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Culture
2020.09.07

「最後の一文」が肝!交渉術の達人・徳川家康に学ぶ、手紙の極意とは?

この記事を書いた人

手紙ほど、その人となりを表すものはない。

「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」
これは、「本多重次(ほんだしげつぐ)」の妻へ宛てた手紙。簡素で非常に短い手紙として有名である。

重次は、徳川家臣団の中でも「鬼作左(おにさくざ)」と呼ばれた猛将。7歳のときに徳川家康の祖父に仕え、続けて家康までの3代を歴任。その公平で清廉な性格は、若き日の家康に多大な影響を及ぼしたとも。

先ほどの手紙は、ちょうど織田・徳川連合軍と、武田勝頼(かつより)率いる武田軍が対峙した「長篠の戦い」での手紙。どうやら陣中から出されたものだという。「お仙」とは、息子の仙千代のこと。家のこと、子どものこと、馬のこと。戦場からということもあって、必要最小限の要件のみを明確に伝えた手紙だといえよう。

さて、手紙といえば。
戦国武将が出した手紙は、じつに多い。
その残された手紙からは、彼らがどのような状況に置かれ、いかなる意図をもって出されたのかが、ぼんやりと見えてくる、それは、戦国武将らの頭の中を少し覗くようなことかもしれない。

状況を見極めてどちら側につくか、難しい判断を迫られる。時に調略もやむを得ず。彼らからすれば、水面下での交渉は、下剋上で生き残る必須スキルなのだ。そして、意外と思われるかもしれないが。そのスキルは、現代でも十分通用する。

特に、コチラの方。
江戸幕府を開き、徳川家の礎を築いた「徳川家康」は、イチ押しのスキル保持者。

あらゆるシーンで使うことのできる交渉術が、手紙の中にふんだんと散りばめられている。さりげなくも計算し尽された言い回し。最後に判断を促すキメの一文。誰を相手として出すのか、いつのタイミングで出すのかなど、全てが完璧なる予定調和。

今回は、そんな家康の手紙を取り上げて、パターン別にどのように参考にできるかをご紹介したい。

※冒頭の画像は「家康公肖像」出典:国立国会図書館デジタルコレクションとなります

「絶対絶対来てね」って、どうしても来させたい場合

手紙とは、なかなか難しいものである。
例えば、現代であれば、電話やメールのみならず、様々な通信手段で、やりとりができる。その場で相手の反応を見ながら、押したり引いたり。時には妥協してみたり、なんなら即座に提案内容を変更することだって可能だ。

ただ、手紙となると、どうしてもタイムラインのズレ感は否めない。もちろん、それが趣となることも。そのゆったりとした時間の中で、牛歩戦術のようなもどかしさが逆に愛を育む。平安時代における男女の歌のやりとりなどが、まさしくそう。

しかし、時は戦国時代である。牛丼なら「早い安いウマい」よりも、「早い」×3の一択。なにしろスピードが命。相手が迷っているタイミングで、味方へと引き込む手紙を出さなければ何の効果もない。決断し動いてしまえば、「時すでに遅し」なのである。

加えて、手紙は、相手の反応を見ることができないのも大きなデメリット。誤解されればそれで終わり。言い直しも、撤回も、はたまた、追加も難しい。そのため、1つの手紙で、いかに相手のハートに「ずきゅん」と撃ち込めるかが勝負となる。

さて、そんな手紙を作り出せる上級テクを持っていたのが、徳川家康である。豊臣秀吉の死後、次の天下人の座を狙って動き出した家康だが。「関ヶ原の戦い」前の50日間で、確認されるだけでも、なんと、82名の外様大名に手紙を出している。その数、160通以上。どれほど精力的なんだと、驚くばかり。

