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Culture
2020.08.27

命より、夫との死を選ぶ。19歳で壮絶な最期を迎えた武田勝頼夫人の愛

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山梨県韮崎(にらさき)市にある武田八幡宮。
この神社に、現在も所蔵されている1つの願文がある。和紙1枚に26行びっしり。571文字を書き込んだ必死の戦勝祈願の願文だ。

誰が奉納したかというと。
願文の最後の署名は「源勝頼うち」。

この「源勝頼」とは、武田信玄の跡を継いだ「武田勝頼(たけだかつより)」のこと。そんな勝頼に、当時わずか14歳で嫁いできたのが、北条氏政(うじまさ)の妹。同盟のための政略結婚であったとか。そして、この女性こそ、願文の主、勝頼夫人なのである。

愛情の示し方は人それぞれだというが。
特に、戦国時代の女性は、行動力がものをいう。夫の代わりに城を守る女性もいれば、夫と共に甲冑に身を包んで戦う女性も。

片や、懸命に神仏に祈りを捧げ、夫の無事を祈願する女性もいた。今回は、そんな静かな愛情を見せた、この武田勝頼夫人をご紹介したい。

結婚してから5年後。当時19歳の彼女が選んだ人生の結末。それは、あまりにも切ないものだった。そんな彼女の最期を、決死の願文と併せて紹介していこう。

冒頭の画像は、一英斎芳艶『瓢軍談五十四場』より「瓢軍談五十四場 二十一 天目山に武田伊賀四郎勝家主従討死す」(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)となります

武田勝頼はあくまで諏訪氏だったのか?

今回の主役である武田勝頼夫人。夫に嫁いだ当時、彼女は14歳。後妻である。ちなみに、夫である武田勝頼はというと、32歳。思いのほか、年齢差のある夫婦だったようだ。そんな2人の最期は、壮絶なもの。多くの家臣に裏切られ、残ったのは40名ほどの若い家族らのみ。それも厳密にいえば、武田氏というよりは。その実体は、諏訪(すわ)氏と後妻として小田原から嫁いだ北条氏に近いといってよいだろう。

はて、諏訪氏?
確かに不可解に思うだろう。じつは、この武田勝頼。少々、生まれが複雑なのである。武田信玄の四男ではあるが、彼の生母は側室の「諏訪御料人(すわごりょうにん)」。それも武田信玄が攻め滅ぼした義兄弟、「諏訪頼重(すわよりしげ)」の娘なのだ。

彼女は、もともと人質として武田家に差し出されていた。そして、父を殺され、敵方、つまり殺した信玄の側室に召し出されることに。のちに子を産んで死去。薄幸の女性としても有名な諏訪御料人である。

そんな彼女を母に持つのが、この勝頼。ただ、不思議なことに、その名に武田家の通字となる「信」が入っていない。じつは、勝頼の嫡男ですら「信勝」として入っている。逆に、勝頼の名には「頼」という通字が。これにはワケがある。そもそも勝頼は、絶えた諏訪氏を継承する人物と、武田家ではみなされていたのである。

しかし、武田信玄の嫡男・義信(よしのぶ)の死で、状況は一変。四男の勝頼が武田家を背負うことに。急遽、表舞台へと担ぎ出されたような形に。ただ、残念なことに。信玄は、死する時まで、勝頼を諏訪一族の人間と思っていたようだ。

武田信玄像

『甲陽軍鑑』に記されている信玄の遺言が、それを裏付ける。

「跡の儀は、四郎むすこ信勝十六歳の時家督なり。其間は、陣代を四郎勝頼と申付候」
(吉本健二著『戦国武将からの手紙―乱世に生きた男たちの素顔』より一部抜粋) 

