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Culture
2020.06.22

徳川家康が豊臣秀頼と会った「二条城会見」の全貌!190㎝のガタイが命運を分けた?

この記事を書いた人

日本でも大人気の韓国ドラマ。現在、その話題をさらっているのが「愛の不時着」という作品。出演者の1人、ヒョンビン氏は185㎝の高身長の俳優である。

この185㎝。
日本では高いと思われる身長だが、意外にも韓国ドラマ界では珍しくないのだとか。というのも、イケメンの上に、モデルのようなスタイルの185㎝オーバーの俳優陣がそこら中にゴロゴロ。名前を挙げようにもその数が多すぎて本当に驚いた。

さて、彼らのような高身長は、果たして得なのだろうか。

颯爽と歩くだけで、なんだか迫力が違うように思いがち。だが、身長が高い友人曰く、頭をぶつける、下を向いて話すので首がこる、うち1人は肺が弱い(個人差あり)などのデメリットも。

そして、今回の主役も、そのガタイの良さで一族の命運が決まったと囁かれている悲劇の主人公。戦国時代の当時にしては珍しく190㎝オーバーの高身長。

その方とは。
父に似合わず、偉丈夫(いじょうふ、体が大きく逞しい男性)の「豊臣秀頼(ひでより)」である。

秀吉の死後、徳川家康も当初は豊臣一族を滅ぼす気がなかったとか。しかし、その考えは、ある時点で明確に変わる。そのカギを握るのが、徳川家康と豊臣秀頼が会談した「二条城会見」である。

一体、この二条城で何があったのか。
今回は、この全貌を解明していこう。

豊臣秀吉のバトン渡しは失敗?徳川家康がズルしたの?

天下人の順番って、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という流れで回ってきた。そう、一般的には思われている。まあ、厳密にいえば、織田信長は天下を取る前だったのだが。なんとなく、リレーのバトンのように、キレイに渡された感じがする。

でも、よくよく考えれば、ちょっとした疑問が。

織田信長は天下を取る前。そして、もうあと一歩のところで、明智光秀の謀反のために自刃。そして、あれよあれよと言う間に、豊臣秀吉が宿敵を倒し、徳川家康との駆け引きを制した。で、「天下取ったゾー」となったワケである。

信長には子がいたが、大事な後継者である嫡男「信忠」は、同じく「本能寺の変」で自刃。とすれば、二男の「信雄(のぶかつ)」や三男の「信孝」、ましてや信忠の子「三法師」は出る幕がなかったともいえる。実力で勝ち取った秀吉は、明らかなルール違反はしていないのだ。

なんだか、天下取りって「イス取りゲーム」のよう。一番に座ればいい。早いモノ勝ちの世界。ただ、これには必要な条件が1つある。それは、イスが誰のモノか分からないというコト。秀吉が座れたのは、偶然にも、信長が天下を取る前に散ったから。言い換えれば、誰のイスか分からなかったのである。秀吉からすれば、空席だったのが幸いした。

豊臣秀吉像

しかし、次に徳川家康が座る状況は、少し勝手が違う。

信長と異なり、秀吉は亡くなる前に、イスに名前を書いた。それもサインペンなんかじゃない。ペンキ並みに大きく、しっかりと。豊臣一族の星、大事な遺児である「豊臣秀頼のイス」としたのである。なんなら、死ぬ前には、五大老、五奉行に「秀頼」のことを頼むと、何度もお願いをした。諸大名に起請文まで書かせた。秀吉は「コレって秀頼のイスだから分かってるよね」と念押ししまくったのである。

その秀吉のあとに座ったのが、徳川家康。
あれ?
ここで、先の疑問が出てくる。豊臣秀吉って、いつの間に、徳川家康にバトンを渡したの?