今回、最初にご紹介するのは、そのうちの1通。豊臣恩顧の大名と名高い「福島正則(ふくしままさのり)」宛ての書状である。

福島正則像(摸本)東京国立博物館所蔵 出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/

日付は慶長5(1600)年7月24日。「関ヶ原の戦い」直前の時期である。まずは、内容から。

「さて、上方で石田治部少輔三成(いしだじぶしょうゆうみつなり)が決起したとの雑説が伝わってきたので、将兵についてはその地でお留めになって、御自身はここ小山までお越しいただけまいか。詳しいことは黒田甲斐守長政(くろだかいのかみながまさ)・徳永法印寿昌(とくながほういんとしまさ)が申しあげるでありましょうから、詳しくはここで記すことはできません。謹んで申し上げます」
(吉本健二著『戦国武将からの手紙―乱世に生きた男たちの素顔』より一部抜粋)

同年7月17日。石田三成らが挙兵。家康らは、ちょうど五大老の1人である上杉景勝(かげかつ)討伐に赴いていたところであった。そこへ挙兵の知らせが届く。そこで、家康らは下野国(栃木県)小山にて、行軍を停止し、今後についての軍議を開くのである。

じつは、ここが、徳川家康の正念場。とにもかくにも、豊臣恩顧の大名らを含め、参加した諸将らを一気に東軍へと与したい。そのキーマンとなるのが、福島正則。豊臣恩顧の大名でありながら、三成憎しの気持ちが増幅していた武将である。

そんな福島正則には、小山評定で、是非とも真っ先に家康に従う第一声を上げてもらいたい。家康の目論見はそこにあった。ただ、そんなストレートな内容を手紙に書いたところで。その匙加減は非常に微妙なところ。万が一、豊臣秀吉の遺児である「秀頼(ひでより)」がいながら、天下を奪取すると思われれば、それまで。反発され、「上方へ」反転となれば、目も当てられない。

そこで、家康は考えた。
確実に事を進めたい。そのためには、まず小山まで来てもらう。それが先決。だからこそ、あえて、具体的な「交渉内容」は書かずに、興味を引く書き方にしたのである。特に、最後のキメ一文はさすが。「チラ見え」理論である。

全て見せずに隠す。人間の心理として、見えないものほど、そこに何があるのか気になるもの。黒田長政の名前を出し、豊臣恩顧の大名もいることを知らしめる。彼から詳細を聞いてほしいとなれば、さすがに行ってみたくもなるだろう。

これは、現代でも確実に通用する手法だ。誤解を招く恐れがある、相手の反応次第で微妙に作戦を変えるなどの場合が該当する。ポイントは、いきなり手紙で相手を落とそうとはしないコト。一歩ずつ一歩ずつ。まずは、相手に来てもらう。そのためには、まず興味を持ってもらう。小さなハードルをクリアしていくことこそが重要なのである。

「キミが一番なの」って、さりげなく伝えたい場合

さて、次にご紹介するのが、「関ヶ原の戦い」前に出されたもう1通の手紙。宛先は、前田利家の正室であった「芳春院(ほうしゅんいん、まつのこと)」。

前田利家像

日付は慶長5(1600)年8月26日。
前田家の重臣である村井豊後守長頼(むらいぶんごのかみながより)を経由とされている。この長頼は、前田利長の希望で、芳春院付となった家臣である。その手紙の内容がコチラ。

「このたびは、前田肥前守利長(まえだひぜんのかみとしなが)殿が、加賀国内の大聖寺の戦場で働きなさってお手柄のようす。その情報が儂のもとに伝わって来たので、忠節を尽くしてくれてありがたいと思っています。ひとしお満足して言いようのないほどです。-(中略)-そなた(村井豊後守長頼)も長い間ご苦労と思いますが、そのうち上方(西軍)を討って平定した暁には、芳春院殿が国元へ戻られるよう江戸にお迎えを参らせるでしょう。
追伸・儂は長いこと自らの手で文を書かなかったけれども、満足したことを伝えたいので、自筆で申し入れました。以上」
(同上より一部抜粋)

前田利長は、前田利家の長男で、加賀藩2代藩主。もし、前田利家が生きていれば、勢力図は大いに変わっただろうか。そう思う人も少なくないだろう。しかし、現実はというと、前田利家は、天下取りに一番近い場所にいながら豊臣秀吉のあとを追うようにして逝去。