信玄の遺言といえば、自分の死を3年秘匿せよという内容が有名だ。しかし、じつは、そのあとに、衝撃の内容が記されている。

まず、「四郎」とは勝頼のこと。家督は、勝頼の嫡男である「信勝(のぶかつ)」に。彼が16歳となればという指示がなされている。それまでの間、勝頼が「陣代(じんだい)」として行うとのこと。「陣代」とは、後見人もしくは仮の大将という意味合いの言葉。つまり、勝頼は、正式な武田家の家督継承者ではなかったことになる。なんとも、あまりにもつれない内容である。

さらに、そこまでするか……という内容の遺言が続く。

「武田の旗はもたする事無用也。まして我そんしのはた・将軍地蔵の旗・八幡大菩薩の小旗、いづれも一切もたすべからず。―(中略)-諏訪法性の甲(かぶと)は勝頼著候て、其後是を信勝に譲候へ」
(同上より一部抜粋)

武田家の旗は持つなと。そんし(孫子)の旗とは、あの有名な風林火山の軍旗である。武田勝頼は、これらの旗を持つことが許されなかった。その裏の意味は、あくまで武田家の人間ではないのだと。それを忘れるなとの遺言であった。

だからだろうか。
こんな遺言を跳ね返すかのように、勝頼は、領土拡大に明け暮れる。父の信玄も落城させられなかった遠江高天神城(とおとうみたかてんじんじょう、静岡県掛川市)の攻略に成功。これまでで武田家最大の領地を確保するのであった。

19歳の後妻が見せたあっぱれな散り際

武田勝頼の最初の躓きは、やはり、天正3(1575)年5月の「長篠の戦い」であろう。前年に高天神城を陥落させ、武名を上げたのだが。残念ながら、織田信長・徳川家康連合軍相手に、武田家が誇る騎馬隊は壊滅。武田四天王といわれた重臣のうち、馬場信房(ばばのぶふさ)、山県昌景(やまがたまさかげ)、内藤昌豊(ないとうまさとよ)らが戦死する大敗となった。

勝頼に対する評価は、この一戦から崩れていく。ただ、一方で。勝頼はというと、これを機に武田信玄が築いた旧体制を一新。新たな家臣を召し抱え、天正5(1577)年には、北条氏との同盟を結ぶ。そして、北条氏康(うじやす)の末娘、つまりは、氏政(うじまさ)の妹と政略結婚へ。当時14歳の彼女は、継室(後妻)として勝頼に嫁ぐのである。

松雪斎銀光『役者錦絵帖』より「講談一席読切 武田勝頼 沢村訥升」出典:国立国会図書館デジタルコレクション

しかし、この同盟も、そう長くは続かない。
上杉謙信の死後、天正6(1578)年に上杉家の後継者争いが勃発。「御舘(おだて)の乱」である。当初は北条氏政の要請で上杉景虎(かげとら)に加勢したのだが。途中で鞍替え。妹の菊姫を景勝(かげかつ)の正室として送り込み、景勝側へと回る。この結果、景虎は自害し、景勝が上杉家の家督を継承することに。

こうして、北条氏との同盟は解消の一途へ。じつは、これに伴い、氏政の妹である勝頼夫人を小田原城へと送り返そうとするのだが。なんと、彼女は拒否。勝頼のもとから去ろうとはしなかった。

ただ、それは彼女だけの話。もちろん、実家の北条氏は勝頼を許さず、敵対の姿勢に転ずる。なんと、北条氏は三河(愛知県)の徳川家康との同盟関係を選択。東西を北条氏政、徳川家康に挟まれる困った状況に。勝頼は、なんとも苦しい立場に置かれるのであった。

「家康公肖像」出典:国立国会図書館デジタルコレクション

これまで高天神城に対して兵糧などを運搬して援護し続けていたが、それもままならず。勝頼が北条氏の侵攻に対応しているなか、天正9(1581)年3月に徳川家康が高天神城を奪取。世間的には、武田勝頼が高天神城を見捨てた形となる。これにより、武田家臣団の離反は一気に加速。これまでの不満が表面化するのである。

