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焦がちね、物病んじすん(読み:あしがちねぇ むぬやんじすん 意味:焦ると物事がうまく行かない 沖縄のことわざ)

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2021.08.02

敵陣も涙!城兵全員が討死した「岩屋城の戦い」763名の壮絶な最期とは

この記事を書いた人

「嗚呼壮烈岩屋城址」

思わず、心の奥底から漏れる「嗚呼(ああ)」。
そして、勇ましくて立派なさまを表す「壮烈(そうれつ)」。

福岡県太宰府市にある「岩屋城(いわやじょう)跡」。
かつて本丸であった場所に置かれている石碑には、そんな言葉が刻まれている。

子孫らが建てたとされるコチラの石碑。まさに、高橋鎮種(あきたね、紹運)ら763名が遂げた壮絶な最期を、ものの見事に表現した言葉といえるだろう。

今回は、「嗚呼壮烈」といわしめた天正14(1586)年7月の「岩屋城の戦い」について取り上げる。もう、前置きはこれで十分。それよりも、この記事では彼ら戦国武将の大いなる葛藤を掘り下げたい。

敵と味方。父と子。主君と家臣。
それぞれの立場から選択を迫られ苦悩する武将たち。一体、彼らは、何を優先し、そして、何を犠牲にするのか。

この高橋鎮種らの命をかけた「岩屋城の戦い」があったからこそ。半月も足止めされた島津勢はタイムオーバー。悲願の九州統一は間に合わず、結果的に豊臣秀吉の九州制覇が実現することに。

こうして、戦国武将らの自ら選択した答えが積み重なって、歴史は動くのである。

九州、そして日本の勢力図に影響を与えた「岩屋城の戦い」。
それでは、早速、ご紹介していこう。

※冒頭の「岩屋城址石碑」の画像は、太宰府市より提供されたものです
※この記事は「高橋鎮種」「立花宗茂」「豊臣秀吉」の表記で統一して書かれています

悲願の九州統一を目指す島津勢

「岩屋城の戦い」が始まったのは、天正14(1586)年7月。
まずは、簡単にこれまでの経緯を説明しておこう。

約4年前。
天正10(1582)年に、織田信長が「本能寺の変」で自刃。天下統一目前で信長が倒れたことにより、戦国時代の勢力図は大きく変わる。

本州では、織田信長の家臣であった豊臣秀吉(当時は「羽柴秀吉」)が一歩リード。同じく信長の宿老である柴田勝家を倒し、徳川家康を抑え、四国遠征まで。秀吉は、これらを天正13(1585)年末時点では既に終えていた。もちろん「関白職」も手に入れて、である。

そんな秀吉が次に目指したのは「九州」。
全国統一のみならず、「唐入り(朝鮮出兵)」を目論む秀吉にとっては、必ず押さえたい場所。

ちなみに、狙われた九州はというと。
まさに、群雄割拠の時代が終わろうとしていたタイミングであった。

かつて、九州にその名をとどろかせた名門「大友氏」。しかし、豊後(大分県)など6ヵ国を支配していた事実は、残念ながら過去のもの。天正6(1578)年の「耳川の戦い」での大敗がターニングポイントとなり、その勢力は一気に衰える。逆に、この戦いに大勝した「島津氏」は勢いを増し、九州南部から北進を続け、次々と領土を拡大していく。

なかには、没落する大友氏の隙をついてのし上がる者も出現。「龍造寺(りゅうぞうじ)氏」などがいい例だが、それも一時的なコトで終わる。というのも、天正12(1584)年に肥後(熊本県)を巡って島津氏と激突。当主であった龍造寺隆信が討死するからだ。

九州では、破竹の勢いの島津氏を止める手立てはなく。あの大友氏でさえも、島津氏の前では、もはや風前の灯火。こうして、島津氏の九州統一もほぼ見えてきた頃。大友氏は驚きの行動に出る。

なんと、大坂城に出向いて、秀吉に助けを求めたのである。

三島霜川著 『太閤秀吉』 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

そんな大友氏の家臣の1人が「高橋鎮種(しげたね)」。
この「岩屋城の戦い」で、壮絶な最期を遂げる戦国武将である。一般的には、法名の「高橋紹運(じょううん)」の方が有名なのかもしれない。彼は、「大友宗麟(そうりん)」に追放された「高橋鑑種(あきたね)」の「高橋氏」を継いで、筑前国(福岡県)の宝満山城、そして岩屋城の城主となる。

