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Culture
2020.08.28

突然の嵐は祟りか…?築城の天才も降参した「伊賀上野城崩落」の謎

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怪異とは何か。何度問いかけても、答えは分からない。

私自身、霊感はない。何かが見えたり……なんてこともない。けれど不思議な現象に遭遇することは、なぜか多い。

京都に住んでいた頃。近くの二条城の周囲をランニングコースにしていたことがある。ちょうど夜の23時頃だったか。その時間帯になると、二条城前の大通りは意外と交通量も少なくなる。2週目にさしかかり、少し息も上がってきたところで。大通りの信号は赤。スムーズだった車の流れが止まる。

心地よい静寂。
その瞬間、空気が震えた。二条城から「うおぉー」という何十人もの声と足音が聞こえてきたのである。まるで、戦場でのワンシーンのよう。合戦であげられる「鬨(とき)の声」とは、きっとこんな感じに違いない。

どれくらいの間、息を止めていたのか。時間にしてほんの2秒ほどが、強烈に長く感じられた。気付けば、先ほどの静けさの中に。車が走り出す音で、ようやくこらえていた息を吐き出した。

どうやらイベントでも、ドラマ撮影でもないらしい。この不可解な出来事のあと。同じ時間帯に何度も走ったのだが。後にも先にも二条城での怪異はこの1回のみ。科学技術が発達したこの現代にも、説明のつかないことがあるのだろう。

今回取り上げる「伊賀上野城(三重県)」も同じ。なんと、築城と同時に天守閣が崩れ去ったというのである。その陰に、何やら怪しげな噂の存在が。

なぜ、伊賀上野城の天守閣は幻となってしまったのか。夏の夜に、ぴったりの涼しい話。早速、ご紹介していこう。

築城の天才「藤堂高虎」ってどんな人物?

伊賀上野城を大改修したのは、戦国武将の藤堂高虎(とうどうたかとら)。
これまでに仕えた主君が多いからだろうか。コロコロと主君を渡り歩くイメージを持つ人も。ただ、その内実を見れば、病死や水死などやむを得ない場合が多い。自分の意志とは関係なく、結果的に主君を変えざるを得ない人生だったようだ。

それでも、天下人を見分ける千里眼のようなモノはあったのかもしれない。織田勢から、豊臣秀吉、そして最終的には徳川家康へ。特に家康に関しては、スムーズに接近し、その信頼を勝ち取っている。秀吉の死後、天下分け目の争いとなった慶長5(1600)年の「関ヶ原の戦い」では、東軍の勝利に貢献したとして加増。伊予国(愛媛県)今治20万石を与えられる。

藤堂高虎像

この藤堂高虎。マイペースなのか、じつに独特なセンスを持つ戦国武将である。先ほど「関ヶ原の戦い」の話が出たついでに、彼の強烈なエピソードを紹介しよう。

敗者となった西軍。
なかでも、五奉行の石田三成は自刃せずに捕えられ、六条河原で処刑された。死ぬ間際、ホントに最後の最後まで、諦めることなく再起の気概を見せていたというからスゴイ。そんな石田三成だが、関ヶ原からの逃亡中に捕縛、最初に連行されたのが大津城(滋賀県)であった。

『常山紀談』によれば、三成は縛られ、この大津城の門前にさらされていたという。そこで、徳川家康に挨拶にきた戦国武将らと三成が相対するのだが。中には西軍に与しながら、水面下で東軍に寝返っていた者も。豊臣恩顧の戦国武将らも、三成憎しと、こぞって東軍側に味方した。

そんな戦国武将らと三成の会話は、その人となりを如実に表したものだといえる。嘲り、裏切り、慰めなど、多くのドラマが生まれるなか。じつは、藤堂高虎も、石田三成と言葉を交わしていたというのである。
その2人の会話がコチラ。

「藤堂高虎:『(礼儀正しく下馬し)敵方から見て戦場での我が軍をどう思われたかお教え願いたい』
石田三成:『兵卒の働きをよくするために、先手の鉄砲頭は身分のある者を登用するべきだ』」
(大谷荘太郎編 『その漢、石田三成の真実』より一部抜粋)

なんだろう、この特別感のなさ。ごくフツーの会話である。
登城して城内で会話をしている、そんな雰囲気さえ漂う。処刑前の最後の会話とは思えないほど、緊張感のない2人。しかし、一方で。何ら変わらない態度が、石田三成からすれば、非常に嬉しかったのかもしれない。その上、軍に対する助言を求められるとは。最後に、自分の価値が認められた気がしたのではないだろうか。

