伝統形式を重んじる日本舞踊は、優美で華やかだけれど、敷居が高く、自分とはかけ離れた世界だと思っている人も多いでしょう。しかし、このコロナ禍、尾上菊之丞さんが幻想的な場所で踊る舞踊映像をオンラインで配信したり、朝の連続テレビ小説『おちょやん』で日本舞踊のシーンが登場するなど、目にする機会も増え、ちょっとした話題となっています。
祈るために踊る。映像舞踊作品「地水火風空 そして、踊」が配信!尾上菊之丞さんインタビュー
名古屋で芸能文化をけん引する五大流派の一つ西川流
名古屋には「芸どころ名古屋」と呼ばれる素地があり、伝統芸能を親しみやすい文化へと広げた『名古屋をどり』で有名な西川流があります。『名古屋をどり』は、二世家元西川鯉三郎が昭和20(1945)年の9月、戦後初めて行った舞踊公演で、現在まで毎年開催されています。昨年は、コロナ禍により『第72回名古屋をどり』が中止となり、さらに、年末には伝統芸能界に悲報が走った三世家元西川右近の逝去と辛い出来事が重なりました。そんな中でも令和3(2021)年新春には「西川流初舞」がテレビで放送され、暗い年明けに一筋の光を放ってくれました。古典の継承だけでなく、新作舞踊を毎年作り続けている西川流のパワーはいったいどこからくるのか。「舞踊の大衆化」を掲げ、さらなる飛躍を続ける四世家元西川千雅(にしかわかずまさ)さんに、驚くような経歴と日本舞踊の魅力について語っていただきました。
まるで漫画のストーリー? 常識からはみ出した子ども時代
―先代の西川右近(にしかわうこん)さんも千雅さんも、日本舞踊だけでなく、テレビやラジオに出演したり、いろいろな方の公演で振り付けや演出をするなど、常にいろいろなことにチャレンジしているイメージですが、どんな環境で育ったのですか?
西川:2歳ぐらいから遊びの一つとして踊っていて、5歳の時に『名古屋をどり』の中の舞踊劇で初舞台を踏みました。演出はあの有名なテレビドラマ『渡る世間は鬼ばかり』のプロデューサー石井ふく子さんだったんです。周りは達者な大人ばかりで、恵まれた環境の中で育ってきました。ところがそれが災いとなって、幼稚園に馴染めず登園拒否になってしまったんです。子どもの声がうるさすぎて(笑)。それが私の第一の転機です。親も慌てて幼稚園を転園したんですが、うまくいかず。そんな時に知人の息子さんが通われていたインターナショナルスクールを紹介されて、「人間教育ならアメリカだ」と言われ(笑)、そのまま高校卒業するまでインターナショナルスクールに通うことになったんです。
―日本の伝統文化を育む日舞の家元のご子息が、インターナショナルスクールとはまるで漫画のようですね。
西川:前習いも整列も行進もない、私服で自由な学校生活を謳歌していました。でも家に帰れば踊りのお稽古があり、正座6時間という生活で、子ども心にどれが本当の世界だかわからなくて戸惑った部分もあります。学校に行けば、アメリカ人の教師にアメリカの教科書を使って英語で習うんですから。
日本舞踊とはかけ離れたアメリカでの留学時代
―でも将来的には舞踊家になると思っていたんですよね?
西川:いえ、小さい頃から絵がうまかったので、漫画家になろうと思っていました。今みたいに踊りがかっこいいという時代ではないので、同級生からもからかわれたりして、踊りは嫌だったんです。ただ、漫画はストーリーが思いつかず挫折(笑)。高校の美術の先生が絵がうまいんだから美大に行ったらと勧めてくれて、この家から逃げ出したいという思いもあって、ニューヨークの美大に進学しました。グラフィックデザイナーの勉強をし、その後は現代アートを学びました。
―とうとうアメリカにまで行ってしまったんですね。どんどん日本舞踊からも離れてしまって……。
西川:そうなんです。ただ、西川流はアメリカとは縁が深くて、祖父の西川鯉三郎(にしかわこいざぶろう)と父右近は、昭和42(1967)年にニューヨークのカウマン・コンサートホールや公共放送で日本舞踊のワークショップをやったことがあるんです。その時に解説や通訳をしてくれたのが戦後・日本の新憲法草案作りに参加したベアテ・シロア・ゴードンさんという女性で、日本の文化をアメリカに広めるために尽力した方です。アメリカという国は歴史が浅い分、文化は教育していかなくてはいけないという考えがあり、父は大きな感銘を受けたそうです。僕も10代の半ばに父たちのアメリカ公演についていったこともあり、アメリカで学ぶことに抵抗がなかったのかもしれません。留学中もアメリカ人が「禅」や「侍」の生き方についてすごく関心を持っていたり、日本の浮世絵が後期印象派に影響を与えたことや、黒澤明や小津安二郎の映画について授業で学んだり、コンテンポラリーダンスは能にインフルエンスされているなどを知って、日本文化の凄さを肌で感じることができたんです。
アメリカで日本の伝統文化の面白さを再発見!
