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Culture
2020.06.17

「虎の脳ミソ」は不老長寿の源?朝鮮出兵時に追加された豊臣秀吉の破天荒な命令とは?

この記事を書いた人

今更ながらだが、「カニみそ」をカニの「脳ミソ」と勘違いしている人が多いと聞いた。確かに、名前といい、あのグロテスクな感じといい、分からないでもない。もし本当に、カニの脳ミソであれば、私も食べるのはご遠慮したい。

しかし、まさか。
その「脳ミソ」を躊躇するどころか、探し求めて取ってこいと奇想天外な命令を出した人物が、この世には存在した。

時は戦国の世。これだけで、ああ、あの人ねえ、と想像がつきそうな気もするが。諦めかけていたときに、子(秀頼)が生まれ、是が非でも長生きしたいと願わずにいられなかった男。

豊臣秀吉である。

そして、そんな命令を出されたのは、朝鮮出兵に駆り出された戦国武将の面々。

そもそも論的に。彼ら戦国武将からすれば、朝鮮出兵自体がなんでやねんという話である。もう、天下統一果たしたんちゃうの? と、嘆いたに違いない。ただでさえ、当時は船で朝鮮半島に渡るのも一苦労。その上、慣れない異国の地で「虎」と格闘しろだと?

これでもかというほどの。とにかく突っ込みどころ満載の秀吉の命令。そんな無茶ぶりに、彼らは、一体どう向き合ったのだろうか。

さて、戦国武将たちの運命は?
悲喜こもごも、彼らの奮闘した姿を紹介していこう。

当時の獣事情。虎ってアリなの?

このタイトルに食い付いた皆様(食い付いたとは失礼な表現ですまぬ)。もう、しょっぱなから、どこをどう突っ込めばいいのやら、という感じだろうか。

気になる1位は。やはり「脳ミソ」についてだろう。

どうして「脳ミソ」なのか。いやいや、その前になぜ「虎」なのか。いえ、やっぱり、「脳ミソ」の方が先か。ええい、とにかく「虎の脳ミソ」が、なぜ必要になったのか。この問題から解決したい。

古来より、時の権力者たちは、決まって不老長寿にご執心だ。権力を手放したくない一心なのか、皆が揃いに揃って型通りの行動に出る。古今東西の珍しい食材を追い求めるというヤツ。いわば、青い鳥症候群の食材版という感じだろうか。

その極端な例でいけば、食材じゃないモノにまで手を出したりする。そんでもって、ホントに生き長らえる人がいるのだから、これまたスゴイ。伝説の域は出ないが、若狭(福井県)の「八百比丘尼(やおびくに)」は人魚の肉を、源義経の家臣・常陸房海尊(ひたちぼうかいそん)は岩から滲み出た石蜜(いしみつ)を食べ、数百年生きたとされている(石蜜への突っ込みはお控えください。ここで寄り道すると、関係ない話が長くなりますゆえ)。

そして、そんな奇行を追うが如く、「脳ミソ」に手を出そうとする輩が。1日でも長生きしたい状況に陥った豊臣秀吉である。

豊臣秀吉像

豊臣秀吉は既に天下人となっており、何不自由なく、そして何不満なく生きているはずだった。嫡男がおらずとも、甥である秀次(ひでつぐ)を関白にし、豊臣時代を今後も継続させる予定だったのだ。

それが、だ。
諦めかけたそのとき、文禄2(1593)年9月。側室・淀殿が無事に子を出産。のちの、秀頼である。

まさかの嫡男出現に、秀吉は思う。
1日も長く生き続けたい。そんな切実な思いを、秀吉はなんとか実現しようと、医師や学者に相談。全くもって、根拠はないのだが、出てきた答えは「虎」。それも、長寿には「虎の脳ミソ」が効くとのこと。

多分だが。医者や学者も相当困ったはずであろう。あまりにも「けったいなモノ」を勧めて、体調が悪くなっては困る。かといって、誰でも食べられそうな食材もありがたみがない。プラシーボ効果すら期待できそうにないからだ。ただ、一方で、かぐや姫のように、入手困難なものも、それはそれで困る。

割と目新しい上に、納得できそうな食材。そして、入手困難だが、できなくもない。そんな塩梅(あんばい)の食材を推薦したのだろう。「虎」であれば、獰猛な性質から、なんとなく滋養強壮に効きそうである。秀吉も納得しそうなんじゃねーのと、投げやりな感じだったのかもしれない。

さて、この「虎」くん。
どうやら、当時、シベリアトラは日本のお隣、朝鮮半島に生息していたという。

そして、奇しくも、日本軍は秀吉の命で海を越えていた。文禄元(1592)年の「文禄の役」、慶長2(1597)年の「慶長の役」。2回に渡る朝鮮出兵が行われていたのであった。

こうして、かくも無茶ぶりな秀吉の命令が、朝鮮半島で奮戦する彼らに追加されることになったのである。

ええっ?島津義弘も虎退治したってホント?