これだけみても、藤堂高虎は、他の戦国武将とは一線を画す存在だと分かる。

だからこそ、徳川家康からの信頼も大きかった。
慶長13(1608)年。家康は、藤堂高虎を伊賀国と伊勢8郡(共に三重県)に移封(領地を転ずること)。伊予(愛媛県)の2万石と併せて、高虎は22万石に。結果、伊勢国津藩主となった高虎は、「津(三重県)」に2つの城を築城する。

それが「津城」と、問題の「伊賀上野城」である。

この「津」は、近畿と東海を結ぶ上で、交通、軍事両面において中心となる地点であった。何せ、大坂には豊臣秀吉の遺児、秀頼(ひでより)がいる。そういう意味で、「津」は、家康にとって決して外せない場所。

それだけではない。じつは、家康は豊臣方との最終的な決戦も視野に入れていたのである。万が一「敗戦」した場合には、自らが退却できる堅固な城が必要となる。そんな城を確保するには、地理的にも「津」が最適だったのだ。この家康の目的を満足させられる戦国武将はただ1人。それが、築城の名手といわれた藤堂高虎であった。

こうして、彼は家康からの使命を受けて、この地に入封するのであった。

伊賀上野城を襲った悲劇にまつわる噂

慶長16(1611)年正月。
藤堂高虎は、伊賀上野城の大改修に着手。徳川家康の命により、大坂城を意識した工夫が随所になされている。

さて、この伊賀上野城。もとは、平清盛が建立した平楽寺(へいらくじ)があった場所。天正7(1579)年から続く「天正伊賀(てんしょういが)の乱」では、伊賀勢の拠点の一つに。しかし、最後は織田勢5万の大軍に敗北。寺も焼け落ちてしまうのである。

この平楽持の跡地に、織田信雄(のぶかつ)の家臣、滝川雄利(たきがわかつとし)が築いた城が、伊賀上野城の始まりだ。天正13(1585)年には、豊臣秀吉の家臣、筒井定次(つついさだつぐ)が大改修。大坂方面を守る城として、北を正面として修築された。

一方、藤堂高虎はというと。
なんといっても、今回の大改修のポイントは、大坂方に対する備え。そのため、高虎は、まさかの城の正面をこれまでとは反対側に持ってきたのである。南側を大手口(正面のこと)として、本丸を西に拡張。土を盛り、逆に溝を掘り下げて高低差を生み出す。そこに、当時としては想像を絶するほどの高い石垣を積むのであった。

石垣の高さは約30メートル。長さは282メートルに及んだという。「打込接(うちこみはぎ)」という積み方で、石同士の接合密度が高いという。この高石垣、藤堂家の記録『公室年略譜』では、当時の豊臣大坂城を上回る規模だと記録されている。なお、現在の日本でも、大阪城と並ぶほど。伊賀上野城のホームページには、日本一の高さを誇っているとの掲載もあるくらいだ。

「伊賀上野城」 現在の天守は模擬天守である

藤堂高虎は、こうして、伊賀上野城の修築に力を注ぐ。

天守もしかり。
当初は自身が築いた今治城(愛媛県)の天守を移築する予定であったのだが。その天守が丹波の亀山城(京都府)へと転用されることになり、新たに天守を築くことになったのである。

予定では、五層の天守を計画していたという。
一層ずつそれぞれ大工頭に担当させ、互いにそのスピードを競わせたとも。移築が変更され、一から造らねばならなくなった五層の天守。時間との勝負である。効率よく、それでいて確実に。高虎は急ぎながらも、見事な天守を造りあげることに尽力した。

その甲斐あって。竣工も目前。ようやく伊賀上野城の修築も完成の目途が立った。

そんな矢先。
まさかの想定外のハプニングに、伊賀上野城が見舞われる。

なんとも不思議な出来事である。
慶長17(1612)年9月2日。五層目の瓦を葺き終えて。さあ、これまでの努力がやっと報われると。皆が気を許したところで。あっという間に、上空に黒雲がわき起こる。突然の大嵐である。伊賀上野城を暴風雨が襲いかかったのである。

先に倒されたのが天守の三層目。
東南方向に崩れた途端、なぜか、五層目が二層目の上に落ちる。さながら、だるま落としのようだったとか。そうなれば、天守全体の崩壊は時間の問題。案の定、暴風雨には勝てず。結果的に、五層の天守は跡形もなく崩れ去ったのである。