確かに、長い間座らずにいるとイスは朽ちる。だから、当時6歳の秀頼が15歳になるまでは、代わりに「仮掛け」してもよい。そういう意味での許可を、秀吉は家康に与えている。それでも、イスの名前は変えず。相変わらず「豊臣秀頼」のままのはず。

それなのに、歴史の事実は異なる。豊臣秀吉の死後、徳川家康は江戸幕府を開き、徳川将軍は15代まで世襲制で継続した。イスの名前に書かれた「豊臣秀頼」は大坂の陣で敗れて自刃。表舞台というより、この世から姿を消す。

つまり、豊臣秀吉のバトン渡しは、失敗した。秀頼に渡すはずが、徳川家康にさらわれてしまったのである。

徳川家康の用意周到な3つの策略

天下人のイス。
徳川家康の「仮掛け」は、いつの間にか「本掛け」へ。
「秀頼」の名前はさっさと消されて、無念にも「徳川家専用」のイスに作り替えられる。そんな大それたマジックのようなコトを、家康はあっさりとやってのけた。が、簡単ではない。その裏側には、用意周到に練られた家康の3つの作戦があったのだ。

まず、手始めに、慶長5(1600)年9月の「関ヶ原の戦い」。天下分け目の戦いといわれた合戦で、家康は勝利。五奉行筆頭だった石田三成を退ける。そして、豊臣恩顧の大名である福島正則らを引き込むことに成功。ただ、彼らは石田三成に敵対していただけで、秀頼に忠誠を誓っていることは変わらず。

そこで、次に、手を出したのが「関白」の継承の否定である。
生前の豊臣秀吉は、征夷大将軍ではなく関白に就任。そして、この「関白」を誰もが豊臣一族である秀頼が継承すると考えていた。

これに目をつけた家康。この「関白は豊臣一族が世襲する」という暗黙のルールの破棄を目論むのである。そこで、慶長5(1600)年12月に、九条兼孝(くじょうかねたか)を関白に。つまり、関白就任を摂関家へと戻したのである。

徳川家康像

これだけでは、足りない。
そこで、次の段階へ。慶長8(1603)年2月。いよいよ徳川家康が征夷大将軍に。このタイミングに合わせて、家康は本姓をまたもや「源氏」に改姓。源頼朝(みなもとのよりとも)と同じ源氏姓により、これまでの伝統と将軍職就任の正当性を意識させる作戦に出る。

ただ、改姓の理由は、それだけではない。
じつは、秀吉は有力大名らに自身の「羽柴」姓を与えていた。これを焼き直しして、今度は、家康が自身の「松平」姓を諸大名らに与えたのである。加賀藩の前田利常をはじめ、代替わりした有力大名たちが、続々と「松平」姓を名乗ることに。ある意味、疑似一門化のような感じだろう。これまでの「豊臣体制」からの離脱を、諸大名らに向けて明言したのである。

さらに、念押しで3つ目の作戦を決行。
それが、家康と秀頼の関係強化である。
慶長8(1603)年7月、家康の孫である千姫(当時7歳)が秀頼(当時11歳)に輿入れする。秀吉の願いでもあったのだが、これで、家康は秀頼の大舅(しゅうと)の立場に。秀頼の「後見人」かつ「大舅」という、恐るべきマウント可能な地位を手にしたのである。

一歩ずつ。慎重に。
秀頼の関白を否定、家康の征夷大将軍就任、秀頼の大舅の立場になって。

こうして、最後。
慶長10(1605)年4月。将軍職を秀忠に譲り、徳川家の世襲制を宣言したのである。

非常に微妙な時期のなか、家康はまんまとバトン奪取に成功。二重政権から脱却するべく、秀頼を立てつつ、徳川家オンリー政権への移行を模索。結果、知らぬ間に、イスの名前は「徳川家専用」へと改造。詐欺のような手品のような。見事な作戦で徳川政権のベースは確立されたのである。

淀殿の意地。一度は流れた波乱万丈の会見

「困ったことがあるのう」
徳川家の世襲を宣言したのはいいが、一方の豊臣一族をどうしたものか。きっと、家康は頭を悩ませたことだろう。

豊臣秀吉は、織田家を攻めて一族を滅亡へと追い込むことはなかった。共存というよりも、臣従させてそのまま放置したという感じ。家康も、そうするべきかと自問したに違いない。ただ、秀吉と家康には大きな違いがある。秀吉は出自に関係なく取り立ててもらったという「大恩」が織田信長にある。一方、家康には秀吉に恩などないというコト。

