Culture
2020.10.01

織田信長は本当に「無神論者」だったのか?比叡山を焼き討ち本願寺と戦った男の真実

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服装や髪は乱れたまま。全くもって礼儀正しくない。

さらにその上、悲しみで途方に暮れる親族の集まりの中。つかつかと、仏前まで歩き。なんと、抹香を鷲掴みにしたかと思うと、そのままぶちまけたのである。

これは、織田信長を語る上で、必ずといっていいほど取り上げられるエピソードの1つ。言葉を失うほどの「規格外」とでもいえばいいのだろうか。このエピソードをもとに、「無礼者」や「うつけ」といった若き日の信長像が定着する。

だが、最初に下った最低最悪評価は、いつの間にか姿を変える。信長が勢力を拡大するにつれて、「無礼者」が「天下を狙うほどの器量」へと実を結ぶことに。この始めと終わりのギャップが大きいほど、人は畏怖の念を抱く。

そして、いつしか。周りの者は、静かに納得するのである。
ああ。
信長の如く、天下人になりうる一握りの人間は、結局、自分たちと違うのだと。

到底、凡人の我々には理解できなくても仕方ない。こうして、「織田信長」という人物像は、偏ったまま人々の記憶に残るのだ。

さて、冒頭に挙げたエピソードである「抹香ぶちまけ事件」。さらに信長が行った「比叡山の焼き討ち」や「本願寺勢力との長期にわたる戦い」。これら全てを繋げて導き出されるのが、織田信長に対する「無神論者」というレッテル。

しかし、このエピソード。
じつは、全く違う見方ができることをご存知だろうか。

そこで、今回の企画は「どうか。無神論者と呼ばないで」というモノ。これまでの織田信長の所業を紐解きながら、「無神論者」という評価を打ち破っていこう。

※冒頭の画像は、一英斎芳艶 「瓢軍談五十四場 第七 桶狭間合戦に稲川氏元討死」(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)となります

信長の「無神論者」説はあのフロイスが言い出した?

織田信長が「無神論者」であるとは、一体、誰が言い出したのか。

いや、その前に。
織田信長といえば、忘れてはならないのが熱田神宮(愛知県)の「信長塀」。土と石灰を油で練り固め、瓦を厚く積み重ねられて作られた築地塀(ついじべい)のことである。京都三十三間堂の太閤塀などと共に、「日本三大土塀」のうちの1つとして数えられている。

「信長塀」のモデル

そもそも、どうして織田信長が熱田神宮に築地塀を奉納したのかというと。永禄3(1560)年5月の「桶狭間の戦い」で、信長が大金星を上げたからだ。当時は無名だった信長が、上洛まで視野に入れていたあの今川義元を破る。誰もが予想しなかった快挙に周囲は驚いた。ここに、戦国時代の流れを変えた「番狂わせ」が実現したのである。

じつは、この戦いの直前。信長は熱田神宮(愛知県)で戦勝祈願を行っている。そして、願い通りの大勝利のお礼に、熱田神宮へ奉納したという経緯だ。

戦勝祈願に、お礼まで。
なんだか、とっても意外。これでは、フツーの信心深い戦国武将ではないか。勝手ながら、信長という男は「神仏など頼らず実力があれば勝つのだ。ワハハハ」と仁王立ちしているイメージだったのに。

それだけではない。
小瀬甫庵(おぜほあん)の『信長記』、また『改正三河後風土記』には、予想外の記述も。ただ、信長の家臣の太田牛一(おおたぎゅういち)が記した『信長公記』にはないため、創作の可能性もあると注意しておこう。なにやら、熱田神宮での戦勝祈願の折に、社壇にて不思議なコトが起こったというのである。鎧(よろい)の草摺り(くさずり)の揺れる音がしたのだとか。そんな奇怪なエピソードが記されている。

しかし、ここでも、信長は意外な言葉を吐く。

「信長は、この時も『戦勝祈願の折、武具の音を聞くとは吉兆である。これはまさに熱田大明神の御加護のあるしるしに違いない』と言ったという」
(小和田哲男著『戦国軍師の合戦術』より一部抜粋)