その破壊音は、周囲に響き渡り。数里先の民家まで達したという。さぞや、地響きも半端ではなかっただろう。死者は180名以上。中には、嵐に巻き込まれ瓦から地上に落ちた者も。逆に、掴んだ戸板がパラシュートとなって無事に着地した者もいたのだとか。

さて。ここで1つの疑問が。
どうして、伊賀上野城の天守は、完成間近で崩れてしまったのだろうか。

時期的なことを考えれば、嵐が来るのもおかしくはない。それに、もともと移築の予定が変更となったのだ。工事も、当初よりスピードアップが必要。突貫工事を行った可能性もある。

しかし、藤堂家の記録である『高山公実録(こうざんこうじつろく)』には、全く違う話が記されているという。なんと、大嵐による崩壊が「山神の祟り」だというのである。

話はこうだ。
じつは、この大暴風雨が起こる直前。ある1人の子どもが、工事を行っている現場に現れたのだとか。もう、この時点で、既に怪しさ全開。

そこで、子どもが話した内容とは……。

「天守修築の材木として神木を切った報いに、間もなく嵐が来るぞ」
(向井健祐編『戦国武将と名城 知略と縄と呪いの秘話』より一部抜粋)

一説には、子どもではなく、薄汚れた衣をまとった法師だったとも。子どもなのか、法師なのか。どちらにせよ、天守の崩壊は、御神木の伐採が理由ではないか。そんな噂が流れ、当時は「御神木伐採説」が疑われていたという。

それでは、実際のところ、どうだったのか。
結論からいうと。当時も今も真相は分からずじまい。突貫工事の言い訳として、このような噂を故意に流したのかもしれないし。はたまた、本当に御神木を伐採して、その祟りだったのかもしれない。しかし、そんな事実との因果関係を証明することなど、現実的に無理な話。

ただ、伊賀上野城の天守はというと。
当時は、暴風雨で崩れ去ったため、もちろん工事は中止。じつは、その後も工事は再開されなかったという。結果、天守がないまま、同年12月。伊賀上野城はいったん完成を迎えるのであった。そして、その約3年後。大坂の陣で豊臣方は滅亡。逃げ込むための城と想定された伊賀上野城は、その存在意義が失われてしまうことに。

こうして、伊賀上野城の天守は、二度と再建されることがなかったのである。

最後に。
怪異譚は別段、特別なものではない。

またまた私の話で申し訳ないが。
実家にある桜の木。祖父と父が2代にわたって切ろうとしたが、両名とも屋根から、脚立からと、相次いで落下。なぜか切ろうとすれば、落ちて怪我をする。切れない。それがいつしか、この桜の木は切ってはいけない。怪我をすると伝えられることに。

自分の家のことながら、事実は本当に分からない。木の祟りなのかもしれないし。桜の木の根が張り過ぎて、地面が不安定となり、落下してしまうのかも。物理的な要因も考えられる。

ただ、いえるのは。
人の心にある「疑い」が、端を発するのだというコト。

先ほどの桜の木であれば、「切るのが可哀そう」「本当に切ってもいいのか」と、そんな迷いがベースにあるからこそ。何かが起これば、その迷いが一気に現実に昇格される。こうして、後付けで、「ほらね、やっぱりね」となるのである。

そういう意味では、怪異譚の中心は、やはり人。
事実も解釈次第で、怪異譚にもなり、奇跡にもなる。なんなら、伊賀上野城の天守崩落は、豊臣方からすれば、「天意」とも取れるワケで。

だから、何か不思議なコトが起これば。
自分の中の声を聞けばよい。

ひょっとしたら。
思ってもみない「心の声」が聞こえるかも。

参考文献
『名将言行録』 岡谷繁実著  講談社 2019年8月
『戦国武将と名城 知略と縄と呪いの秘話』 向井健祐編 株式会社晋遊舎 2012年7月
歴史道『その漢、石田三成の真実』 大谷荘太郎編 朝日新聞出版 2019年6月
『日本の城の謎 伝説編』 井上宗和著 祥伝社 2020年2月
『日本の城の謎 攻防編』 井上宗和著 祥伝社 2019年10月

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、北海道(札幌から車で4時間、冬は-20度)で優游涵泳の境地を楽しむ。その後は富山県、愛知県へと流れつき、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。