「虎」とくれば、「加藤清正の虎退治」が有名であろう。

しかし、じつは、朝鮮出兵で駆り出された戦国武将の多くが、虎狩りを行っていたといわれている。だって、あの秀吉が「虎」をご所望とあれば、誰だって危険を冒してでも、仕留めたいと思うでしょうが。

その一人が、九州の猛将・「鬼島津」こと島津義弘である。朝鮮出兵の際には、明軍に「鬼石曼子(グィーシーマンズ)」と呼ばれ恐れられた男である。

島津義弘

記録によれば、島津義弘は2回、虎の捕獲を行っている。1回目は、文禄元(1592)年の冬。嫡男・久保(ひさやす)が行って、秀吉に献上したという。

問題は2回目。帰国前の文禄4(1595)年3月。巨済島(こじぇとう)滞在の虎退治は、順調とはいえず。残念ながら、結果的に犠牲者を出すに至っている。

問題の虎退治の様子はこうだ。どうやら、虎を捜して山中を歩いていた島津軍。なんと、そこに運よく1頭の虎が。遭遇した安田次郎兵衛が勇猛果敢に斬りかかり、口から背中へ串刺しの恰好で仕留めるのに成功。さすが、島津軍。犠牲者も出さず、念願の虎も手に入り、一件落着というところのはずが。

歓声に沸く島津軍の前に、もう1頭、まさかの別の虎が現れたのである。虎からすれば、身内を殺され「おのれえ」という憎悪いっぱい。一方で、島津軍は完全に気を抜いていた。はっと我に返るも、火縄銃は雨で役に立たず。数で勝負と、1人が斬りかかるが、虎に噛みつかれて、あえなく谷底へ振り落とされる事態に。

2人目もえいやっと斬りかかるが、今度は股を噛まれてアウト。こうして、3人目と4人目が2人がかりで、腹を刺す。なんとか、これにて虎は力尽き、またもや2頭目を仕留めるのに成功したという。それにしても、悔やまれるのは、虎退治に2人の犠牲者が出たというコト。戦のために朝鮮半島まで行かされて、挙句の果てに、戦死ではなく虎に噛まれるなんて。痛ましい死に方は、本当に残念でならない。

それでも、島津義弘は、2頭の虎を塩漬けにし、樽に詰めて、秀吉の元へと送ったという。

さて、島津軍の虎退治で残ったものといえば。
もちろん、秀吉からきた礼状もそうなのだが。意外にも、他のモノが現代に残っていた。それは、鹿児島の郷土芸能の中。どうやら、その題材として残ったようである。

市来(いちき)町大里の七夕祭りでは、虎狩りの様子が再現される。大きな張り子の虎を数人で退治するという内容のモノだとか。ちなみに、虎だけでなく、牛や鶴など、他の動物も退治されるのだが、そこは割愛を。

なんにせよ、島津軍の虎退治は「祭り」という形で、現代に語り継がれてきたのである。

いやいや、本家本元は加藤清正でしょ?

さて、虎退治を語る上で、欠かせない人物といえば、コチラ。
豊臣秀吉の子飼い衆、加藤清正である。織田信長の次期ポストを巡って柴田勝家と戦った「賤ケ岳の戦い」で、七本槍の1人として活躍した武将である。

加藤清正の虎退治は、なぜか「刀1本」というイメージだ。
あの獰猛で俊敏で、しかも人間よりも遥かに体重が重い虎に?
刀1本?

歌川国芳-「太平記英勇伝-藤原正清-加藤清正」

これは物理的に、果たして可能なのだろうか。唯一、やり遂げられそうな人物といえば、ルパン三世の五右衛門くらいだろう。いや、それって、もうマンガの世界じゃんという話になる。

今になってみれば、刀での虎退治が本当にあったのかは不明。というのも、どうやら、後世で、虎退治の方法が「刀に」すり替えられた可能性があるからだ。もっといえば、加藤清正の虎退治は、一説には、黒田長政の家臣の虎退治がベースに創作されたとも。その真偽は、とりあえず脇に置いておき。まずは、『名将言行録』にある「加藤清正の虎退治」をご紹介しよう。

