はじめに
幕末から明治時代前期にかけて活躍した岩倉具視は、文政8年9月15日(1825年10月26日)、前権中納言・堀河康親の第二子として生まれました。幼名は周丸(かねまる)、雅号は華竜、のちに対岳と改めました。
天保9年(1838)、岩倉具慶の養子となり、具視と名乗ります。岩倉家は村上源氏久我家の支流で、江戸時代初期に岩倉を称した具起が初代です。岩倉家の公家としての格は「羽林家」で、摂家、清華家、大臣家よりも格下であり、摂政や関白は無論のこと太政大臣にもなれません。ごく稀に内大臣に昇進した事例がありますが、ほぼ大臣になれないくらいの家格でした。
嘉永6年(1853)、関白の鷹司政通に朝廷改革を提案、それがきっかけで安政元年(1854)に孝明天皇の侍従となり、ついで近習となって、天皇の側近くに仕えるようになりました。
和宮降嫁
安政5年、日米修好通商条約調印の勅許阻止を図り、中山忠能ほか公家88人の列参を画策したのが政界へのデビューでした。このことで窮地に陥った老中首座の堀田正睦は、ほどなく大老の井伊直弼によって罷免されてしまいました。デビュー早々、なかなか痛烈な一撃を放っていますね。
ついで和宮降嫁問題が起きると、公武合体策に乗ることで朝廷の権威を回復できると主張し、通商条約の破棄と攘夷決行を幕府に約束させることで、孝明天皇に和宮降嫁を納得させています。
文久元年(1861)、和宮に従って江戸へ赴き、将軍徳川家茂自筆の誓詞を獲得しました。翌年、島津久光が入京、公武合体運動に乗り出して江戸への勅使下向を要請すると、薩摩藩の意向を採り入れ、徳川慶喜を将軍後見職、松平春嶽を政事総裁職として政界に復帰させるなどの「三事策」をまとめ、それ以来、薩摩藩と関わるようになりました。しかし、和宮降嫁に際して「幕府寄りの姿勢だった」として尊皇派の反発を買い、さらには孝明天皇の勘気を蒙って辞官・落飾を命ぜられました。辞官・落飾を平たく言うと、クビになったうえで、仏門に入ることです。
岩倉村幽居
宮中から追放された具視は、和宮降嫁に憤る尊皇派の浪士に付け狙われ、洛中に居ては危険だったので、慶応3年(1867)まで知行地(領主として支配する土地)だった洛北の岩倉村で隠棲を余儀なくされていました。
その間、文久3年8月18日の政変、元治元年(1864)の禁門の変、また、第一次幕長戦争と、情勢は激変しています。岩倉村には、非蔵人の松尾相永のもとに集う「柳の図子党」と呼ばれた志士たちが出入りして、具視に世情を伝えました。
この時期、具視は王政復古による国内統一を図って「叢裡鳴虫」、「全国合同策」、「済時策」などの政治意見書を起草、公家や薩摩藩の同志へ送りました。
慶応2年7月、将軍・徳川家茂が急死します。具視はこの機に王政復古を実現させようと、公家有志を煽動して、朝廷改革と列藩召集とを天皇に上奏させました。このときの朝廷改革は、中川宮と二条斉敬らを追放、近衛忠煕を関白に復帰させたうえで、幽閉された公家たちの赦免などを要求するものでした。
おりしも幕府は第二次幕長戦争で事実上の敗北となる停戦を迎えた時期に重なります。徳川宗家を相続した慶喜は将軍職就任を拒んでいましたが、家茂の死去から5ヶ月を経たのち、ようやく将軍宣下を受けました。
誰かが将軍職を嗣がないうちに王政復古してしまおうという具視らの目論見はアッサリ崩れ、具視が復権するチャンスは潰えました。
復権に向けて
具視の処分は天皇の勘気を蒙ってのことで、天皇に許してもらうことでしか復権はありません。かつて孝明天皇からの厚い信頼を受けていた具視は、なにかきっかけさえあれば赦免されると信じていたことでしょうが、なかなかその機会は訪れませんでした。そして、慶応2年12月25日(1867年1月30日)、孝明天皇が天然痘のため崩御しました。それによって復権が遠のいたにも関わらず、具視に孝明天皇毒殺の疑いがかけられました。そのせいか、慶応3年3月、八一八政変や禁門の変で処罰された者が赦免された際に、具視は入京を許されはしたものの復権には至りませんでした。『維新史料綱要』慶応3年3月29日の条では、
常陸太守晃親王「山階宮」及前権大納言正親町三条実愛・参議中御門経之・正三位大原重徳等「北小路随光・高野保美・穂波経度・高倉永?・櫛笥隆詔・愛宕通致・植松雅言・高野保健・園池公静・高辻修長・千種有任・長谷信成・岩倉具綱・四条隆平・西洞院信愛・西四辻公業・愛宕通旭・沢宣種・大原重朝・岩倉具定」二十四人の罪「昨年十月、列参に依り朝譴を蒙る」を宥し、また前内大臣久我建通「素堂」・前近衛権中将岩倉具視「友山」・前左近衛権少将千種有文「自観」・前中務大輔富小路敬直「敲雲」四人「皇妹和宮降嫁の事に坐す」の入京を充す。
