10年。
人によっては短いと思うだろうか。長いと思うだろうか。
よくいわれる「青春時代」。ちょうど中学校入学から四年制大学卒業までが10年である。一方で、「祝10周年記念」など、10という数字は、何かしら節目としても使われる。
そんな10年を振り返れば。
上り坂に下り坂。山あり谷あり。もちろん辛いことも楽しいこともあったはず。「禍福は糾える縄の如し」の歳月が流れたことだろう。
しかし、辛いばかりの「10年」もある。
乱世で夫を失った妻。貧しいゆえに親に売られた女児。人さらいに拐(かどわ)
かされて、売りとばされた娘。そんな彼女らを待ち受けていたのは、「遊女」としての第二の人生。
江戸時代初期に整備された幕府公認の遊郭である「吉原(よしわら)」。
ここの遊女は、18歳から28歳の誕生日を迎えるまでの10年間、店に出るのが一般的。いわゆる、10年間の年季奉公(ねんきぼうこう)である。
覚悟した10年でも、巻き込まれた10年でも。どちらにせよ、彼女らにとっての10年は「生き地獄」。まさに、言葉にできないほど壮絶なものだっただろう。どれほど、この10年を待ちわびたことか。
しかし、そんな10年を待たずとも。
じつは、「遊女」から抜け出せる方法が存在する。それが「身請け(みうけ)」。年季中であっても、前借金などを代わりに支払えば、その勤めから身を引かせることができたのである。
今回は、遊女の中でも最高級と呼ばれる「高尾太夫(たかおだゆう)」の身請けの話をご紹介。播磨国(兵庫県)姫路藩主、榊原政岑(さかきばらまさみね)に見初められた「6代高尾」(5代とも、諸説あり)。
彼女は、果たして、幸せに暮らしたのだろうか。
早速、ご紹介しよう。
「高尾太夫」は名前じゃない?1000人に1人の逸材の称号
まず、今回の主人公となる「高尾太夫(たかおだゆう)」について。
誤解されがちなのが、名前だと思われているところ。じつは、「高尾太夫」は名前ではない。簡単に言えば「称号」である。そのため、何人もの「高尾太夫」が存在する。つまり、この称号は襲名していくことができるのだ。
ただ、そんじょこそらの「少しばかりキレイな女性」というだけでは、到底、「高尾太夫」を名乗ることはできない。
そもそも、この「太夫」の語源は、室町時代にあるといわれている。高貴な人の前で猿楽を演じようにも、身分の問題からお目通りさえ難しい。そのため、臨時だが演者に五位相当の待遇を与え、「~太夫」と呼んだのだとか。
もちろん、公卿に召された遊女も同様。この扱いを受けて「~太夫」との呼び名が、京都の傾城(けいせい)里にも持ち込まれることに。この傾城里は、当初、京都内に散らばっていた娼家(遊女が置かれていた場所)を二条柳町に集めて作ったもの。豊臣秀吉が認めた最初の「遊郭」である。
その後、江戸幕府は、二条柳町から六条柳町、そして寛永18(1641)年には朱雀野(すざくの)へと、この傾城里を移転させる。最後の移転に限っては、あまりにも突然のことで、周囲も大変だったという。ドタバタ劇さながらの有様を揶揄し、人々は、記憶に新しい「島原の乱」にちなんで、この場所を「島原(しまばら)」と呼んだのだとか(諸説あり)。
一方、京都の島原に対して、江戸では「吉原」が。ちょうど2代将軍徳川秀忠の治世の頃。元和3(1617)年に江戸幕府が認めた遊郭である。
やはり、京都と同様、こちらも移転を余儀なくされている。当初は日本橋あたりだったが、浅草の浅草寺(せんそうじ)裏手周辺へ。「新吉原」として明暦3(1657)年に再開する(※通常は移転前を「元吉原」、移転後の新吉原のことを「吉原」という)。
この吉原、長方形の区画であり、広さは東京ドームの約1.5倍。四方を板塀でぐるっと囲まれ、外側には堀があった。つまり、吉原は、下界とは完全に切り離された別世界。出入り口は、たった1つしか存在せず。この「大門」をくぐれば、中には雑貨を売る店や銭湯などが揃っており、完全に1つの町として存在していたのである。