衰退する大友氏を見捨て反旗を翻した龍造寺氏や秋月氏などと異なり、高橋鎮種は最後まで大友氏に忠義を貫いた。名将と誉れ高い「立花宗茂(むねしげ)」は、この高橋鎮種の実子でもある。なお「立花氏」を名乗るのは、「立花道雪(どうせつ、「戸次艦連(へつぎあきつら)」ともいう)」に乞われて、高橋鎮種が嫡男の宗茂を養子に出したからだ。

さて、話を戻そう。
島津勢からすれば、悲願の九州統一が、ここにきて危ぶまれる事態に。なんとしても、秀吉の援軍が渡海する前に、とっととカタをつけたい。そんな思惑で、島津勢はさらに北上。大友氏の所領である筑前国(福岡県)になだれ込む。

天正14(1586)年7月10日。
「宝満山城」と「立花城」の前衛として、最前線の位置にある「岩屋城」。この岩屋城よりもやや南部にある「勝尾城(かつのおじょう、佐賀県)」が、島津勢に攻略される。高橋鎮種の子「統増(むねます)」の義父である「筑紫広門(つくしひろかど)」が島津勢へと降(くだ)ったのである。

次に島津勢が攻めるのは「岩屋城」。
3万余り(5万とも)の大軍を率いるのは、島津忠長(ただなが)、伊集院忠棟(ただむね)ら。島津勢が誇る名将である。対して、岩屋城に籠城したのは、高橋鎮種らの763名(諸説あり)。

刻一刻と島津勢の大軍が迫りくる「岩屋城」。
歴史に名を残す戦いが、今まさに始まろうとしていたのである。

どうして岩屋城を選んだのか?

さて、この岩屋城。
じつは宝満山城の支城である。ここで、1つ疑問が。高橋鎮種は、どうして「岩屋城」で戦ったのだろうか。

正直なところ、この兵力差で勝とうとするには、無理がある。一方、秀吉の援軍は既に九州へと向かっていた。いうなれば、援軍到着まで、なんとか持ちこたえればいいのだ。だったら、何も最前線に詰めなくとも。より長く籠城できる「宝満山城」を、戦いの場にした方がいいようにも思えてくる。

加えて、岩屋城は地の利が悪い。
断然、宝満山城での籠城戦の方が、高橋鎮種が生き延びる確率は上がるだろう。

しかし、それでも高橋鎮種は、あえて「岩屋城」を選んだ。養子に出した長男の立花宗茂は、居城の「立花城」に。そして、次男の統増(むねます、のちの立花直次)は、非戦闘員である女や子どもらと共に「宝満山城」に。高橋鎮種自身は、迷うことなく「岩屋城」で、島津勢を迎え討とうとしていた。

これには、立花宗茂も異を唱えている。

「秀吉公からの援兵も、おっつけ関の戸を越すところだと聞きおよんでおります。その軍勢を待ち受けられるまでの間は、堅固な地にご籠城されるがよろしかろうと存じます」
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)

しかし、高橋鎮種は宝満山城に移ることはなかった。
一説には、たとい自身が犠牲になってでも、岩屋城で島津勢を可能な限り足止めし、宝満山城にいる「統増」、そして、立花城主である「宗茂」を守ろうとしたとも。

琢玄宗璋 「立花宗茂像」 慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)

なお、宗茂からの使者に対して、高橋鎮種はこのように返答をしている。

「地の利は人の和に如かずとむかしからいわれているから、たとい堅固な城に立てこもったとしても、人の心が一つにまとまらなければ何の役にもたたず、深謀遠慮の計とはいいがたい」
(同上より一部抜粋)

元を正せば。
島津勢の北進を許したのも、これまで大友氏に臣従していた者たちの裏切りがあるからだ。次々と反旗を翻す彼らの心が、もし1つにまとまっていたならば。この戦い自体が起きなかった可能性もある。そんな忸怩たる思いが、高橋鎮種にあったのかもしれない。

それだけではない。
さらに、返答の続きを見ると。そこには、ある種の「諸行無常」の考え方が見えてくる。

「残念ながら大友家の家運もすでにかたむき、また我が家の運も末になってしまったのか、逆徒は年を追って蜂起し、味方になってくれる者は一人もいないありさまだ。時は刻々に流れ、その流れについて、いっさいの物はみな栄枯盛衰があるというのが世の習いであるから、我が家はいまや滅ぶべき最後の時がきたのだと思われる」
(同上より一部抜粋)

