「おかめって誰?」
「さあ、お面の人?」と私の母。
「さあ、お多福のこと?」と私の姉。
「ええっ。実在の人物だったの?」と私の姪(先ほどの姉の子です)。
皆が一様に、質問に対して質問で返すという有様。
京都で生まれ育った人たちでさえ、こんな調子である。そんな私も、恥ずかしながら「千本釈迦堂(せんぼんしゃかどう、大報恩寺)」を取材するまでは、彼女のことをよく知らなかった。
じつは「おかめ」さんは、実際に存在していて。
彼女が、悲劇の良妻であったということを。
今回は、このおかめさんについて、是非ともご紹介したい。
なぜ、彼女は「悲劇の良妻」といわれるようになったのか。建築工事の棟上げの際に、一般的に「おかめ」の面を飾るのはどうしてなのか。そして、千本釈迦堂が幾多の戦乱から焼失を免れてきた理由とは何か。
これらは、全て1つの線で繋がっていたのである。
(この記事は、「千本釈迦堂」の名で統一して書かれています)
全国に広がった「おかめ信仰」の原点とは?
彼女の名は「おかめ」。漢字で書くと「阿亀」となる。
京都洛中で有名だった棟梁の長井飛弾守高次(たかつぐ)の妻だ。
一体、いつの時代の話かというと。
安貞元(1227)年頃であるから、ちょうど800年ほど前となる。
棟梁の高次は、大工としての腕も文句なしの超一流。一方、妻であるおかめも、周囲の人たちに分け隔てなく尽くす、大層心の優しい女性だったとか。そんな妻のお陰もあって、高次の人望も厚かったようだ。
千本釈迦堂の境内には、このおかめの銅像がある。
実際に、ふっくらとした顔立ちの女性だったとか。江戸時代中期より、「美人」「女徳」の象徴として、このおかめを信仰する「おかめ招福信仰」が全国に広がったとされている。
さて、ここで1つの疑問が。
もともと実在した女性だったという「おかめ」。そんな彼女が、どうして信仰の対象となりえたのか。
この謎に関係するのが、この千本釈迦堂のお堂である。
迫りくる上棟式!夫・高次の苦悩
千本釈迦堂は、奥州藤原秀衡(ひでひら)の孫となる義空上人(ぎくうしょうにん)によって開創された寺。義空上人は、15歳にして仏法を志し鎌倉で修業した人物。19歳に比叡山にのぼって、その後、天台密教を会得。10数年を経て、ようやくこの土地を寄進され、本堂を建立することに。
この大工事を任されたのが、先ほどご紹介した棟梁の高次。あの、おかめの夫である。確かに、名匠といわれる高次ならば、抜擢されるのも当然であろう。こうして、高次は多くの大工を指揮しながら、自己の名に懸けて本堂建立に全総力を注ぐのである。
しかし、こんな大事な時に限って、失敗は起こるもの。
高次は信じられないミスを犯す。夢のお告げを受けて材木商から寄進された大事な四天柱。そのうちの1本を誤って短く切り落としてしまったのだ。
間違えて長く切ったのであれば、さらに短く切ればいいだけのコト。しかし、最初から短く切ってしまっては、どうしようもない。取り返しのつかないミスであることは、火を見るよりも明らかだった。
上棟式の日程は決まっており、今からの変更も難しい。結果、高次は代わりの柱となる材木捜しに、東奔西走する。高次に押し寄せるプレッシャーは相当なもの。迫りくる上棟式が余計に高次を追い詰めるのである。
代替となる柱さえあれば……。
全ては、それで一挙解決するのだが。どれほど探しても、適当なモノは見つからず。時間だけが過ぎていくのであった。
おかめの機転が夫を救う!
「最近、なんだかおかしい……」
そう気づいたのは、もちろん、傍で夫を支えていた妻のおかめ。
日々、焦燥感漂う夫を見て、おかめはとうとう苦悩の正体を知ることとなる。
確かに、今は隠すことができたとしても、いずれこの失敗は明るみに出る。何しろ、柱がなければ、上棟式も執り行うことはできないのだから。その先はというと、総責任者としての夫の名誉の失墜。
そこで、おかめはある行動に出る。
それが「祈り」。
おかめは、仮堂に安置されているご本尊に、昼夜、祈り始めるのである。
こうして、7日目の早晩のこと。
この日も、おかめはただひたすらご本尊に祈り続けていた。すると、なぜだか、古いお堂の厨子の中で、光り輝く「斗栱(ますがた)」を膝に抱えた御仏のお姿が。
ハッと我に返るおかめ。
とうとう、おかめは天からの啓示を得たのである。
早速、彼女は夫の高次に提案する。
「斗栱(ますがた)」を組み、短くなった柱の短所を補うのはどうかと。
つまり、全ての柱を短い柱と同じ長さに切り揃え、柱の頂上に斗栱(ますがた)組み付けるというアイデアだ。このおかめの一言が、高次にとっては解決の糸口となる。実際におかめの案を採用してみると、予想外の出来栄えに。
緩やかな傾斜の屋根でありながら、どっしりとした安定感を出すことに成功するのであった。
おかめが最後に選択したのは……?