―外国の人にとって日本舞踊はどのようなものとしてとらえられていたんですか?
西川:日本舞踊って型が決まっているバレエと違って、所作に滑稽な部分があるんですよ。「お酒をつぐ」とか「あなたが好き」といった所作事やしぐさ、身体の使い方が多様なんですね。アメリカで「藤十郎の恋」という演目を踊った時も、藤十郎が人妻お梶を惑わそうとちょっかいをかけるんです。そこで、お梶が本気になってしまい、今度は藤十郎が怖くなって逃げてしまうという話を踊りで表現するんですが、みな大笑いするし、感動するし、最後はブラボーと拍手喝采でした。それを見た時に「日本舞踊ってエンターティンメントなんだ」と思ったんです。
―では帰国後は、順風満帆に日本舞踊に邁進されたんですね。
西川:それが、父の稽古は厳しくて、スパルタだったんです。自分には無理かなと思い始めた矢先に、父が舞台稽古中に倒れてしまいまして。それで急遽内容を変更し、それぞれ代役を立て、新作舞踊劇のところは私が務めることになり、なしくずし的に全国を回ることになりました。そこからが日本舞踊の修行となりました。
―その分、いろいろな経験を積まれ、日本舞踊以外にもチャレンジされていますよね。
西川:私自身も腰を悪くして1か月半ほど入院してしまったんです。踊りをこのまま続けていこうか、いろいろ悩んでいた時期でもあったんですが……。そんな時に、地元でやるミュージカルに出てみませんかと声をかけてもらって。最初は違いばかりが目に付いて、歌もダンスも身を削って練習しましたが、だんだんと自分がやってきた「名古屋をどり」の舞踊劇やレビュー、コントと共通する部分がわかってきて。そこからですね、ようやく自分の踊りと向き合えるようになり、自分の力も強化されていきました。
伝統だけにとらわれない自由な発想で文化を育む
―西川流の掲げる「舞踊の大衆化」とはそういうところからも来るのでしょうか。
西川:歌舞伎も文楽も伝統文化と言われるものは、大衆の中でめちゃくちゃ流行ったものじゃないですか。それがやる人がだんだん少なくなって、詳しくないとわからない世界になり、楽しむためには解説がいるようになってしまった。そのうちマニアな人だけがさらに詳しくなって、わからない人にはついていけない世界になりました。今だってロックが伝統の入り口に来てしまったと思うんです。ビートルズやプレスリーを知らない世代が出てきて、こういうコード進行が本当のロックだみたいになって、なんだかすごく難しいもののようになっている。でも最初はみんな楽しみのためにやっていて、ビートルズだって不良とか言われ、キャーキャー言われながら卒倒したりしていたのに(笑)。結局、伝えるって、相手の持っているボキャブラリーや立場で話さないと通じないんだと思うんです。だから偉そうに上から言うんじゃなくて、『和光同塵(わこうどうじん)』の考えで、伝統文化って風俗、俗世の中で伝えられていくものだと思っています。
日本舞踊でエクササイズ!? 斬新な発想が話題に!
―その一つがお父様の右近さんと中京大学スポーツ科学部名誉教授湯浅景元(ゆあさかげもと)氏と共同開発された日本舞踊フィットネス『NOSS』でしょうか?
