだ。

ここで、誤解のないようにしておくが。卑怯な手といっても、戦国時代の戦法としては全くもって合法。許容範囲である。ただ、秀吉が引っ掛かっただけの話。

豊臣秀吉像

では、その徳川側の戦法とは、一体どのようなものであったのか。
ある意味、斬新というかなんというか。現代でも選挙戦などで使われそうな手である。発端は、戦いの最中に榊原康政が書いた「檄文(げきぶん)」。ご丁寧に、その檄文を敵味方関係なくバラ撒き、高札にして随所に立てたのである。

ちなみに、檄文とは「檄(げき)」を書いた文書のコト。「檄」には幾つか意味があるが、この場面でいえば、相手の悪い点を暴いて、世人に同意を求める文書と捉える。要は、榊原康政は、秀吉の悪口を書いたのである。今でいえば誹謗中傷のビラを撒くような感じだろうか。

さて、気になるその内容はというと。『藩翰譜(はんかんふ)』や『榊原文書』に記されていた。その大意が、コチラ。

「秀吉は卑しい生まれなのに信長に大恩を受けた。なのに織田家に弓を引く、不義悪逆の至りだ」
(井野澄恵編『別冊宝島 家康の謎』より一部抜粋)

ご存じかもしれないが、武家出身ではない秀吉に対して「出自」に触れるのはタブー。にもかかわらず、真正面から出自コンプレックスを激昂させる内容を書いたというから、そりゃ懸賞金も辞さない勢いになるのは必須。加えて、恩を仇で返す的な部分はそのまま。織田信長がいたからこその今の地位。それなのに織田家と戦っている秀吉は、イタイところを突かれる格好となったのである。

一方で、そんなヤバそうな檄文に、榊原康政は、堂々と自分の名を署名したという。

ちなみに、康政は達筆で有名な武将。それは、家康の書状も書いていたほどのレベルだとか。そんな見事な字で悪口を書かれた日にゃ。余計、腹も立つワケで。秀吉よ。確かに、頭に血が上るのも理解できる。

案の定、秀吉は檄文に歯嚙みしながら激怒。冷静に戦況を分析・判断できず。
そうして、檄文の主・榊原康政の首に、10万石という懸賞金をかけたのであった。

康政の機転で主君・徳川家康の危機を救う

榊原康政の知略は、なにも戦いの時にだけ重用されるわけではない。主君である徳川家康が窮地に陥った際にも、キレッキレに発揮される。

ときは、慶長4(1599)年。秀吉の死後の話である。徳川家康と石田三成ら五奉行との対立が避けられない中、当時、京都では、ある襲撃事件の噂が駆け巡る。
どうやら、家康の伏見屋敷が石田三成に襲撃されるというのだ。それも、屋敷の警備は万全ではない状態。

徳川家康像

これを知った榊原康政は、我が主君をお守りせねばと、休む間なく家康の元へ。ただ、もちろん、知略に長けた康政のコト。実際に警護につく前に、まずは策を弄ずることに。康政が向かった先は、なんと近江勢多(滋賀県)。

そこで、康政は「関所」を作るのである。これから京都へと向かう人たちを、この関所でいったん足止めにしようという魂胆であった。大迷惑なのは巻き込まれた人々。なんせ、勢多を通り抜けることができないため、人はどんどんと増えていく。

さて、しばらくして、人が溜まりに溜まったところで、康政は関所を開放する。予想通り。これまで待たされた人々がどっと京都へ流れ込むことに。同時に、康政が流した噂つき。「徳川軍が京都や大坂に集結している」と、ちゃっかり、ガセ情報を流布していたのである。

これを知った人たちは、どう思うか。
もちろん、勝手に、聞いた噂と目の前の様子を結びつける。「徳川軍が集結」という情報と、なだれ込んできた多くの人たち。

「もしや、この人たち……まさか、旅人を装った徳川軍なのでは?」と人々の目には、こう映るワケである。

作戦は大成功。この多くの人に乗じて、康政も家康の屋敷へとたどり着くのであった。

森田亀太郎模写『榊原康政像(摸本)』出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)

さらに、これだけでは終わらない。情報操作の好きな康政である。この噂に真実味を帯びさせようと、屋敷の下人に金を渡して、兵糧を買い占めさせるのだ。それも、数千貫もの金額だったとか。もちろん、ご想像通りの噂付き。今度はコチラ。

「東国より馳せ上がった、徳川の兵10万の兵糧を買いつけたい」

一時期、京都とその周辺から食料が消え去ったとか。赤飯、餅、饅頭、酒などが、徳川側に買い占められたからである。こうして、家康の伏見屋敷襲撃計画は取りやめになったといわれている。

なお、全く関係ない話だが。康政が家康の元へ馳せ参じたときのこと。少しでも早く駆け付けようとしたのだろう。髪を頭上で束ねていた髻(もとどり)が切れて、ざんばら髪だったとか。その必死さに、なんだか、キュンと切なくなる。家康も大いに喜んだという。

「無」1文字に込められた榊原康政の思いとは?

