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この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば(藤原道長)

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Culture
2020.02.05

戦国時代に神がかりの57戦無傷!徳川家康を支え続けた猛将、本多忠勝の忠義

この記事を書いた人

徳川四天王といわれた本多忠勝(ほんだただかつ)。
その辞世の句は「死にともな、嗚呼死にともな、死にともな…」。

「死にたくない」という言葉が3回。どんだけ死にたくないんだかと、突っ込みそうな勢いの句である。一般的な武将の辞世の句は、「死」を受け入れ、一生を振り返りつつサラリと流す。対して、忠勝の句は「生きる」ことへの執着、「死する」ことへの無念が溢れんばかりに、にじみ出る。ここまで正直に「死」を嘆いた辞世の句も珍しいだろう。

そのせいか、本多忠勝の死にざまはさぞや無念だったのだろうと、後世の私でも胸を痛めるほど。一体、どのようにして亡くなったのか。戦場での討死か、はたまた家臣に裏切られたか。そりゃ、無念な死に方…えっ?享年63歳?いやいや、決して早死にではないじゃないか。えっ?死因は病気?なんでも、桑名(三重県)で没し、地元では名君といわれ惜しまれたという。

それでは、何がそこまで無念だったのか。
じつは、この辞世の句には続きがある。

「死にともな、嗚呼死にともな、死にともな、深きご恩の君を思えば」

ははーん。なるほど。つまり「君」を残して先に死へと旅立つ。そんな自分の状況をここまで嘆いたワケだ。一生のうち57戦を戦ったが無傷。織田信長にして「花も実も兼ね備えた武将」といわれたほどの名将。そんな忠勝が先立つことを嘆いた相手とは?

もちろんこの方。

徳川家康像 あえて「超おっさん」の画像を選んでみました

「おっさんやないかーい」と突っ込んだのは、私だけじゃないだろう。そう、「深きご恩の君」こそ、主君の徳川家康公、そのひとである。いかなる状況であろうとも、徳川家康公、ただ一人を主君として支え続けた本多忠勝。今回は、その熱き生きざまを紹介しよう。

本多家の家紋って葵?

徳川の家紋はいわずと知れた「葵の紋」。じつは、本多忠勝が使用していた本多平八郎家の紋も「丸に立ち葵(たちあおい)」の紋である。経緯については諸説あるが、もともと本多家が使用していた「葵」紋を徳川家が使い、自らは改紋を申し出たという記録もある。申し出に感心した家康が同じ「葵」紋の使用を許したのだとか。真偽は定かではないが、どちらにせよ、徳川家と深い関わりのある一族なのだ。

左が「三つ葉葵」紋、右が「立ち葵」紋

本多家のルーツは「藤原氏」。北家の藤原兼通(ふじわらのかねみち)の子孫の藤原助秀(ふじわらすけひで)が豊後国(大分県)本多郷に住み、本多姓を名乗ったのが始祖だといわれている。そして、7代目本多助時(すけとき)の代には、三河国安祥城主の松平長親(まつだいらながちか)に仕えている。この松平家はのちの徳川家。こうしてみれば、本多家は徳川家臣の中でも最古参の一族といえる。

なお、同じ「本多」でお気づきの方もいるかもしれないが、同じく家康の重臣の「本多正信(ほんだまさのぶ)」とは、同じ本多一族の間柄。ただ、本多家は江戸時代初めに6系統に分家し、忠勝は「平八郎家」の出身、正信は「弥八郎家」の出身と異なる。忠勝自身も、「同じ一族でも無関係」というほど、仲は悪かったのだとか。

さて、主君である徳川家を命がけで守るのは、一族の血筋なのかもしれない。忠勝の祖父である本多忠豊は、家康の父である松平広忠の身代わりとなって討死している。忠勝にもその覚悟が幼い頃からあったのだろうか。そんな忠勝だが、天文一四年(1548年)に忠高の長男として生まれるも、翌年に父親である忠高が戦死。6歳年上の家康(当時は元康)の小姓として駿府へ行くことになる。忠勝10歳のときだ。以降、ずっと家康の忠臣として尽くしてきた。忠勝の一生を考えれば、確かにあの辞世の句を残すのも頷ける。

「小牧・長久手の戦い」では敵陣の秀吉が感激した?