西川:『NOSS』は、踊りで筋肉を鍛えるエクササイズなんです。日本舞踊の体の使い方って、無理やり筋肉で踊るのではなく、重心を効率よく使うんです。例えば、歌舞伎の「見得を切る」も、力を入れてやっているように見えるけど、実際は手にはりをつけて、重心を移動させて動きを作る。無駄な力がないし、ゆっくりとした動きの中で身体性を整える。これって身体づくりにすごく有効で、今のダンスの人にも使える技術なんです。日舞の入り口にも良いし、踊りってこうやって気軽に参加してもらえるものだと思っているんです。
―実は私、『NOSS』を少し体験したことがあるんですが、自分にもこんなきれいな体の動きができるんだと感動しました。
西川:そうなんですよ。フィットネスクラブでやっている人たちも、最初は「自分たちは踊れない~」と言っていたのが、「この動きは~こうで~」と、どんどんうまくなっていく。私はよく「なんとなく真似してください」って言うんですが、なんとなくやって、にわかでいいと思っています。学ぶも「真似ぶ」という言葉から来ているぐらいですから。
地元のお宝をパワーに。若者も巻き込んで伝統文化を盛り上げる
―千雅さんは、名古屋市民のお祭りでもある「やっとかめ文化祭」でディレクターもやられていますよね。そこにはどんな思いがあるんでしょうか。
西川:名古屋は伝統文化も幅広く、踊りだけでなく、お茶も古武術も香道も様々な家元が文化を受け継いできているんです。ただ昔と同じようにやっていても人々はついてきてくれない。「名古屋は文化が育たない」とよく言われますが、それこそ江戸時代は尾張徳川藩が芸能を奨励して、芸能文化が花開いた土地です。ただ、そこだけに縛られてしまうと、限られた人たちの文化で終わってしまう。私には歌舞伎が訓練をしたものしかできないという考え方がないんです。みんなが面白いと思うものをやっていこうと「やっとかめ文化祭」のディレクターを引き受けて、「ストリート歌舞伎」も始めました。坪内逍遥の書いている歌舞伎調の「ロミオとジュリエット」を演出したり、昨年は、オンラインで石川五右衛門が名古屋の金シャチを盗むという話を配信しり。歌舞伎がなんだかわからないって人に向けて動画を作ったりしています。
―名古屋には戦国武将隊やナゴヤカブキなど、アイドルのような人たちもいますよね。
西川:本家からしたらまがい物と思われるものでも、私は伝統文化や歴史を知る入り口として良いと思っているんです。立ち上げの時に指導したり、サポートもしているんですが、若い人たちを中心に人気を呼んでいます。現在は、あいち戦国姫隊のプロデュースもしています。武将隊は名古屋発祥ですが、全国でも増えてきていますよね。名古屋って、東京と大阪に挟まれ、なんだかパッとしない田舎なんです(笑)。でも「はざま」だからこそ、ごった煮文化が育っていくんですよ。そういう中から熱気のある面白いものが生まれていく。コメダもココイチも、メイド喫茶も出会いカフェもみんな名古屋発ですよ(笑)。
逆境にも負けない『名古屋をどり』は復興のための踊り
―なんだかお話を聞いていると、元気が出てきました。現在、新型コロナウィルスの影響で、私たちの生活は一変してしまいました。西川流が昭和20(1945)年の終戦後すぐに舞踊公演を始められたと知り、逆境の時にも踊りって人々の心にパワーを与えてくれるものではないかと思うんです。
西川:六代目尾上菊五郎の弟子だった鯉三郎が、名古屋で西川流を継ぐように言われ、そのすぐあと、戦争に突入していくんです。昭和12(1937)年に結婚して、すぐに叔母が生まれ、昭和14(1939)年に父・右近が生まれ、昭和16(1941)年が真珠湾攻撃ですから。そんな時代でしたが、出光興産創業者の出光佐三(いでみつさぞう)氏がスポンサーとなってくれて、軍の工場などへ慰問を続けていたんです。それをやっていたから、終戦後、すぐに焼け野原の中でも公演ができた。進駐軍が名古屋に来る前で、名宝座という映画館の小さな舞台でしたが、窓ガラスが割れるほど人が押し寄せたそうです。そんな歴史もあり、「名古屋をどり」は復興のための踊りだと思って受け継いできたので、昨年亡くなった父の追悼公演にもなりますし、令和3(2021)年はいろいろな思いを込めて「名古屋をどり」を発信していこうと思います。
<インタビューを終えて>
西川千雅さんの明るく、楽しく、ポジティブなお話からは、新しい時代を生み出すエネルギーが感じられました。祖父である西川鯉三郎さんは、歌舞伎の世界では珍しく、歌舞伎の家元ではない家に生まれながら、一代で名を築きあげました。新作舞踊に力を注ぎ、川端康成をはじめ、木下順二、谷崎潤一郎、三島由紀夫など早々たる作家が手がけています。海外公演にもいち早く関心を向けるなど、様々な面においてもレボリューションの人でした。その志を受け継いだ西川右近さん、千雅さんも広く一般大衆へと踊りの楽しさを伝え続けています。『芸は家柄ではない』という言葉は、西川流の真髄を表し、日々向上心を忘れず、人々を巻き込みながら、芸を進化し続けてきたのだと思いました。コロナが終息し、令和3年9月に予定の「名古屋をどり」が大盛況で開催されることを願わずにはいられません。
参考文献:『にんげん見本帖』 西川右近著 創美社
西川流
天保12年(1841年)に初代家元である初世西川鯉三郎が名古屋西川流を創流。日本舞踊では最も古く、今も五大流派の一つとなっている。昭和15(1940)年に二世鯉三郎が二代目を襲名。終戦直後から「名古屋をどり」を上演し、日本で唯一の長期舞踊公演として現在まで続き、三世右近、四世千雅へと受け継がれている。
西川流公式ホームページ
やっとかめ文化祭
まちじゅうを舞台とし、「芸どころなごや」と言われた尾張徳川藩から続く、能、狂言、香道、茶道などの伝統芸能を現代の人たちが楽しめるよう趣向を凝らした市民参加型の祭り。平成20(2008)年から開催。
やっとかめ文化祭