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Culture
2021.06.25

柴田勝家は「ザ・昭和のリーマン」だった?逆境をプラスに変える男についたあだ名がカッコイイ!

この記事を書いた人

「どうして『Dyson(ダイソン)』なんですか?」
たまに取材先で、こんな質問を受けることがある。

まあ、確かに。
渡された「Dyson尚子(私のペンネーム)」という名刺は謎だらけ。「Dyson」という部分だけを取り出せば、思いつくのはアレしかない。ということで、ほとんどの方が「某掃除機と何か関係が……?」という問いを思いつくようだ。ただ、それも最後まで言い切る前に、私に完全否定されるというオチ。

ペンネームの話はさておき。
戦国時代には、本名以外に「異名」を持つ武将が多かった。

「異名」。つまり、簡単にいってしまえば「あだ名」である。
美濃の「蝮(まむし)」といわれた「斎藤道三(さいとうどうさん)」。「甲斐の虎」こと「武田信玄」。それにしても、どうしてこんなに揃いも揃って、カッコいい名前なのかと唸るばかり。コレだけで、武将の強さが10倍増しになりそうなほどの威力がある。

今回は、そんな異名を持つ戦国武将のお話。
取り上げるのは、織田信長の宿老として存在感抜群の「柴田勝家(しばたかついえ)」。

じつは、彼には有名な異名がある。それがコチラ。
「瓶割(かめわ)り柴田」。
異名だけで判断するならば。正直、そこまで「強くて憧れる名前」とはいえない部類。ただ、わざわざ取り上げるには、それ相応の理由がある。

というのも、ズバリ、異名となるまでの経緯が、とてつもなくカッコいいのだ。そこには、勝家の知られざる圧倒的な「ポジティブシンキング」があったといえる。

逆境を跳ね返し、プラスに変える彼の発想力。
早速、ご紹介していこう。

※冒頭の画像は、落合芳幾筆 「太平記英勇伝」「十三」「柴田修理進勝家」  東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)となります
※この記事は、「柴田勝家」「豊臣秀吉」の表記で統一して書かれています

不器用だけど一途な猛将?

髭生やしたオッサンで、下腹が出て、声も大きい感じ。
一途で不器用で、情にもろアツ。
勝手ながら、これは、私の「柴田勝家」のイメージなのだが。きっと同じような「勝家像」を膨らました方も多いのかも。

かつては、織田信長の弟である「信行(のぶゆき)」に仕え、信長と敵対した過去を持つ。だが、信長に許されてからは、その忠誠心は人一倍。信長にあえて諫言するのも、「我こそは彼の重臣」というプライドがあるからこそ。

一方で、柔軟性に乏しく、融通が利かない一面も。そういう意味では、人心掌握術に長けた要領のいい豊臣秀吉とは、真逆の存在ともいえるだろう。

曲げられない男。そんな印象が強いのも、ある1つの逸話が残っているせいかもしれない。その逸話とは、織田信長より、戦の「先鋒の大将」に抜擢されたときのこと。

勝家は喜ぶワケでもなく。意外にも「先鋒の大将」として出陣することを再三辞退したのだとか。一方の信長も命令を変えず、両者のやりとりは続く。だが、主君の命に背くことなどできず、結果的に、勝家は受け入れることに。

小林清親 「敎導立志基 卅二 信長」 「教導立志基」「信長」東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

そののち。安土城下で、信長の直属の家臣と出会う勝家。偶然にも、両者は体が行き当たってしまうのだが。このハプニングに対して勝家が取った行動は、予想外のもの。

なんと、無礼を理由に、その者を斬り捨てたというのである。

もちろん、これを聞いて、信長が激怒したのはいうまでもない。
この反応を、あくまで勝家は予測していたのか。そんなことを思わせる信長への申し開きの内容がコチラ。

「然ればこそ先陣をば是非共辞し申したるなれ、子細無くて辞し申すべきや。先陣の大将たる者威権(いげん)無き時は下知(げぢ)行はれざる物なり。如何に」
(湯浅元禎、他『常山紀談』より一部抜粋)

まとめれば、「だから言ったでしょう」的なニュアンス。
再三辞退したからには、理由があるのだと。勝家曰く、理由もなく断ったわけではないという。「先陣の大将たる者、威厳がなければ下知できませぬ」というワケだ。

確かに、おっしゃる通り。そもそも「先鋒の大将」とは、先陣する者へ命令を下す立場にある。もし、大将たる威厳がなければ、味方を統制することに手間取り、その前段階でつまずくことに。勝家からすれば、それなりの権利を認めてもらわなくては、到底務められないとの思いがある。

ただ、一方で、信長の性格も十分知っている。さすがに、そこまで主君が予想して動いてくれるとは思えない。だからこそ、申し開きの最後に問いかけたのだ。「いかがでしょうか」と。

この時点で、勝家は、信長のいう「先鋒の大将」の実体を知っていた可能性が高い。だからこそ、両者に齟齬があると考え、このような申し開きになったのだろう。なんだか、切ない。不器用といわれれば、それまでだが。主君に分かってもらうには、もっと違うスマートな方法があっただろうにと思ってしまう。いやはや、愚直というか、なんというか。

ちなみに、この申し開きに対して、信長はというと。
返す言葉がなかったとか。

柴田勝家の人格が非常によく分かる逸話といえる。

究極のプラス思考が人生を変える!