多くの家が滅びた。そう考えれば、わが家も断絶の時が来てるのかもしれない。それは、ある意味、自然の摂理ともいえる。高橋鎮種はそんな胸中だったのだろうか。逆に、地の利において不利な岩屋城で、もし、持ちこたえることができるのであれば。それは、家運が未だ尽きぬだけのコト。滅亡必至ならば、宝満山城に移ったとて同じコト。

ならば、尚更。
城を捨てて逃げ出したといわれるような無様な真似はしたくない。

武将としてのプライドや誇り。
討死したとしても、それまで奪われるつもりはない。

そんな高橋鎮種の強い意志があったせいか。
蓋を開ければ、「岩屋城の戦い」は、約半月もの間、籠城戦が続くのである。

度重なる降伏勧告にも、志は変わらず

そもそもの話。
島津勢は、進んで高橋鎮種などと対峙したくはなかった。
その理由は2つ。

両者には大きな兵力差がある。だからといって楽勝パターンではない。なんなら、島津勢が苦戦するのは目に見えていた。というのも、高橋鎮種は大友氏の家臣の中でも猛将。そして、そんな彼が率いる城兵らも士気高い系。

もはや事態は楽観視できない状況で、すぐ近くにまで秀吉の援軍が迫っているのだ。ここは兵力を温存しておきたいし、時間もかけたくない。いや、逆に。高橋鎮種のような猛将を味方につけられればとさえ、思ってしまう。秀吉の抵抗勢力として取り込みたいとの思惑も。

また、単純に「惜しい」という気持ちもある。
最後まで主君である大友氏を裏切らない高橋鎮種。同じ戦国武将として、彼は非常に魅力的な人物だったに違いない。「負け戦」と分かっていながら、戦いに挑む武将としての生き方。むざむざ死なせるには惜しい人材と判断したのだろう。

そんな裏事情もあって。
島津勢は即座に動いた。
じつに島津勢は、合計3度も高橋鎮種に降伏勧告を行っているのである。

できれば、降伏してほしい。命だけは取りたくない。そんな島津勢の腹が透けて見える。

島津家の家紋(関ヶ原町で撮影)

しかし、高橋鎮種は決して応じなかった。
こうして、天正14(1586)年7月14日。島津勢の攻撃が開始。

ただ、やはり。
島津勢は、予想通りの苦戦。なかなか思うような結果を出せず。島津勢は足場を固め、楯を連ねて城方に寄せるのだが。反対に、岩屋城から凄まじい猛射を浴びる始末。昼夜共に攻め続けても、味方側に多くの死傷者が出てしまうだけ。

実際に、討死覚悟の城兵の強さは底知れなかったようだ。ひるまず防戦に努める彼らに対して、島津勢は断続的な攻撃を続けるのだが、ことごとく失敗。決定的な攻撃ができずに、時間ばかりが過ぎていく。

22日。
島津勢に新たな援兵が到着。増員を行い、本格的な攻撃を再開する。軍夫を使って、堀を埋めさせていくのである。

26日。
ようやく、島津勢が岩屋城の外郭(そとぐるわ)を占領。数には勝てず。ここからは、消耗戦へと移行する。籠城していた高橋鎮種らは、二の丸、三の丸へと退くことに。

もはや、落城も時間の問題。この寸前のところで。島津勢より、まさかの再度の降伏勧告がなされることに。なんなら、最後の勧告は、大友氏と島津氏の両家の調停役となって和睦の手立てを講じて欲しいと、高橋鎮種のメンツも考えた内容となっている。

この提案に対して、高橋鎮種はというと。
彼の返答の一部分を抜粋しよう。

「いまは大友家も衰え、拙者も宗茂も困難な籠城という仕儀におよんで降参いたすことは、なんとしてもいたしがたきこと。…(中略)…かくて、この大軍に囲まれた以上、もはや拙者は切腹と覚悟を決め申した。秀吉公にもこの次第を申し上げ、多年にわたる大友家との同盟は、この期におよんで変更いたしがたい。…(中略)…このうえは、不義の名を負って生きるより、忠義の一節を守って死に、美名を永く世に残すが最上の道と思い定め申した」
(同上より一部抜粋)