「名前負け」とはよく言ったものだ。あまり御大層な名前にすると、本人がその名前に負けてしまう。精神的な重圧なのか、ある種迷信的なものなのか。しかし、本多忠勝には「名前負け」どころか、名前を地で行くような一生だといってもいいだろう。忠勝の人生を思えば、ひょっとすると「名前」が、その人の器の大きさを決めたのかもしれないとさえ思う。

「忠勝」の名前の由来は、「ただ勝つのみ」。なんのひねりもない、そのままの意味だ。しかし、名の通りに忠勝は強い。どれくらい強いかというと、戦国の世に生きながら、それも単騎で敵陣に駆けこむなどの暴れん坊ぶりでも、57の全ての戦で無傷。これは「神がかっている」としか言いようがない。やはり「八幡神(はちまんしん)」のお陰なのか。

忠勝が八幡神を信仰するには理由がある。偵察で道に迷ったときに助けられたからだ。じつは、川向うへ偵察に行った帰りがけに、来た道を見失ったのだという。目の前の川を見て、どこを渡れば…と途方にくれていたところ、突然「牡鹿」が現れたのだ。牡鹿は悠々と川を渡って向こう岸に到着。それを見て、忠勝も鹿が通った浅瀬を渡りきることができたのだとか。それ以降、「牡鹿は八幡神が遣わされた」として、忠勝は信仰した。なお、忠勝の兜は「鹿角脇立兜(かづのわきだてかぶと)」呼ばれ、このときの「牡鹿」を崇拝して作らせたといわれている。

そんな忠勝の初陣は永禄5年(1562年)、鳥屋根城(登谷ヶ根城ともいう、愛知県豊川市)の合戦でのこと。忠勝15歳のときである。早くに父を亡くしているので、叔父の忠真が父親代わりとして指導したのだとか。初陣の際には、親心からか、忠真が自ら槍で敵将を刺し、忠勝に初陣を飾らせるために首を取るよう促したという。しかし、忠勝は固辞。人の力を借りて武功を上げることに納得がいかなったという。自ら敵陣へ攻め込み、首を上げてきたとの逸話が残っている。

忠真が槍の名手だったからだろうか、忠勝もそれを引き継ぎ、2丈(約6メートル)の大槍を軽々と扱ったようだ。6メートルといえば、マンション2階分の高さほど。ちなみに、トンボさえ切り落とすとの評判から、忠勝の愛槍は「蜻蛉切(とんぼきり)」と呼ばれるようになったという。

それにしても、忠勝の戦のエピソードはその豪胆ぶりがすごい。なかでも、やはり有名なのは「小牧・長久手の合戦」だろう。あの豊臣秀吉があまりの忠臣ぶりに感激して涙を流したといわれているからだ。

ときは、天正12年(1584年)。「小牧長久手の合戦」とは、賤ケ岳の戦いで柴田勝家を破った秀吉に対し、織田信長の二男である信雄(のぶかつ)と家康が手を組み対陣した戦いだ。膠着状態の末、最終的には講和が結ばれている。

さて、戦いの途中では、秀吉側の池田恒興(いけだつねおき)や森長可(もりながよし)らが、長久手(愛知県長久手市)あたりで挟み撃ちにされ討死。秀吉からすれば、自軍が大軍でありながら局地戦では負け、総大将とした秀次も逃げ帰ってくる始末。我慢できなかったのだろう。引き上げる家康に秀吉の本隊が襲い掛かろうとする。しかし、その行く手を阻んだのは、本多忠勝とわずか500の兵だった。このとき、秀吉の本隊は2万と兵力差は一目瞭然(諸説あり)。それでも忠勝は、秀吉の進軍に川を挟んで並行し、鉄砲を撃ちかけたという。その上、秀吉軍の目の前で、単騎で龍泉寺川に乗り入れて、馬に水を飲ませたのだ。