いや、それよりも、と家康は決断する。決定的な上下関係の確立が先だ。

まず必要なのは、秀頼の徳川家への臣従。以前、家康が秀吉にしたように。秀頼もまた、徳川家に対する臣従の意を諸大名らの前で明らかにする。秀吉の天下取りの際には、秀吉に上洛を迫られたうえ、陣羽織の茶番劇まで強要された家康。きっと、あの苦々しい思い出が脳裏に浮かんだことだろう。

慶長10(1605)年4月。ちょうど、家康が秀忠に将軍職を譲るタイミングのときのこと。秀忠は将軍宣下(せんげ)を受けるために上洛。この将軍就任の祝賀という名目で、家康は秀頼に上洛を要望した。ダイレクトにいえば、徳川家に臣従せよというワケである。交渉役は、秀吉の正室であった高台院(北政所、おね)。秀吉と乱世を生き抜いた女性である。豊臣一族の滅亡避けるには、臣従もやむを得ないと判断したのだろう。

これに対して激怒したのが、秀頼の母、淀殿。

北野恒富-「淀君」

『当代記』には、怒りの様子が、次のように記録されている。

「秀頼公母台、是非ともその儀これあるまじく、もしたってその儀に於ては、秀頼を生害せしめ、その身にも自害あるべき由」

ちょうど秀忠が将軍職に就任する4日前。じつは、13歳の秀頼は右大臣に昇ることが決定していた。淀殿からすれば、家康は天下人ではない。未だ、秀頼の後見人なのである。もはや徳川家の時代が到来しているとは理解できない、いや、したくなかったのだろう。上洛するのであれば「秀頼を自害させて自分も自害する」と拒絶。こうして、家康と秀頼の会見は流れたのである。

ちなみに、秀忠の将軍就任の上洛には、なんと、譜代・外様の大名40名強が付き従ったという。もう、この時点ですら、徳川家の勢いを止めることなど、不可能。残念だが、とうに潮目は変わった後だった。

二条城会見での秀頼の対応が命取り?

「鳴くまで待とうホトトギス」
そう揶揄される徳川家康の人格。もともと短気でイライラしがちな性格だったが、人質生活などの多くの苦労が彼を変えた。「忍従もよし」とする、時間をかけるスタイルへと熟成されたのである。

だからこそ。
上洛を拒絶されても、家康は待った。とにかく、事を急くことなく、相手のペースで。現在の状況が理解できるまで。もちろん、チャンスをうかがうことは止めずにである。

その機会がようやく訪れたのが、慶長16(1611)年3月。
後陽成(ごようぜい)天皇の譲位に関連して上洛した家康は、秀頼の参上を要求。場所は京都の二条城。秀頼に対して臣従を突き付けたのである。これを説得したのは、豊臣恩顧の諸大名ら。加藤清正、浅野幸長、片桐且元(かたぎりかつもと)など。豊臣家の存続を願うものたちであった。

歌川国芳-「太平記英勇伝-藤原正清-加藤清正」

『名将言行録』では、秀吉の子飼衆で忠臣、加藤清正の言葉で、秀頼は心を決めたと記録されている。

「このたび秀頼公がご上京なさらなければ、世の中では心の弱い君と申して、ご威光を失ってしまうでありましょう。-(中略)-拙者は終始御輿につき添い、また二条城においても、万一の謀計などがあれば、幾万人の兵がいようとも、片端から蹴殺して、ふたたびこの城にお連れ申します」
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)

この言葉で秀頼は二条城会見を承諾。

二条城会見の決定により、家康は先に手を回す。秀頼の上洛に際して、諸大名らに出迎えを禁じたというのだ。そのため、京都の入口で出迎えた大名は4名のみ。加藤清正、浅野幸長、藤堂高虎、池田輝政らである。秀頼には従う大名が少ないのだと、周囲や秀頼自身に自覚させたかった狙いがある。