跡を継いだ利長は、父の遺言を守らずに帰国。徳川家康との関係がこじれて、案の定、屈服。結果的に、母の芳春院を江戸へと人質に出したのである。利長自身は、同年8月3日に加賀大聖寺(だいしょうじ)城を攻略している。

この手紙は、その功を称えるもの。
さて、ポイントは2つある。

1つ目は「期待」である。馬の鼻先にぶらさげた人参の如く。我らが西軍に勝てば、人質の芳春院を解放するとの「御褒美」の予定が書かれている。これは、かすかな期待を持たせるには十分な内容だろう。ただし、それだけでは終わらない。わざわざ書くということに意味がある。利長に翻意するなと、邪魔立てするなというダメ押しが隠されているとも取れるのだ。

ただ、これで終われば。せっかく功を褒めたにもかかわらず、非常に寒々しい印象となってしまう。やはりラストは、アゲて終わりたい。そこで、家康は、手紙の最初に書かれた「功」を、再度褒めるのである。注意すべきは、真正面から褒めないコト。クドさが鼻につかないよう、ナチュラルさを大事にして。結果、編み出されたのが、間接的な褒め方。これが2つ目のポイント。

どうするかというと。ズバリ、自分で手紙を書くのである。
一般的に、大名らには、自分に代わって手紙を書く者がいた。これを「祐筆(ゆうひつ)」という。しかし、この手紙は、祐筆ではなく、家康自身が書いたもの。そのことが、ラストの「追伸」のところで、劇的に明らかになっている。

あまりの嬉しさに、喜ばしさに。自ら書いたのだと。手紙の途中では、一瞬、仄暗い顔が見えつつ、最後はウキウキ顔。その落差がなかなかスゴイ。

これは、現代でも十分通用するテクだろう。他者との差別化を図るうえで、非常に効果的な手法だといえる。ただ、現代において、祐筆など置くことはムリ。そのため、少しアレンジが必要だ。要は、普段とは違うというコトを前面に押し出せばよい。

例えば、いつもならメールで済ませるところを、電話で伝える。「つい、嬉しさから電話してしまいました」的な感じ。どうだろうか。もちろん、使う人のタイプもあるだろうから、そこは適宜カスタマイズして頂きたい。

最後に。
こんな記事を書いている私がいうコトではないと百も承知で。それこそ「どの口が」と突っ込まれそうだが、あえて言おう。

戦国武将の皆さんって、ホントにお気の毒。
知らないところで、自分の手紙がこんな形で公開されるだなんて、ちょっと可哀そう。いやいや、アンタ、それをメシの種にしてるやんと。ええ、ええ、そうなんですが。

それでも、まだ、カッコいい手紙ならともかく。フツーに悪だくみしている手紙や、愛を囁く手紙なんかであれば。もう完全にプライバシー権侵害だろうに。ホントに申し訳ない。

そう考えると。
とっとと、手紙は処分するに限る。そもそも残っているからこそ、公開されるのだから。一般公開はないにしても、子孫の目に触れる可能性はある。そんなリスクは、心を鬼にして即刻、処分。

引き出しのなか、奥の方にこそっとしまっている、こっぱずかしい手紙たち。
言い換えれば、若気の至りの証拠。

私にも、あなたにも。
ほら。きっとそこにあるはず。

参考文献
『戦国武将の手紙を読む』 小和田哲男著 中央公論新社 2010年11月
『徳川四天王』東由士編 株式会社英和出版社 2014年7月
『戦国武将からの手紙―乱世に生きた男たちの素顔』 吉本健二著 学研プラス 2008年5月
『戦国武将に学ぶ究極のマネジメント』 二木謙一著 中央公論新社 2019年2月

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、北海道(札幌から車で4時間、冬は-20度)で優游涵泳の境地を楽しむ。その後は富山県、愛知県へと流れつき、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。