安貞元(1227)年12月26日。
千本釈迦堂の本堂の上棟式が盛大に行われた。京都洛中の人々は、一目見ようと、境内に押し寄せたという。
義空上人の棟木棟札が高く上げられる。
その棟札の上部に、木を組んで扇御幣(ごへい)を打ち付ける。そこには、優しい笑みを浮かべた「おかめの福面」が飾られていた。このおかめの面を納めたのは、もちろん、夫であり、今回の大工事を請け負った棟梁の高次。
果たして、彼はどのような思いで、この上棟式を迎えたのだろうか。
彼の頬には1筋の涙が。
おかめへの感謝なのか。深い愛情なのか。それとも後悔なのか。
披露された棟上げでは、おかめが助言してくれた「斗栱(ますがた)」が至るところに見受けられる。
これこそ、おかめの生きた「証」。
おかめがいなければ、無事に上棟式を迎えられることはなかっただろう。そして、自分が成功することも、絶対にありえなかった。全ては、妻の助言があったからこそ。高次は、そう思ったに違いない。
しかし、そのおかめは、もういない。
じつは、おかめはというと。
なんと、この晴れ晴れしい日を見ることなく、自刃したのであった。
あんな「おかめ」やこんな「おかめ」も
最期に死を選ぶおかめ。
そんなおかめの助言を受けて、完成した本堂。
その本堂をお参りさせて頂いた。
本堂の屋根は檜葺き(ひわだぶき)で、純和様の寝殿造りである。お堂内部は、なんとも、歴史を感じさせる年季の入った造り。特に、内陣の中にある内々陣の四天柱が見事。柱には素晴らしい絵が描かれている。なお、ご本尊は秘仏の「釈迦如来像」となる。
さて、その右奥に、細い通路が続いている。
入口には、こんな標識が。
実際にその先を進んでいくと。
なんとまあ、おかめの人形が所狭しと置かれているではないか。
どれもこれも、個性派揃いのおかめたち。
色々な表情のおかめを、1体ずつ鑑賞していく。
焼き物の人形もあれば、起き上がりこぼしのようなモノも。また、全く趣の異なるお面まで。千本釈迦堂には、多種多様のおかめが納められていた。
場面もポーズもバラエティーに富み、どれ1つとして同じものはない。見ているだけで楽しくなる。
それでは、チラリとだけ。
千本釈迦堂に納められた「おかめ」をご覧頂こう。
全てのおかめを確認したところで、一つ、奇妙な事実を発見。
「おかめ」と、意外なモノがマッチングされていた。1つや2つならまだしも。その数は思いの外、多い。最初はあまり気にならなかったのだが。何度も同じものが登場してくると、なぜなのかとその理由を考えてしまった。
そのマッチングされたモノとは?