そんな思惑のなか、二条城会見に向けて行列がスタート。加藤清正、浅野幸長は伏見から徒歩で付き従う。『名将言行録』によれば、万一のために、300の兵を隠して伏見に留め、残り200の兵は京都の中を徘徊させていたのだとか。予め急変の合図を決めておき、その場合には一気に加勢する算段だった。

そして、運命の慶長16(1611)年3月28日。
待ちに待った徳川家康と豊臣秀頼の二条城会見。秀頼が二条城へ入る際も、御輿の両脇には加藤清正、浅野幸長が変わらず警護。また、付き従った足軽たちも、ただの兵卒ではない。普段はひとかどの武士ばかり。そんな彼らが、足軽として二条城へ入ったのである。

二条城

この二条城会見。世間のイメージは、家康が秀頼を呼びつけ、臣従を迫ったと思われがち。だが、実際は違う。出だしから、家康は秀頼を、丁寧に庭先まで出迎えたという。その場にいた30名ほどの大名たちも、玄関脇の白洲で平伏したのだとか。

そんな中、注目の的である秀頼はというと。
じつは、家康は慶長8(1603)年の新年の賀を最後に、秀頼と会っていなかったという。当時は11歳。それが、二条城会見の際には、秀頼19歳。8年もの月日が過ぎていたのである。まあ、あの分からず屋の淀殿の子。そして、極めつけは、あまり風貌が優れていなかった秀吉、つまり「猿」の子。そんなふうに侮っていたのかもしれない。家康だけではない。誰もが「秀吉の子」というイメージを持っていたのである。

しかし、御輿から降り立った秀頼は、予想を思いっきり裏切る偉丈夫。つまり、超ガタイのよい青年だったのである。一説には、身長は六尺(180㎝)超えて、190㎝オーバーとも。テレビで熱く語る松岡修造氏で188㎝だそう。かなり高身長と思っていたが、それよりもまだ高いワケなのだ。

だから、もう、出てきただけで、デカいとなる。誰もが「秀吉の子だぜっ」という先入観を覆されることに。でも、よく考えてみれば、190㎝オーバーも頷ける。淀殿は当時のというか現代の女性にしてもだが、高い部類の167㎝。そりゃ、息子が190㎝になってもおかしくはない。さらにいえば、淀殿は美形と名高い織田家出身。淀殿の母、お市の方は絶世の美女。そりゃ、息子が見目麗しいのも突然変異ではない。

誰もが、驚愕と混乱に陥る始末。しかし、そんな最中であっても、秀頼は落ち着いていた。威風堂々と、太刀を木村重成(しげなり)に持たせて、歩を進める。ちなみに、これまた、木村重成という武将がイケメン過ぎるほどのイケメン。毎日ラブレターが届くくらいのレベル。もう、多分、この2人の周りはキラキラしてたんでしょうね。白黒の画面にカラーな2人って感じだろうか。

まあ、でも冷静に考えれば。確かにという感じ。いうても秀頼公は坊ちゃんですから。大切に大切に育てられ、そりゃ風格はどえらいモノを持ち合わせているでしょうよ。堂々としたその態度、涼やかな佇まい、一挙手一投足が目を見張るものだったという。

さて、ここで、家康の感想は。

「秀頼は愚魯(ぐろ)なる人と聞きしに、一向に然(さ)なく、賢き人なり。なかなか、人の下知など受くべき様子にあらず」
(前川和彦著『秀頼脱出』より一部抜粋)

「天下人だけが自然に身にまとった悠揚迫らぬ雰囲気と、二言三言会話してみてわかった、その賢さにも舌を巻き、さすがの家康も気圧されたという」
(歴史の謎研究会編『誰も知らなかった顛末 その後の日本史』より一部抜粋)

