今よりもずっと階級社会だった江戸時代。町人が食べられるのに、お金も権力もあった武士が食べられないものがあったなんて、ちょっと驚きですよね!
答えは、『コノシロ』でした。
幼魚は『コハダ』と言います。こちらの魚名の方がなじみがあるかもしれません。江戸でよく水揚げされたことから、江戸前寿司として、昔から酢で〆める光ものとして人気のあるネタでした。
なぜ、これが食べられなかったのかと言えば、語呂合わせなんです。『コノシロ』は『この城』と表せるため、「この城を焼く」、「この城を食う」という響きになり、武士にとっては縁起が悪いとされました。同じように『マグロ』は別名を『死日(しび)』と呼んだことから、これもいつ命を落とすかわからない武士にとっては忌み嫌われた言葉だったそうです。
コノシロは、忠臣蔵の話につながる魚でもあった!
『コノシロ』は、またの名を『腹切魚』とも呼ばれます。武士が切腹する前の膳部に供されたと言われ、有名な忠臣蔵の話の中にも『大高源吾 腹切魚の別れ』というくだりがあります。
忠臣蔵とは?あらすじや登場人物を徹底解説!なぜ赤穂浪士討ち入りを忠臣蔵と呼ぶのか
江戸城で行われる年賀の勅使答礼(ちょくしとうれい)の日に、赤穂藩主・浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が吉良上野介(きらこうずけのすけ)を刃傷(にんじょう)する事件を起こします。これにより、神聖な儀式を穢(けが)されたと将軍徳川綱吉は、浅野内匠頭に切腹を命じます。さらに、赤穂浅野家はお家断絶、一方の吉良はおとがめなしとされます。それに納得がいかない赤穂藩(現在の兵庫県赤穂市)の武士たちが内密に仇討ちを計画し、吉良上野介の邸宅のある江戸へと向かいます。
※勅使答礼とは、朝廷から遣わされた勅使への挨拶の儀式
その道中、大高源吾と中村勘助が、大高源吾の義兄弟の家に立ち寄るのですが、夕膳に『コノシロ』を出され、「武士が忌み嫌う魚を出すとは」と、喧嘩別れになるお話です。義兄弟は討ち入りの意志を探るため、あえてコノシロを膳に出し、源吾の様子を見ようとしたのです。これを機に二人は兄弟の縁を切ることになるのですが、吉良上野介を討ち取った後、借りていたお金とともに連判状が義兄弟の家に届き、義兄弟は涙を流すという人情話です。
江戸時代に人形浄瑠璃で人気となった『忠臣蔵』
忠誠を貫いた浪士たちの物語は、人形浄瑠璃「仮名手本(かなでほん)忠臣蔵」として上演され人気を博しました。それが現代にも伝わり、多くのドラマや映画にもなっています。討ち入りのあった12月14日は、赤穂浪士の命日として菩提寺である『泉岳寺』をはじめ、各地で赤穂浪士をを偲ぶ『義士祭』が行われます。
浅野内匠頭や赤穂浪士四十七士が眠る泉岳寺(東京都港区)の境内には、吉良上野介の首を洗ったとされる『首洗いの井戸』や浅野内匠頭が田村屋敷で切腹した際に、飛び散った血がかかったと言われる『血染めの梅』『血染めの石』などもあります。この時期、忠臣蔵ファンではなくても、一度訪れてみてはいかがでしょう。
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アイキャッチ画像:国立国会図書館デジタルコレクション