あの秋の味覚で有名な「マツタケ」らしきモノ。
先ほどご紹介したおかめも、疑似マツタケを担いでいた。じつに、多くのおかめが、マツタケらしきモノを小道具として持ってることに驚く。なんなら、疑似マツタケに乗っているやんちゃなおかめまで。
これはあくまでも私の推測だが。
家庭円満、夫婦円満、良縁、子授けなどの功徳が大きいとされる「おかめ」。そのため、男性という意味合いを込めて、男根の象徴とする「マツタケ」らしきモノを、おかめと共に配したのかもしれない。
それにしてもと、つくづく思う。
おかめ人形1体1体に、様々な趣向が凝らされている。ただ見るのも楽しいが、こうして様々な事実に気付くことも、社寺ならではの楽しみ方だろう。
歴史マニアにはたまらない!千本釈迦堂の意外な楽しみ方
さてさて、この千本釈迦堂。
おかめだけではない。他にも多くの見どころがたくさんある寺なのだ。
その1つが、本堂内部に残っている「刀剣のきずあと」。
じつは、この千本釈迦堂、奇跡的に、これまでの戦乱による焼失を避けることができた。特に、京都が焼け野原になった応仁元(1467)年の「応仁の乱」。細川勝元(ほそかわかつもと)と山名宗全(やまなそうぜん)の対立に、足利8代将軍の継嗣問題、畠山(はたけやま)・斯波(しば)両家の家督争いが絡み、複雑化した内乱である。
11年もの間、京都が戦場となった戦いなのだが、不思議なことに、千本釈迦堂は焼難を免れている。応仁の乱だけではない。幾つもの戦乱を、千本釈迦堂の本堂は乗り越えてきたのである。
これも、本堂の造営時に「おかめの面」を扇御幣に飾って、彼女の冥福と共に、建物の永久堅固を祈ったからだろうか。どのような事情なのかは不明だが。本堂は創建当時の姿のまま。そのため、千本釈迦堂の本堂は、京洛最古の建造物として「国宝」に認定されているのだとか。
ゆえに、本堂内部も当時のまま。
「応仁の乱」の際につけられた柱のきずが、悠々と流れる歴史の重みを感じさせる。
足を止めて、歴史に埋もれた声に耳を澄ます。
ほんの少しだが、タイムスリップしたような不思議な気持ちが味わえる。
他にも、境内には、重要文化財が安置されている「霊宝殿」もある。全てを拝観するのに、1時間では少々足りない気も。じつに見応えのある「千本釈迦堂」であった。
最後に。
ここまで読んで頂いて、もやもやされている方が多いかと想像する。というのも、どうして、おかめは死ななければならなかったのか。その理由を、私があえて書かなかったからだ。
「死ななければならなかった」ではない。正確には、おかめは自ら「死」を選んだといえる。
なぜなのか。
その理由は、2つ。
1つは、願掛けの際に、自らの命に代えてまでご本尊にお願いしたからだ。つまりは、自分の命も惜しまずに、高次のために願掛けをしたのである。
そして、もう1つ。
結果的に、おかめの提案で高次の人生最大の危機は乗り越えられた。しかし、それは同時に、名匠と誉れ高い棟梁の高次が、妻の助言で大任を成し遂げたというコトになる。そんな事実が世間に知れればどうなるか。そう考えたおかめは、「夫の名声に我が身を捧げよう」と決断したという。
こうして、おかめは、潔く自ら命を絶ったのである。
ふと思う。
おかめが、もし、生きていれば。
高次の隣で、笑顔で上棟式を迎えていたならば、おかめはここまで後世に名を残しただろうか。世にいう「おかめ信仰」がこうして全国に広まったかは、疑問の余地がある。
どうして、妻が夫の名誉のために死を選ぶのか。現代においては、当時の社会で「美徳」とされたこの感覚を、理解するのは難しいだろう。ただでさえ、女性が輝ける社会へと舵を切っている時代である。逆に、妻の助言を前面に押し出して、夫婦二人三脚での成功をアピールするかもしれない。
しかし、当時は違った。
貞淑でしかも才知に長けている女性。何より、夫の名誉に身を捧げる女性。これが「女性の徳」と捉えられたのである。
さらにいえば。おかめの「死」という悲劇が、余計に彼女を神格化へと後押ししたのではないだろうか。こうして、おかめは、魔除け、厄除け、災難除けとして諸悪を払い、万(よろず)の福を招来する信仰の対象となったのである。
そして、今。
おかめ信仰の由来などは、とうに忘れ去られて。建築工事の上棟式で「おかめ御幣」や「おかめ面」を飾ることだけが残ってしまった。夫の高次が、本堂の無事完成と永久を祈ったように。今も、その祈りだけは、確実に継承されている。建物の永久堅固、繁栄への祈りが、時代を超えて、おかめの面に込められているのである。
そういえば、境内にある「お亀さくら」。
春には、見事な枝垂桜(しだれざくら)が人々を楽しませるという。
桜を見て、その姿が綺麗だと感じるように。
おかめについても、夫に命を捧げたという事実よりも、
おかめの優しさ、愛情深さ、その凛とした生き様を、是非とも覚えていて欲しい。
春になれば、再び、千本釈迦堂を訪れてみよう。
そう思って、静かに境内をあとにした。
基本情報
名称:千本釈迦堂 大報恩寺(せんぼんしゃかどう だいほうおんじ)
住所:京都市上京区七本松通今出川上ル
公式webサイト:http://daihoonji.com/access/
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