同じ武将として、秀吉は忠勝の心情を察したのだろう。家康の本隊を逃がすために、自身の命をかけることも厭わないその信念の強さ。それほどまでの忠義に感激して涙を流したとか。また、自軍に対し、忠勝率いる隊には反撃を控えるように命じたという。

なお、のちに秀吉は、忠勝を自身の家臣にと考え、プレゼント攻勢に出る。だが、天下人の秀吉も忠勝の心は変えられなかったようだ。武具やら官位やらも効果なし。挙句の果てには忠勝のお断りの一言。

君の御恩は海より深いといえども、家康は譜代相伝の主君であって月日の輪には及びがたし(日本の大名・旗本のしびれる逸話)より

家康に一生付き従うと決めた忠勝の、心を込めた名答ではないだろうか。

名君といわれた忠勝の情の深さ

凄腕の猛将というイメージが強いが、戦場での忠勝は、いつも肩から大数珠をさげているのがトレードマークとなっていた。自ら討ち取った者を弔うためである。配下の者を大事にすることでも有名で、「戦場で活躍するのは大事に育てた者こそ」という自分なりの哲学があったといわれている。

常に諦めることはしなかった。そんな忠勝の前向きな姿勢が伝染し、勝ちとなる場合も。元亀元年(1570年)の「姉川の合戦」では、疲弊した徳川軍に諦めムードが漂う中、忠勝一人で単騎駆けをして朝倉軍に突入。忠勝を死なせるものかと、徳川軍の士気が高まり朝倉軍を破ったといわれている。

殿(しんがり)で、恐れずひるまず戦う忠勝の姿に、武田信玄の家臣、小杉左近も思わず一句。

「家康に過ぎたるものがふたつあり、唐の頭に本多平八」

唐の頭とは、ヤクの尾毛で作られた兜。非常に珍しい舶来の品だとか。それとあわして、家康に本多平八、つまり忠勝はもったいないという意味合いだ。

確かに、忠勝はどこまでも忠実だ。しかし、忠実な家臣なら他にもいる。忠勝はそれだけではないところがある。例えば、状況に応じて人は変わる。立場や環境で、味方であっても寝返ることも少なくない。三河で一向一揆が発生したときもそうだった。本多正信など、多数の三河の武士が一向宗門徒であったため、家康から離れ、一揆側へと寝返った。じつは、本多忠勝も一向宗の門徒である。宗教は根強い問題だ。自身の信仰はある意味、自分の分身といえるほど。そう簡単に変えることなどできない。しかし、忠勝は違った。一向宗から浄土宗へと改宗し、家康側に残って戦ったのである。

どこまでも忠義を尽くす。だからこそ、先に主君を残して死ぬことになる自分の身が許せなかったのだろう。

本多忠勝は、死に際に辞世の句とは別に、こんな言葉を残している。

侍は首取らずとも不手際なりとも、事の難に臨みて退かず、主君と枕を並べて討死にを遂げ、忠節を守るを指して侍という
『名将言行録』より

これこそが忠勝の真の心情か。たとえ武功を残すことができなくても、主君のそばを離れない。誰にでもできる、そんな侍としての簡単な「基本」が、自分には果たすことができない。だから、「死にともな」と3回も、無念の情を吐露したのだろう。

ただ、私にはその存在だけで十分だと思うのだ。仮にいなくなったとしても、どんなときでも自分の唯一の味方がいてくれたという紛れもない事実。それだけで人は強くなれる。

だから徳川家康もそう思ったに違いない。
「自分には忠勝がいてくれた」。

参考文献
『名将名言録』 火坂雅志著 角川学芸出版 2009年11月
『日本の大名・旗本のしびれる逸話』左文字右京著 東邦出版 2019年3月
『戦国時代の大誤解』 熊谷充亮二著 彩図社 2015年1月
『手紙から読み解く戦国武将意外な真実』 吉本健二 学習研究社2006年12月
『徳川四天王と最強三河武士団』 井上岳則ら編 双葉社 2016年11月

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。