そんな別世界の吉原で暮らす遊女は、常時1,500人ほど。その数はもちろん上下する。大体2,000人~4,000人の間で増減を繰り返し、飢饉などその他の情勢に左右され激増することも。例えば、江戸時代後期。吉原の遊女は一時期7,000人にまで増えたともいわれている。よほど生活が苦しかったと想像難くない。
さて、そんな遊女の頂点ともいわれるのが、先ほど紹介した「太夫」である。じつは、遊女の中でも、様々なランクがある。通常は「端女郎(はしじょろう)」からスタートし、「局女郎(つぼねじょろう)」「散茶女郎(さんちゃじょろう)」「格子女郎(こうしじょろう)」と上がる。そして、遂にその上位が「太夫」となる。
太夫は、最高級の遊女の称号。ただ、そのハードルはとてつもなく高い。
才色兼備だけではまだ足りず。見目麗しい、頭が良いなどは基本中の基本。それ以外にも、多くの客の趣味に添うことを要求された。その数は限りなく。茶道や花道、香道。はたまた、将棋や囲碁はもちろん、書画や和歌、俳句まで。
一方、立ち居振る舞いも重要である。舞踊や三味線、琴や歌など、音曲にも明るいコトが必須。どのような高貴な人であっても楽しませることができる、言い換えれば、席を持たせる容色、教養、所作が求められたのだ。
そんな太夫の称号を持つ遊女は全体の3~5人ほど。
つまり、1,000人に1人の割合くらいでしか出現しない超レアな存在。そのため、妓楼側としても、原石となる子を見出せば、それ相応の教育を惜しまず。なんといっても、「太夫」がいれば、もちろんそれだけで稼ぎ頭となる。
ただ、本人はというと。
そんな苦労を背負って「太夫」となったとしても、幸せとは言い難かった。万が一、身請けの話が来たとことろで、「太夫」ほどの遊女を自由にできる、そんな大金を払える男はほぼ皆無。高嶺の花も、結局は、手が届かなければ萎れるのみ。要は、過酷な世界だったのである。
身請けされても、やはり自由にはなれない⁈
京都「島原」随一の遊女といえば「吉野太夫(よしのだゆう)」。一方、江戸「吉原」では、高級妓楼の三浦屋が抱える「高尾太夫(たかおだゆう)」が有名だ。
さて、高尾太夫が何人いたのか。じつは、この数は定かでない。
11人説、10人説、7人説と諸説ある。そのため、高尾太夫の前につく「~代」という数え方も、ズレたりする。また、人数さえ不明なのだから、その後の足取りもやはり、分からない。判明している方が珍しいというものだろう。
その中で、ある程度、顛末が分かっていたのが6代高尾(5代とも)。別の名では、「榊原高尾(さかきばらたかお)」とも呼ばれている。
この「榊原」という名だが。
どこから来たのかというと。じつは、身請けした人物が由来となっている。6代高尾が19歳の頃。ちょうど、参勤交代で江戸に滞在していたのが、播磨国(兵庫県)姫路藩主の榊原政岑(さかきばらまさみね)である。
徳川家康の家臣団の中でも徳川四天王として名高い「榊原康政(さかきばらやすまさ)」。その子孫に当たるのが政岑だ。旗本の次男坊だったが、本家の姫路藩主・榊原政佑(まさすけ)の養子となり、藩主の跡を継ぐことに。
ただ、もともと遊び好きで放蕩者だったとも。時は8代将軍徳川吉宗の治世の頃。「享保の改革」のベースは「質素倹約」。そんな風潮の中でも構わず遊郭で散財、遂には、6代高尾に惚れこみ、身請けしたいと言い出したのである。
ちなみに、遊女の馴染みとなるだけでも、カネはいる。というのも、床入りするまでには、最低でも3回通わねばならないルールがあったからだ。身請けであれば、さらに一層のカネがいる。それも、相手が「太夫」なら、なおさら。その金額は気の遠くなるようなものだろう。
1回目を「初回」という。まずは、「太夫」のみならず、「禿(かむろ、かぶろ、太夫に付いている女児)」や「新造(しんぞう、太夫に属する遊女)」など10人ほどを引き連れての酒盛りである。費用は全て客もち、関わる者たち全てに「祝儀」を渡し、ざっと20両前後。米の時価にもよるが、1両7万5,000円と換算すれば、大体150万円ほどの費用となる。簡単にいえば顔合わせみたいなイメージだ。