じつは、清正の虎退治は、「刀」ではなく、もっと別の方法で行われたようなのだ。

そもそも、加藤清正の軍は、島津軍のように虎狩りで捜索していたわけではない。向こうからいちゃもんをつけられたのである。ある夜、山の麓に陣を置いた清正軍に衝撃が走る。虎がやってきたのだ。大事な馬をさらって、虎落(もがり、竹を組み合わせて縄で縛ったもの)の上を颯爽と飛び越えていったという。

さらに、今度は清正の小姓・上月左膳(こうづきさぜん)まで。なんと虎に噛み殺されてしまうのである。激怒した清正は、翌早朝に山に入って虎狩りを開始。そこに、件の虎の姿が。生い茂った草をかき分け、現れたのは立派なサイズの虎。それも、憎らしいことに清正をめがけてやってくる。

清正は大きな岩の上で「鉄砲」を構え、狙いを定める。ようやく30間(約50メートル強)ほどの距離にくると、虎は立ち止った。周囲の兵が撃とうとするが、清正は制止。小姓の仇を自ら討ちたいのである。

こうして、しばし対峙してから。虎が口を開けて襲ってきたところを、ズドン。清正は、「鉄砲で」咽喉に1発撃ち込み、仕留めたのである。

つまり、加藤清正の虎退治は、鉄砲。
イメージは、ルパン三世の石川五右衛門からゴルゴ13に早変わり。これが、どうやら真相のようである。

こうして、島津義弘のみならず加藤清正、他にも黒田長政らも。複数の戦国武将が、秀吉のために虎を仕留め、せっせと朝鮮半島から送った次第である。

さて、気になるそのお味は?
公家・山科言経(やましなときつね)の日記である「言経卿記」に、虎肉についての記録がある。

「高麗国ヨリ来了虎肉給了」
(吉田元著『日本の食と酒』より一部抜粋)

慶長元(1596)年7月29日の様子である。この日、山科言経は『吾妻鏡』を読むために、徳川家康・秀忠父子のいる伏見の屋敷を訪れていた。そこで、虎肉を贈られたようである。山科言経は、多くのモノを食べてその感想などを記しているが、残念ながら「虎肉」については、これ以上触れられてはいない。

ここからは、推測となるが。
昨年(令和元年)まで北海道に住んでいた私なら、なんとなく想像はつく。じつは、知り合いの方から、ちょうど「熊の肉」が手に入ったからと、新鮮な? 熊肉を頂いたことがあるのだ。ワクワクしながら口にしたが、その「獣臭さ」は、半端ない。羊や鹿など、まだまだ序の口である。

そう考えると、熊も虎も、同じくデカい獰猛な動物。種類は全く異なるが、「獣臭さ」は同じくらいだろう。まして、その「脳ミソ」ときたら、想像を絶する。

ちなみに、その後の秀吉だが。
あまりにも、戦国武将から虎肉が届き過ぎたのか、これ以上は「虎肉不要」とのお達しが来たのだとか。

そうして、秀吉の最大の目的の「不老長寿」。こちらも、残念なことに、見事に失敗。慶長3(1598)年8月18日、秀頼を遺すのを嘆きながら、秀吉はこの世を去ったのである。

最後に。
加藤清正の通称は「虎之助」。清正の虎退治に、何か因縁めいたものを感じるのは、私だけだろうか。

そんな清正が、虎退治により残したものがある。もちろん、この武勇伝もその1つ。しかし、それ以外にもあるのだ。虎退治がベースとなって、そのおまけとして江戸時代に流行したモノが。

それが「加藤清正の手形」(実際には、清正の手形の絵である)。

じつは、江戸時代。
麻疹とともに大流行したのが、伝染病のコレラ。このコレラは、当時、「コロリ」と呼ばれていたのだとか。漢字は「虎烈刺」や「虎列刺」など。病状が急激に悪化する様子が、1日に千里を走るとされた「虎」と重なってのこと。

そして、虎とくれば、加藤清正と繋がるワケで。清正の手形の絵を、門柱に貼れば疫病除けになるという触れ込みが大流行。

そういえば。
現代も流行していますがな。アレが。
「コロリ」と「コロナ」。確かに似ていなくもない。

虎退治で名を馳せた「加藤清正」の手形。
案外、コロナにも効き目があるのかも。

参考文献
『日本の食と酒』 吉田元著 講談社 2014年1月
『島津義弘―慈悲深き鬼 (戦国闘将伝)』 戦国歴史研究会著 PHP研究所 2008年6月
『名将言行録』 岡谷繁実著  講談社 2019年8月
『戦国武将 逸話の謎と真相』 川口素生著 株式会社学習研究社 2007年8月

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、北海道(札幌から車で4時間、冬は-20度)で優游涵泳の境地を楽しむ。その後は富山県、愛知県へと流れつき、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。