これまた、織田信長のイメージとあまりそぐわない。一瞬、縁起担ぎかとも思ったのだが。信長は、あまり縁起云々にはこだわらないタイプ。戦国武将の間では、一般的にタブーとされている「北向きに甲冑を置く」こと。しかし、信長は、うっかり北向きに置いてしまった家臣を叱りとばしもせず。あくまで冷静に、現実的な対応を見せている。

だから、純粋に「熱田大明神の御加護」を願っていたともいえるのだ。そういう意味では、信長は一般的な信心を持ち合わせていたのだろう。

加えて、仏教に対しても、わずかながらの信仰が垣間見える。安土城(滋賀県)の築城の際には、菩提寺である臨済宗妙心寺派の「總見寺(そうけんじ)」を移築。それだけではない。軍旗も「南無妙法蓮華経」と書かれたものを使用。繋ぎ合わせれば、禅宗や法華宗への信仰もチラッとだが、うかがい知ることができるのだ。

だとすれば……。
と、最初の質問に戻るワケである。一体、誰が織田信長を「無神論者」と言い出したのか。それが、非常に気になるところ。

織田信長像

さて、この「無神論者」の発信源はというと。
ポルトガルから布教のために来日していた、イエズス会宣教師の「ルイス・フロイス」である。

彼は、多くの戦国武将について記録し、当時の日本の習俗なども含めて、一連の布教史をまとめあげた。当然、織田信長についての記述もある。その著書『日本史』の中で、以下のような内容が記されている。

「彼(信長)は善き理性と明晰な判断力を有し、神および仏のいっさいの崇拝、尊崇、ならびにあらゆる異教的占卜(せんぼく、占い)や迷信的慣習の軽蔑者であった」
「霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした」
(ルイス・フロイス著『日本史』より一部抜粋)

確かに、神仏への崇拝の軽蔑者との記述は「無神論者」を疑わせる。実際に、来世の賞罰はないと考えているのであれば。「救われる」コトを肯定する幾つかの宗教と矛盾することにもなるだろう。

ただ、この一言を持って、「神をも恐れぬ織田信長」という人物像ができたワケではない。後世にまで、そのイメージが根強く残るには、それ相応の所業が必要となるのである。

もはや「本願寺」も「比叡山延暦寺」も「宗教勢力」ではない?

決して、見たモノ全てが事実ではない。
玉虫色のように、違う角度から見れば、異なる色に見えることも。

例えば、織田信長はキリスト教に寛容だが。一方で、「比叡山延暦寺(滋賀県)の焼き討ち」や長年にわたって続いた「石山本願寺(大阪府)との戦い」では、仏教勢を相手に厳しい対応を取っていると思われることも。

確かに、見方によっては、なんだか仏教を弾圧したようにも思えなくもない。

ただ、実際のところはというと。
彼らを、仏教勢と見るからややこしいのである。「宗教団体」ではなく、一大名と同じ。単なる一大勢力の1つに過ぎなかったとみれば、また話は違ってくる。

まず、「本願寺勢」から。
浄土真宗本願寺派の第八世「蓮如(れんにょ)」の頃、信者は爆発的に増え、「石山本願寺」を創建。場所は、現在の大坂城のあるところだ。既に82歳だった蓮如は引退をしており、当時の法主である「証如(しょうにょ)」の長男が、「顕如(けんにょ)」であった。

一根斎よし 「石山本願寺合戦」 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

当時、織田信長と敵対していたのが越前(福井県)の朝倉氏、そして裏切った義兄の近江(滋賀県)の浅井氏。「本願寺勢」のトップであった顕如は、この浅井氏との同盟を確認している。時代の情勢をみて、時に、武田信玄と手を結ぶこともあった。

一方、「比叡山側」はというと。
もともと、平安時代より、比叡山延暦寺は多くの僧兵を抱えていた。彼らは、いざとなれば山を下り、日吉大社の御輿を担いで朝廷に強訴した強者。時の権力者たちも、仏罰に恐れをなして、その訴えを聞き入れていたという。

そして、こちらも同様。比叡山側も、先ほどの朝倉氏、浅井氏に加担していたというのである。浅井・朝倉の兵が逃げ込めば当然匿った。いうなれば、信長の敵対勢力と手を結び、反抗したのである。