2回目は「裏を返す」。ほぼ1回目と同じどんちゃん騒ぎをするのだが、なぜか、揚代や祝儀など1.5倍へアップ。大体30両前後となるのだろうか。225万円ほどの出費である。
3回目で「馴染み(なじみ)」と呼ばれるように。ようやくの床入りである。ただ、やはり費用も大幅に跳ね上がる。酒盛りは初回の2.5倍のカネがかかる。床入りの祝儀が揚代と同額。つまり、酒盛り代で60両前後、祝儀で60両前後。結果的に120両前後。大体900万円前後の出費である。
このあとも定期的に通ってこその、馴染み。床入りまでに支払わねばならないこの金額に加え、定期的に通うにも同様に出費がかさむ。こうなれば、「身請け」と考えただけで、恐ろしいほどの金額だとは、誰でも予想がつく。
寛保元(1741)年。榊原政岑は、なんとも恐ろしい決断をする。
あの「6代高尾」を身請けするというのである。金額は2,500両。ただ、これは身請けするだけの金額。実際はというと、もちろんお分かりかと思うが、どんちゃん騒ぎの揚代、祝儀やら含めて3,000両、雑費500両。締めて6,000両となる。換算すれば、大体4億5,000万円~5億前後だろう。
そんな大金を使って、とうとう「6代高尾」を身請けした榊原政岑。一説には、榊原家の池之端にある下屋敷まで着飾って行列を練り歩いたとも。もちろん、政岑の豪遊が江戸幕府に知られないワケがない。即刻呼び出された居留守役、尾崎富右衛門(おざきとみえもん)は、苦しいながらも「6代高尾は政岑さまの乳母の子」と弁明。
結果、榊原家は改易こそ免れたものの。政岑は不行跡(ふぎょうせき、行いが良くないこと)を理由に、蟄居(ちっきょ)の処分に。謹慎の身となったのである。家督は子の政永(まさなが)へ。そうして、榊原家は姫路から越後(新潟県)高田へ移封となるのであった。
ちなみに、あえていうならば。
改易されなかったのは、嘘八百の弁明が通ったからではない。榊原家が功臣であったことが配慮されたようだ。こうして、榊原家もギリギリ転封で収まり。一方、6代高尾は10年を待たずして身請けされ、「遊女」から脱するのであった。
最後に。
身請けされた彼女はどうなったのか。
もちろん、高尾太夫も政岑と共に転封先の越後高田(新潟県)へ。ただ、謹慎の生活が堪えたのか、政岑は10ヶ月後に死去。病にかかったとも。享年29。
残された6代高尾はというと。
幕府に「乳母の子」と申し開きをしている以上。まさかそんな彼女を屋敷から追い出すこともできず。一説には、江戸に呼ばれて尼となり、そのまま池之端の下屋敷で暮らしたとも。天明9(1789)年に死去。享年68。
周囲からは、転封の元凶と思われていたのだろうか。ただ、政岑の日頃の行状を考え合わせると。6代高尾の身請けは「トドメの一発」的な出来事に過ぎないともいえる。
それよりも。
あのまま遊郭にいたところで、どうせ先は知れている。10年という年季奉公から解放される確約もない。運よく身請けされても、要は、帰属先が変わるだけのコト。結局は、誰かの庇護下に置かれる生活となるのだ。その「誰か」が、意に添わぬ相手であれば、なおさら「生き地獄」は続く。
そんな過酷な遊女の世界に身を置いてきたことを思えば。
政岑亡き今。片身は狭くとも、衣食住が確保された生活は、そう辛くはなかったのかもしれない。
いや、逆に。
下屋敷で暮らした生活は、6代高尾にとって、これまでにない人生の始まりだったはず。
初めての「静けさ」
初めての「安らかさ」
変化のない平穏な人生は、つまらないという人も。しかし、波乱万丈な人生を生きた者ほど、全く違うコトを言う。
「平穏」こそが、極上の幸せ。
変わりない日々が続くコト、それが、簡単そうで一番難しいのだ。
6代高尾も、そう思っただろうか。
平穏な日々も、案外、悪くはないと。
▼あわせてよみたい!悲劇の遊女に関する記事
吉原随一の美人遊女「若紫」。その悲劇の死の真相は?
参考文献
『山内一豊の妻と戦国女性の謎』 加来耕三著 講談社 2005年10月
『お寺で読み解く日本史の謎』 河合敦著 株式会社PHP研究所 2017年2月
『誰も知らなかった顛末 その後の日本史』 歴史の謎研究会編 青春出版社 2017年2月