春になって暖かくなると、お弁当を持って外に出かけたくなりませんか?
そんな気分になるのは昔の人も同じだったようで、『万葉集』の時代から、春になると、食事やお酒を携えて野遊びに出かけていたようです。
江戸の人々の3月の雛(ひな)祭りの頃の楽しみの一つが「摘み草」。お弁当を持って郊外の野原などに出かけ、野草を摘んだり、お弁当を広げたりして楽しんでいました。摘み草に出かけるのは、野草を摘んで食用にするという目的もありましたが、人の多い江戸の街中を離れ、春の光を浴びながら野で遊んでリフレッシュするという目的もあったようです。
この記事では、江戸の人々のレジャー「摘み草」について紹介します。
江戸のレジャー「摘み草」とは?
「摘み草」とは、「春の野に出て草を摘む」こと。野菜の栽培が本格的に行われるようになるまでは、春の初め頃になると、食用となる野草や山菜を採集することが行われていました。
画像のタイトルに「二月 つみ草」とありますが、旧暦の2月は、新暦では2月下旬から4月上旬頃にあたります。摘み草にはよい時期です。
蝶の舞う梅の木の前に立つ女性の抱えた籠の中には、摘みとった草が沢山入っています。
『万葉集』にも摘み草の様子を詠んだ歌が収録されています。
「春日野(かすがの)に 煙立つ見ゆ 娘子(をとめ)らし 春野(はるの)のうはぎ 摘みて煮らしも」(巻10-1879)
(春日野に煙が立っている。乙女たちが春のうはぎ(=嫁菜)を摘んで煮ているのだろう。)出典:『日本古典文学全集 8 萬葉集 3』 小学館
春の一日にお弁当を持って出かけ、遊んで過ごす野遊びは、江戸時代になって庶民にも広がりました。春の光を浴びながら野で遊ぶ解放感が、人々を戸外へと誘ったのです。
「摘み草」では、どんな草を摘む? どう食べる?
春の野の摘み草では、蓬(よもぎ)、芹(せり)・土筆(つくし)・野蒜(のびる)・嫁菜などを摘みました。江戸時代の人々にとって摘み草は、風流な遊びというよりも、食料としての野草を採取する意味も大きかったとも言われています。何より、江戸でも少し足を延ばして郊外に行けば、野生植物の豊富な自然環境があったのです。
江戸時代、野菜は「青物」と呼ばれていました。
寛永20(1643)年に刊行された『料理物語』という料理法などをまとめた本の「第七 青物之部」では、タンポポ、嫁菜、蓬、ハコベ、ナヅナ、芹、土筆なども入っており、どうような料理に使うかが記載されています。また、それぞれに適した料理法も紹介されています。
例えば、「第九 汁之部」で紹介されている「蓬汁」の作り方は次のとおりです。
[よもぎ汁]みそにだしくわふ、よもぎをざくざくにきり、しほすこし入、もみあらひて入、又ゆがきてもよし、たうふなどもさいにきり入、正二三月によし
「蓬をざくざくに切って、塩を少し入れてもみ洗いするかゆでて、豆腐のさいの目切りなどを加えてみそ汁にする」とあります。この本によると、「蓬汁」とは青汁のようなものではなく、蓬が具のお味噌汁だったんですね!
江戸の人々の「摘み草」スポット紹介
それでは、江戸の人々は、どこに摘み草に行ったのでしょうか?