まあ、家康。驚いたのなんのって。
ってか、ホント人の話って当てにならんわ。そう、ぼやく家康の姿が目に浮かぶ。

こうして、家康は庭先で出迎えたのち、館へは先に入る。その後を秀頼が続くという順番。一方、家康は二条城の中でも最高の座敷となる「御成の間(おなりのま)」へ秀頼を通し、対等な挨拶を促す。しかし、秀頼はこれを固辞。淀殿と異なり、秀頼は自らの立場をわきまえていた。相手は年長で、官位も上。そして大舅なのである。こうして、家康が「御成の間」に入ることに。結果、家康が上席になっての挨拶となったという。

二条城会見の宴席は吸い物のみ。これは、秀頼に色々気遣いがないようにと、配慮されたものだった。宴席には高台院の姿も。秀頼の傍で相伴したという。「御成の間」での突発的なことにも動じず、立ち居振る舞いも見事。立派に成長した秀頼を前に、家康は一体、何を思ったのか。

その答えは、家康の行動に見ることができる。
この二条城会見の直後、家康は西国大名に江戸幕府に対する起請文を出させている。なお、翌年には東国大名にも。成長した秀頼を目の当たりにし、その才を感じ取った家康。二条城会見は、まさに豊臣一族の運命を決めるものとなったのである。こうして、歴史は「方広寺鐘名事件」そして「大坂の陣」へ。豊臣一族滅亡に向けて動き出すのであった。

最後に。
徳川家康が豊臣一族を滅ぼす覚悟を決めた理由。それは、二条城会見で成長した秀頼を見たからだけではない。

それ以上に2つ。家康には気になることがあったのではないかと思う。
それは、「秀頼」に対する周囲の期待である。

その頃、京の町にはある落書きがなされて、有名になっていた。
「御所柿は ひとり熟して 落ちにけり 木の下にゐて 拾ふ秀頼」

二条城会見の時点で徳川家康は70歳を超えていた。もう、既に次の世が見える頃合い。一方の秀頼は19歳。その若さは眩しすきるほど。家康もバカではない。そんなことくらい薄々分かっていたが。まさか、周囲がそこまで熱狂しているとは思いもせず。未だ、豊臣一族の人気は衰えていない、そんな痛い事実を突きつけられたのである。

そして、その期待は、戦国大名の中にも見て取れた。これが2つ目の理由である。
『名将言行録』には、二条城会見の後日談が記録されている。

じつは、二条城会見の日、家康は付き従っていた加藤清正に刀を与える。このとき、清正は虚空に目を向けて頂戴したというのだ。これに気付いた家康は、その方向に「愛宕山(あたごやま)」があることに思い至り、板倉勝重にその理由を調べさせる。すると、清正は密かに、「二条城で秀頼に災害がないように」と、17日間護摩を焚いて祈願していたというのだ。その忠儀に家康は感心した。

と、同時に、危機感を募らせたのだろう。秀頼にはその気がなくても、周囲がそれを許さない。祀り上げられる存在は、徳川家にとっては不要。

誰かが何かを失敗したわけではない。
秀頼は立派に成長し、民衆は喜んだ。
豊臣恩顧の大名は忠義に厚く、その恩を忘れなかった。

そうして、秀頼には柔軟性があった。淀殿のように周囲が見えないこともなく。カリスマ性を備えていた。

何度もいうが、誰かが悪いワケではない。
ただ、全てが時代の流れに噛み合わなかっただけ。

人は、それを「運命」と呼ぶ。

参考文献
『名将言行録』 岡谷繁実著  講談社 2019年8月
『ここまでわかった!大坂の陣と豊臣秀頼』歴史読本編集部編 株式会社角川2015年8月
『お寺で読み解く日本史の謎』 河合敦著 株式会社PHP研究所 2017年2月
別冊宝島『新説 戦国時代』 山本博文監 株式会社宝島社 2017年8月
『秀頼脱出』 前川和彦著 国書刊行会 1997年12月
『誰も知らなかった顛末 その後の日本史』 歴史の謎研究会編 青春出版社 2017年2月

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、北海道(札幌から車で4時間、冬は-20度)で優游涵泳の境地を楽しむ。その後は富山県、愛知県へと流れつき、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。