既に滅亡へのカウントダウンが始まった武田勝頼。諦めずになんとか新たな手を打とうとするのだが、彼の行動全てが、皮肉にも裏目にでてしまう。高天神城を失った勝頼は、天正9年12月に、本拠地を新たな居城である新府城(山梨県韮崎市)へと移す。

天正10(1582)年正月、そんな勝頼に対して、とうとう重臣の木曾義昌(きそよしまさ)が裏切ることに。この義昌には、勝頼の姉が嫁いでいたのだが、そんな姉婿の親族までもが勝頼を見捨てるのである。

この謀反に、勝頼は「木曾退治」として出陣。人質であった彼の年老いた70歳の母や、13歳の嫡男などと処刑して、同年2月2日に新府城を出陣。この道中で、武田勝頼夫人は、武田八幡宮に戦勝祈願の願文を奉納している。それが「南無奇妙朝来、八幡大菩薩」と始まる願文だ。その内容を一部ご紹介しよう。

「ここに思いもよらぬ逆心が新たに出現して、国家を悩ましております。そこで勝頼が運を天道に任せて命を顧みずに敵陣に向かっております。それなのに、付き従うべき士卒が利益を得ることがないので、その心がまちまちとなっております。どうして木曾義昌ははっきりとした神の御心を無視して、哀れなことに肉親の父母を捨てて謀反の兵を起こしたのか。-(中略)-そもそも勝頼にどうして悪心がありましょうか。思いの炎が天に上がり、瞋恚(しんい、怒り恨むこと)はさらに深いでありましょう」
(吉本健二著『戦国武将からの手紙―乱世に生きた男たちの素顔』より一部抜粋)

日付は天正10(1582)年2月19日。出陣の道中でのこと。夫に悪心などない。どうして、どうしてと、その思いが切に溢れる願文となっている。これを書いたのは、わずか19歳の女性。実家までも敵にして、夫の戦勝をただひたすら願う。

しかし、天はそこまで優しくはなかった。
木曾義昌の内通で、織田信長の嫡男である信忠(のぶただ)ら織田軍が、一気に信濃(長野県)に侵攻。四面楚歌、勝頼は窮地に立たされるのである。

「妻である私もこの武田八幡宮にあって、夫とともに哀しみます。涙がまたハラハラと落ちてまいります。-(中略)-悲しいことです。神の御心に真実があるならば、運命がこのような時となるに至っても、願わくば霊神が力を合わせて、勝利を勝頼の一身に付けさせなさって、仇となる力を四方に退けてください。兵乱となったことがかえって天命を開き、寿命が長遠となって子孫繁昌となることを。右の大願が成就したならば、勝頼も私もともに社壇を自ら磨き立て、廻廊を建立することを、敬って申し上げます」
(同上より一部抜粋)

涙がハラハラとこぼれる様子が目に浮かぶ。
運命であっても、それを覆したい。兵乱が逆に天命を開く。
彼女の前向きな願いも、聞き入れられる余地はなかったようだ。

願文空しく、侵攻する織田軍、徳川軍に対して、武田諸城は無血開城さながらに次々と降伏。武田勝頼に対する包囲網はどんどん狭められていく。こうして、勝頼はやむにやまれず。家臣の小山田信茂(おやまだのぶしげ)の勧めを受け、新府城に火を放ってから、彼の居城である岩殿山城(いわどのやまじょう、山梨県大月市)へと向かうことに。

しかし、最後の最後で。
ここにも裏切りが。

笹子峠の入口で、まさかの小山田の軍勢に阻止されるのである。
騙されたと悔やんでもあとの祭り。結果、勝頼らは岩殿山城へは入れずにいた。しかし、周囲には、織田軍の滝川一益(たきがわかずます)の先陣たちが迫ってくる。