基本、日帰りで摘み草を楽しんでいました。人気の「摘み草」スポットは、現在では「えっ、ここで摘み草ができたの?」と想像できない場所でした。
広尾原
現在の広尾は各国大使館が並ぶ街ですが、「広尾原(ひろおのはら)」と呼ばれた江戸時代は、下渋谷・下豊沢(しもとよさわ)という二つの村にまたがっていた野原でした。百姓地の中に大名の下屋敷や旗本屋敷が点在しており、「御鷹場(おたかば)」という鷹狩のために設定された特別の狩猟の場でもありました。広尾原は「江戸一番の野原」と言われた場所で、春は摘み草、夏は蛍狩り、秋は虫の声を楽しむことができました。
古川は上流では渋谷川、下流では赤羽川、新堀川、金杉川と名前を変え、江戸湾に注ぐ川です。古川には麻布十番の船着き場から順に、「一之橋」から「四之橋」という橋が架けられました。広尾原には歩いて行くほか、古川を使って船で「四之橋」まで行くルートもあり、江戸の中心部からアクセスが良く、観光地として栄えました。「四之橋」の南には、行楽に来た人々向けの茶店や料亭が多かったと言われています。
熊野十二所権現社
新宿にある十二社熊野神社は、江戸時代は「熊野十二所権現社(くまのじゅうにしょごんげんのやしろ)」と呼ばれました。室町時代・応永年間(1394~1428年)に中野長者と呼ばれた鈴木九郎が、故郷である紀州の熊野三山より十二所権現を移して祀(まつ)ったものと伝えられます。
江戸時代には、幕府による社殿の整備や修復も行われ、八代将軍・徳川吉宗は、鷹狩を機会に熊野十二所権現社を参拝するようになりました。境内の滝や池を擁した周辺の風致は江戸西郊の景勝地として賑わいました。
現在は西新宿の高層ビル街の中にありますが、江戸時代の熊野十二所権現社の境内は広く、春は桜、桃、杏、山吹などの花が次々と咲く、人気の行楽スポットだったのです。
摘み草スポットは、意外と近くにあった!
近世後期の江戸とその近郊の年中行事を月順に配列し、いつ何をするのか、どこに行くのかを案内した『東都歳事記』は、江戸の生活ガイドブックのようなものでしょうか?
この本では、梅や桜、牡丹、藤、萩、紅葉の名所、月見や虫聞(=鈴虫など、虫の鳴き声を楽しむこと)におすすめの場所などが挿絵入りで紹介されています。残念ながら、この本には摘み草スポットの案内は掲載されていないのですが、八月の「花野(はなの/秋草の咲く野原)」として「隅田川堤、豊島、麻布広尾原、落合鼠山辺(ねずみやまべ)、代々木野」をあげています。「鼠山」は、新宿下落合氷川神社裏手にある七曲坂を下った台地のこと。おそらく、このような場所で春の摘み草も行われていたと思われ、町の中心部から少し外れたところに摘み草ができる場所があったことがわかります。
満開の桜の木の下で摘み草をする女性たち。摘んだ草は手ぬぐいに包んで持ち帰るようです。手ぬぐいはこういう使い方もできるんですね!
お弁当を持って「摘み草」へ
レジャーの楽しみと言えば、何といってもお弁当!
日帰りで摘み草を楽しむ時は、お弁当を持って出かけました。郊外の野原に出かけ、鳥の鳴き声を聞きながらスミレやタンポポ、桜などの花を眺めながら、摘み草を楽しみます。その後は、春ののどかな風景を眺めながら持ってきたお弁当を食べたり、お酒を飲んだりしました。
画像では、4人の女性が菜の花が咲く春の野に出かけた様子を描いています。右端の包みを担いでいる男性は女性たちの供人です。包みの中にはお弁当が入っているのでしょうか?
春になると、草木が芽を出し、若葉を広げます。江戸の人々は、「摘み草」をするために自然の中に出かけ、若葉に宿った春のエネルギーを取り込むことでリフレッシュしていたのかもしれません。俗に、江戸は「100万都市」と言われています。江戸の中心部は人があふれていましたが、ちょっと足を延ばすと、自然を楽しむことができたのです!
春の自然を楽しみながら上手にリフレッシュしていた江戸の人々を真似して、天気の良い日に、近くの公園や川原などにお弁当を持って出かけるのも、いつもと違う非日常感があり、リフレッシュ方法として良さそうですね。
主な参考文献
- 『図節浮世絵に見る江戸の歳時記』 佐藤要人監修 河出書房新社 1997年11月
- 『東都歳事記 1~3(東洋文庫)』 斎藤月岑著 朝倉治彦校注 平凡社 1970年
- 『料理指南』(『雑芸叢書 第一』 国書刊行会 1915年)
- 江戸食文化紀行-江戸の美味探訪- No.78 摘み草
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