こんな、家康の天下取りに貢献した「榊原小平太康政」とは、どのような男だったのだろうか。

もともと、康政は叔父の酒井忠尚に小姓として仕えていたという。幼少より勉学に励み、家康に大樹寺(愛知県岡崎市)で拝謁したときも、学問をしていたのだとか。当時13歳の康政。このとき、家康に見いだされたといわれている。

初陣は16歳。三河一向一揆の平定のときである。初陣ながらその活躍はめざましかったという。その武功を称え、家康は自分の諱(いみな、名前のこと)の一字「康」を与えたのだとか。こうして「康政」と名乗ることに。

のちに、この「康政」の名は、戦場での活躍で広く知れ渡る。
織田信長と共に戦った元亀元(1570)年の「姉川の戦い」。対する浅井朝倉連合軍との激突は凄まじく、康政は先陣の酒井忠次(さかいただつぐ)に次いで、2陣で参戦。真一文字に隊を進軍させ、岸を登るのを手間取っていた先手の忠次軍を抜かさんばかりの勢いだったという。声を掛け合って押し上がれと指示をして大奮戦。このとき、「康政は二の手の戦いの手本」として、家康に賞賛されている。

その2年後。家康が敗走した「三方ヶ原の戦い」でも、意地を見せる。康政は勝利に浮かれている武田軍の敵陣に夜襲をかけてから、浜松城へ帰還。負けても、せめて一矢報いたい気持ちが強かったのだろう。そんな康政のトレードマークは、日輪の下に「無」1文字の旗指物。

森田亀太郎模写『榊原康政像(摸本)』出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)

コチラは、康政の肖像画に書かれた旗指物である。「三方ヶ原の戦い」では、既にこの旗指物を使用していたようだ。実際の配色は、紺地に金色の日輪と金色の「無」の文字だったとか。残念ながら、どうして「無」だったのか、その意味は残されていないという。

無私・無欲の信念。
無名の一将でいたい。
多くの書物で、推測される「無」の意味。
どの解釈も、それぞれ康政の気持ちを表しているように思う。

慶長5(1600)年の「関ヶ原の戦い」では、家康から打診された水戸20万石への加増転封を固辞。徳川秀忠に付き従っていたため戦いに遅参したからだ。自分には武功がないと、断ったのだとか。

その秀忠の老中になった際も、やはり加増を打診されて固辞。
なんなら「老臣が権を争うのは亡国の兆し」とさえ、のたまった。政(まつりごと)は若い世代が担うべきと、その中心から離れたという。そんな彼の言動を見ていれば、なるほど。無私・無欲の人だと改めて思う。

一方、康政は、出陣の際に必ず、ある具足(甲冑の一形式)をずっと持たせたとも。それも、徳川四天王に似合わず、使い古されたボロボロの具足なのだとか。じつは、コレ。家康に召し抱えられる際に、餞別代わりとして友人がくれたモノ。当時、まだ無名の康政は、この具足を身につけて戦い、大活躍。確かにゲン担ぎ的な意味もあっただろう。ただ、それだけではない。出世をしても、初心のまま。生涯、無名の一将でありたいとの気持ちもあったに違いない。

加えて。私なりの解釈はというと。
康政は「無我の境地」を目指したのではないだろうか。ここでの「無我」は「我が無い」という意味ではない。「この世には永遠不変の存在はない」という仏教的な「無我」である。

戦国の世だからこそ。全ての存在は移ろいゆく。儚いモノだと。
それを刻み付けるように、「無」1文字を旗指物に掲げたのではないだろうか。多くの戦いに身を投じてきたからこそ、そんな思いが康政の根底にあったのでは。
私には、そう思えてならない。

実際のところ、「無」にはどのような思いが込められていたのか。
知る由もないまま。慶長11(1606)年、康政は舘林(群馬県)で死去。享年59歳。家康よりも先にこの世を去ったのである。

最後に。
豊臣秀吉の懸賞金の後日談を。

じつは、「小牧・長久手」の戦いは、最終的に和睦で落ち着いた。
でも、秀吉、怒ってたじゃん。そうなんです。だからこそ、和睦ののち、最初の使者として、秀吉は榊原康政を指名するのである。

さあ、あの時は……と蒸し返されると思いきや。秀吉は、こんなことを口にしたという。

「和睦した今になってみればその方の志はあっぱれである。それをいうためにここに呼んだ。わしもおぬしを小平太と呼んでよいか。徳川殿は小平太殿のような武将を持って羨ましい。その功を賞して、従五位下、式部大輔(しきぶたいふ)の官位を贈ろう」
(東由士編『徳川四天王』より一部抜粋)

家康の家臣では初の任官。それも祝宴付きだったとか。その後も、秀吉の小田原攻めでは先手役を任され、秀吉からの信頼も厚かったようだ。家康が関東に移封されると、康政も上野(こうずけ)国舘林城の城主に。10万石を与えられた。

それにしても、懸賞金をかけながら、水に流す度量は秀吉ならでは。

それこそ、懸賞金は「無」に帰すのであった。

参考文献
『徳川四天王』東由士編 株式会社英和出版社 2014年7月
『別冊宝島 家康の謎』 井野澄恵編 宝島社 2015年4月
『徳川家家臣団―子孫たちの証言』 小和田哲男 静岡新聞社 2015年4月
『刀剣・兜で知る戦国武将40話』 歴史の謎研究会編 青春出版社 2017年11月
『名将言行録』 岡谷繁実著  講談社 2019年8月

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、北海道(札幌から車で4時間、冬は-20度)で優游涵泳の境地を楽しむ。その後は富山県、愛知県へと流れつき、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。