こうして勝頼は行き場をなくし、行き先を天目山(てんもくざん、山梨県甲州市)へと変更。じつは、この場所は、先祖の武田信満(のぶみつ)が戦死した地。城を出た時とうって変わって、500から600ほどの兵はどんどんと逃亡し、もはや残っていたのは41名。

勝頼は、どうにか田野の民家に応急の柵をつけて中へと入る。
そして、再び。ここまで付き添った勝頼夫人を、北条氏のもとへと逃がそうとするのであった。この若い後妻をなんとか生きて実家に戻してやりたい。勝頼の思いは強かった。しかし、それ以上に勝頼夫人の思いの方が強かったようだ。彼女は、最後まで首を縦に振らず。あくまでも、夫と死を共にする気であったのだ。

既に民家を包囲された勝頼一行。彼らに、最後の時が迫る。あとは、死するのみ。

自分たちの手でと、勝頼の兵らが残っている婦女子を刺し殺すなか。勝頼夫人はというと。自ら西方浄土に向かって念仏を唱えて。そうして、一言。

「私は北条早雲以来の弓矢に家柄に生まれた女、見事な最期を遂げて見せましょう。どうぞ、最後の模様を実家に伝えてください」
(河合敦著『神社で読み解く日本史の謎』より一部抜粋)

自ら守り刀を口に含み、ぐっと両手で押し込む。見事な散り際。こうして彼女は自害し果てる。享年19歳。彼女の最期は「壮絶」という言葉が似合うものであった。

妻の最期を見届けた勝頼らも、民家からうって出る。最期まで敵方と戦うも、結果は目に見えていた。

同年3月11日。
群がる敵に倒され、勝頼は討死。享年37歳。
16歳の嫡男、信勝も斬りまくって討死。

こうして、名門武田氏は滅亡したのである。

一英斎芳艶『瓢軍談五十四場』より「瓢軍談五十四場 二十一 天目山に武田伊賀四郎勝家主従討死す」出典:国立国会図書館デジタルコレクション

最後に。
武田氏の菩提寺の恵林寺(えりんじ、山梨県甲府市)にいた快川和尚(かいせんおしょう)が、勝頼夫人の性格を書き残している。どうやら彼女は、慈愛に満ち溢れた人だったとか。若いながらも誰にでも優しく接していたという。確かに、最後まで裏切らずに、夫の傍にいた彼女には、しなやかな強さを感じる。

そんな彼女の辞世の句は。

「黒髪の 乱れたる世ぞ 果てしなき 思いに消える 露の玉の緒」
(同上より一部抜粋)

彼女の短き人生は、露となって消えていった。

彼女は、最期に一体何を思ったのか。やはり、死ぬ間際まで夫の心配をしたのだろうか。彼女が、最後に選んだのは、自分の命ではなく、夫の武田勝頼との死だった。

勝頼の人生を振り返れば、過酷の一言に尽きる。出生から諏訪一族の運命をも背負い、人生の半ばで武田家重臣らに見切りをつけられる。最後に城を捨てて向かった先でも、やはり裏切られた。

しかし、ただ1人。
人生の最期まで彼を信じて傍を離れなかったのが、勝頼夫人。戦勝祈願にまで、勝頼は悪くないと切に訴えた妻である。

そう考えると。
裏切りの連続であった人生であっても、死ぬ間際は1人ではなかった。
勝頼だけを信じ抜いた妻がいた。

それだけが、せめてもの救いなのかもしれない。

参考文献
『信長公記』 太田牛一著 株式会社角川 2019年9月
『戦国武将からの手紙―乱世に生きた男たちの素顔』 吉本健二著 学研プラス 2008年5月
『山内一豊の妻と戦国女性の謎』 加来耕三著 講談社 2005年10月
『神社で読み解く日本史の謎』 河合敦著 株式会社PHP研究所 2015年6月

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、北海道(札幌から車で4時間、冬は-20度)で優游涵泳の境地を楽しむ。その後は富山県、愛知県へと流れつき、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。