また、焼き討ちするにあたっても、抜き打ちで行ったワケではない。『信長公記』によれば、元亀元(1570)年に、事前の通告を比叡山に対して出している。信長側に味方する、もしくはそれができなくても、一方に加担せず、中立を保ってほしいと。これができない場合は、焼き払うと明言していたのだ。

こうなると、彼らは、たまたま「宗教団体」という側面が強かっただけ。じつは、同盟を結ぶ戦国大名と何ら変わらない。一大勢力だと見ることができるのだ。

惺々周麿 「東海道名所之内 比叡山」 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

そもそも、端的にいえば。
当時の「僧侶」と現代の「僧侶」とでは、極端にイメージが違う。

無抵抗な大人しい僧侶に対して、寺を焼いたり、戦ったりするなんて。織田信長は極悪非道だと憤る。これは、現代の僧侶を前提にして考えるから起きる誤解である。

当時の「石山本願寺」や「比叡山延暦寺」の僧侶は、現代のような「ザ・僧侶」ではない。慈悲深く、武力にも耐えて読経で立ち向かう。そういうタイプもいたかもしれないが。戦う彼らは、武力も厭わず。武士顔負けの強靭な肉体を持つソルジャーだったのだ。

加えて、「本願寺勢」の主力となって一向一揆を起こす門徒らは、恐れを知らなかった。戦国大名同士なら、優勢がつく頃に退陣することもしばしば。大将が討ち取られでもすれば、確実に敗走する。しかし、念仏を唱えながらひたすら前進する門徒らは、鉄砲も恐れない。味方が倒れても、それを超えて迫る勢いである。いうなれば、戦いの常識が通用しない相手でもあった。

こう考えると、織田信長が神仏を恐れずに戦ったとみられても仕方ない。それほど、なりふり構わず戦わなければならない相手だったのである。

こうして、結果的に。
信長と「宗教勢力」との戦いは、「無神論者」という見方を後押しすることに。他の言動も相まって、その強烈なイメージが覆らず、蓄積されていったのだろう。

最後に。
事実は1つ。
しかし、その焦点の当て方違いで、事実は幾重にも形を変える。

信長が安土城の築城の際に、石段に石仏を使用したのもそう。人々は通る際に、本来なら崇めるはずの石仏を踏む。ただ、違う角度から見れば、当時は「転用石(てんよういし)」として、墓石や石仏、灯篭なども石垣などに用いられた。これが、特段、珍しかったワケではない。

信長が石仏を使用したのは、単純に石不足を解決するためか。いや、一方で、神仏を封じ込めることで、その力により城の守護を祈願していたとも考えられる。罰当たりなのか、それとも信心深いのか。見る側の解釈で、180度も結論が変わるのだ。

冒頭でご紹介した「抹香投げつけ事件」もそう。
もちろん、死者への冒涜と見ることもできる。いや、亡くなった父に対し、悲しみがあのような形となって表れたのかも。案外、悔しさや怒りの種類といった感情だったかもしれない。

あるいは、「魂呼び(たまよび)」という見方もできる。
「魂呼び」とは、臨終あるいは死の直後に、枕もとなどで死者の名を呼ぶ習俗のコト。霊魂を呼び戻して、死者を蘇らせるのである。三途の川を渡りそうな死者を戻すのだから、何より大声で叫ばなければならない。

地域によっては、屋根や木、丘に上がって叫ぶ。海や井戸に向かって叫ぶ場合も。枡(ます)の底を叩いて大きな音を出すこともある。

だったら。
焼香を投げつけるのだって、別バージョンでありそうではないか。

果たして、織田信長は「無神論者」だったのか。

ひょっとすると、解釈次第で。
また違う答えが出てくるのかもしれない。

参考文献
『信長公記』 太田牛一著 株式会社角川 2019年9月
『戦国軍師の合戦術』 小和田哲男著 新潮社 2007年10月
『名将言行録』 岡谷繁実著  講談社 2019年8月
『お寺で読み解く日本史の謎』 河合敦著 株式会社PHP研究所 2017年2月
『虚像の織田信長』 渡邊大門編 柏書房 2020年2月

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