これで、和睦の可能性もゼロに。生き残ることよりも、忠義を選んだ高橋鎮種。

こうして迎えた運命の27日。
島津勢の最後の総攻撃が開始される。

岩屋城の城兵も討死覚悟。
ここで体制を整えて、2戦、3戦と長引かそうという考えも毛頭なく。誰も退くことはなかったという。切っ先揃えて討ちかかり、持ち場を離れることなく戦死。島津勢を1人でも多く道連れにという、まさに壮烈な戦い方。その執念に、島津勢も1時間ほど攻め入ることができなかったとか。

一方で、高橋鎮種はというと。
休む間もなく城内を回り、家臣らに声をかけたという。死者には深く頭を垂れてその忠節に感謝して。未だ息のある者には手ずから気付け薬を与えたのだとか。

そうして、いよいよ戦いも終盤。兵力差が、じわじわと影響してきたところで。島津勢に追い込まれた高橋鎮種は、自らの最期を選ぶ。

それは、本当に見事なものだった。

辞世の句を高櫓の扉に書きつけて。
敵陣に切り込むも力尽き、敵方に矢止めを乞うたという。

そして、櫓に上がって。
武将としての散り際。思い残すことなく自害。享年39。

書かれた辞世の句は。

「屍をば岩屋の苔に埋みてぞ 雲井(居)の空に名をとどむべき」
(同上より一部抜粋)

己の屍が苔に埋まったとしても、空高く名をとどめたいものだ。

岩屋城の将兵も残らず討死。なお、島津勢の被害も甚大で、3700人余りが討たれたという(諸説あり)。こうして、岩屋城は落城。半月の籠城戦は幕を下ろしたのであった。

なお、後日談だが。
高橋鎮種の首と対面した島津勢は、本当に惜しいことをしたと落涙したという。

最後に。
「岩屋城の戦い」での高橋鎮種の本当の願いを書いてみたい。

じつは、文中でご紹介した高橋鎮種から立花宗茂への返答。
これには、さらに続きがある。

「わしはたとい武運拙く切腹して果てようとも、宗茂さえ無事であれば、いまは亡き艦連(立花道雪)に対しても顔が立つというものだ」
(同上より一部抜粋)

それだけではない。
この戦いの顛末を暗示するような内容なのである。

「たとい敵の大軍が押し寄せてきたとしても、まさか十日ももちこたえられぬことはあるまい。わしが命かぎりに戦えば、寄手の兵も三千ぐらいは討ってみせる。島津勢、いかに鬼神のごとき兵といえども、ここで三千人が討たれては、重ねてそちの立花城に攻め入って、手強き働きはむずかしかろう」
(同上より一部抜粋)

「立花城は名城でもあり、屈強の士も多い。たとい敵が攻めたとしても、まさか二十日のうちに落ちるようなことはあるまい。こうしてかれこれ三十日をすごす間に、中国(地方)からの援兵も九州に渡ってこよう。そうなれば宗茂は武運を開くことになる」
(同上より一部抜粋)

「岩屋城の戦い」での高橋鎮種の壮烈な最期。確かに、主君である大友氏への忠義もあっただろう。武将としての誇り、そして、父として「逃げない生き様」を見せたい気もちもあっただろう。

しかし、それよりも何よりも。
私は、これから生きていく立花宗茂の人生を一番に考えたように思えてならない。断腸の思いで養子へと出した我が子。聡明で、それでいて「人の道」をわきまえた子に育ってくれた。きっと、高橋鎮種からすれば、宗茂の将来が楽しみでならなかったに違いない。命だけではない。彼の将来までも守りたかった。

「武将」としてできるコト。
それよりも、「父」としてできるコト。

だからこそ「岩屋城」を選んだ。そして、ありえない兵力差であっても、半月も耐えて籠城。高橋鎮種ら763名は、1人でも多くと、島津勢を道連れにした。

全ては、その言葉通りの結果を実現したのである。

高橋鎮種。享年39。
その生き様は、立花宗茂に大いに影響を与えたはず。

だからなのか。
のちに、立花宗茂は「名将」の名を欲しいままに、無双の活躍ぶり。

秀吉の死後、たとい関ヶ原の戦いで「西軍」についたとしても。
立花宗茂は、不死鳥の如く甦るのだから。

参考文献
『戦国合戦地図集』 佐藤香澄編 学習研究社 2008年9月
『名将言行録』 岡谷繁実著  講談社 2019年8月

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。

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