さて、そんな柴田勝家だが。
冒頭でご紹介した通り、彼には異名がある。
その名も「瓶割り柴田」。

どうやら異名がついたのは、ある戦が関係しているようだ。
それが、元亀元(1570)年6月の「六角義賢(ろっかくよしかた、佐々木義賢)」との長光寺城(滋賀県近江八幡市)での戦いである。

ここで登場する六角義賢について。
近江国(滋賀県)守護の「定頼(さだより)」の嫡男として生まれ、天文21(1552)年に家督を継ぐことに。観音寺城を居城として、近江南部で勢力を拡大した戦国大名の1人である。

永禄11(1568)年、上洛を目指す織田信長と敵対した結果、六角義賢は観音寺城を捨て逃亡。その後も再起を目論み、反信長勢力の1つとして、一揆勢らを扇動するなどの動きを見せる。

そんな情勢の中、大きくコトが動いたのが、元亀元(1570)年4月。
越前(福井県)の朝倉攻めを行っていた織田信長は、妹のお市を娶った浅井長政の裏切りにあい、やむなく撤退。信長自身も辛うじて危機を脱出することに。同年5月9日、岐阜城に帰陣するため京都を出立。

その途中で、信長は、要所要所に警護の軍勢を残していく。宇佐山城(滋賀県大津市)には「森可成(よしなり)」を、永原城(滋賀県野洲市)には「佐久間信盛」を。そして、長光寺城(滋賀県近江八幡市)には、「柴田勝家」を置いたのである。

同年6月。
柴田勝家が在城する「長光寺城」を包囲して攻めたのが、この六角義賢なのだ。

落合芳幾筆「太平記英勇伝」 「十」「佐々木六角承禎」 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

じつに、本丸にいた柴田勝家は、窮地に追い込まれていた。
というのも、城や砦の外郭である「総構(そうがまえ)」は打ち破られ、既に防戦一方の状況。加えて、長光寺城は、遠くから水を城に引いているという弱点があったのだ。

この情報を得た六角義賢は、早速、水を断つように手を打つ。
もちろん、城には水が流れてこず、城の中の者たちは大いに苦しむことに。

ここからは、出典元で少し話が違うのだが。『常山紀談』そして『名将言行録』に記されている内容をご紹介しよう。

六角義賢は、城の中の様子が気になって仕方がない。
そこで、和平を装い、平井勘介(かんすけ)を使者として長光寺城へと送ることに。勘介は城に入ったが、別段変わった様子もない。なんなら、手を洗う際には十分に水を使うことができたうえ、残った水を、小姓が庭に捨てたのだとか。

この様子を聞いた六角義賢は、訝しむ。
城の中には水がないはず。それなのに、どうして……。

しかし、実際はというと。
城の中は水無し地獄だった。飲む水まで制限したとて、既に水はスッカラカン状態。どうすることもできず、絶体絶命のピンチに追い込まれていたのである。

そこで、柴田勝家はある決断をする。
「明日、城から打って出る」

そのため、勝家は城にて最後の酒宴を開き、残る水を持って来させたのである。
ここからが逆境をプラスに変える勝家の凄さである。

「勝家はこれをかつぎださせ『いままで長い間の渇きをこれでいやせよ』といって、人びとに汲み呑ませ、残った水の入っている瓶を長刀の石突(いしづき)で割ってしまった」
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)

こうして、自らを背水の陣に追い込み、同年6月4日、門を開いて敵を襲撃。想定外の反撃に、六角義賢側は慌てふためく。この勢いに乗って、勝家軍はさらに追撃。終わってみれば柴田勝家軍の大勝で、首800余りを挙げたという。

さて、ここで、私が注目したいのは。
やはり、勝家の「水の瓶を割った行為」だろう。
現時点で残っている最後の水を、全員に与える。思う存分、喉の渇きをいやさせる。なんとなくだが、ここまでは分かるし、理解もできる。ギリ想定内の行動だ。

だが、そのあと。
まだ水が残っているにもかかわらず。瓶を割ってしまう。

いうなれば、水を行き渡らせる行為だけでも、兵の士気は100%にアップ。
そこに、である。
「瓶を割って」、ウオー的な男の雄叫び(吠えるのは私の勝手な想像)。

これで、兵の士気はMAXどころではなく、恐らく振り切れて計測不能状態に。この豪快な意志の見せ方、さすがは柴田勝家である。ただ、逆境を嘆くのではなく、自らの熱い思いで跳ね返す。このプラスに変える行動が、勝利を呼び込んだのではないだろうか。

この逸話から、人は、勝家のことを「瓶割り柴田」と呼んだのだとか(事実ではないという説もある)。これほど、柴田勝家という人物を表す異名もないだろう。

最後に。
じつは、柴田勝家の異名は、他にも存在する。
「鬼柴田」など、勇猛な武将を表す名前だ。

逆境にもめげず、ひたすら前を向く。ぐいぐいと部下を引っ張る強力なリーダーシップの代表格。ハラスメントに怯える現在の風潮からは想像できない上司像だ。きっと、日本の高度成長期を支えた「ザ・昭和のリーマン」のような人物なのだろう。

気付けば、時代と共にマネジメントの手法も大きく変化した。
「俺についてこい」は、もう古い。
「一緒にやろう」という、フラットな組織。心理的安全性が担保された職場。現在の若者には、そんな環境が好まれるのだとか。

けれど、こんな時代だからこそ。
コロナ禍で鬱々とした時世だからこそ。
逆に、私は思う。

強烈に熱い。器のデカい。
パワフルなハートを持つ人が必要なのだと。

そう、いうなれば「瓶割り柴田」のような。

参考文献
『信長公記』 太田牛一著 株式会社角川 2019年9月
『名将言行録』 岡谷繁実著  講談社 2019年8月
『信長の親衛隊』 谷口克広著 中央公論新社 2008年8月
『常山紀談』 湯浅元禎、他 有明堂 1926年

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。

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