前段の24人は「……を宥し」と、罪名が除かれているのに対し、具視ら4人は「入京を充す」でしかなかったのでした。
このとおり、孝明天皇の突然の崩御で具視の復権は遠のいているわけで、毒殺なんかするわけないんですよね。
味方を欺いて「討幕の密勅」を無効化
その後も具視はリモートワークよろしく、同志の働きで情勢を探りつつ、自身は表に出られないまま、裏面から政治活動を続けました。
このころ、長州処分と兵庫開港勅許を巡って島津久光らの四侯会議と、慶喜とが鋭く対立しましたが、慶応3年5月24日(1867年6月26日)、慶喜は兵庫開港勅許を獲得して政争に勝利しました。
これをきっかけに薩摩藩は秘密提携していた長州藩とともに倒幕を目指します。土佐藩もまた幕府の限界を悟り、大政奉還を提唱しました。
具視は大政奉還が申し入れられる前日、すなわち慶応3年10月13日(1867年11月8日)、いわゆる「討幕の密勅」と呼ばれる詔書を作成しています。
この詔書を手にした大久保一蔵らが、薩摩へ出兵を促しに行った矢先に、具視は「討幕取り消しの密勅」を作成、討幕の密勅を無効にしてしまいました。しかも、無効化されたことを本国に報せないようにしています。『岩倉公実記』の「討幕密詔ノ実行ヲ中止スル事」によれば、
此御沙汰書ヲ直ニ薩長二藩ノ本国ニ送致セシメサリシハ蓋シ二藩ノ人心ニ疑惑ヲ抱カシメンコトヲ恐ルヲ以テノ故ナリ
疑惑が生じないように「黙っていろ」ということなんですが、ますますアヤシイじゃないですか?
とはいえ、一蔵とて本国に対して「討幕は中止になっちゃいました」では済むわけがなく、連れてきた兵隊を帰すこともできません。のちに王政復古クーデターの主力となった薩摩藩兵は、具視が討幕の密勅をエサに釣り上げたものでした。こんな重大な局面で、味方を欺くようなことを平然とやってのける度胸こそ、岩倉具視の真骨頂といったところでしょう。
もっとも討幕が中止される前、薩摩藩の小松帯刀などは積極的に大政奉還を支持していましたし、討幕が中止されたあと西郷隆盛は江戸での破壊活動をしていた浪士らに「鎮静」を指示しています。このように薩摩藩はアッサリと武力倒幕路線から政治決着路線へシフトしています。
王政復古クーデター
大政奉還後、朝廷は諸藩の藩主らに上京を命じました。諸侯による「公議」を形成し、新政権樹立に向けて準備しようというわけです。しかし、全国の藩主たちは腰を上げません。幕府権力を回復させるべきだとする佐幕派の反発も大きく、公議の形成は失敗しました。
12月9日(1868年1月3日)の朝、新政権樹立を目指していた薩摩・土佐・芸州、尾張、越前(福井)の5藩は、王政復古クーデターを決行します。その前日に復権を果たした、具視の画策によることでした。
毛利敬親等の赦命既に発す、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之、岩倉具視等、内旨を奉して、将に大に更革を行はんとす、具視、旨を島津茂久、浅野茂勲、山内豊信、徳川慶勝、松平慶永に伝へて、明早朝参し、且兵を出して、禁門を厳守せしむ、是日、茂久、予め赦命の事を毛利敬親の老臣に西宮に報して、急に北上せしむ
劇的なカムバックを果たした具視は、中御門経之、中山忠能、正親町三条(嵯峨)実愛ら同志の公家とともにクーデターに参画、新政府の参与になりました。朝廷は「王政復古」を宣言、幕府=武家政権を否定したのに留まらず、平安時代から続く摂政や関白をも廃止し、天皇みずから統治した時代に「復古」するというのです。
その夜の小御所会議で、具視は慶喜を擁護する山内容堂を押しきり、慶喜に対する「辞官納地」を要求することを決めました。もはや全国政権を維持する必要はないのだから「内大臣を辞職したうえ、領地も朝廷に返納せよ」という要求が辞官納地です。
その後の慶喜の巻き返しで、新政府から徳川家に要求した辞官納地は内容を骨抜きにされ、王政復古は破綻しかけました。
鳥羽伏見の戦いと江戸開城
慶応4年1月3日(1868年1月27日)、鳥羽伏見の戦いが起きました。旧幕府の兵力は圧倒的で、とうてい京都を守り切れないと判断した具視は、かねて用意していた天皇を山陰方面に連れ去る秘密計画を披露して、動揺した公家たちを安堵させましたが、新政府軍は奇跡的な勝利を遂げ、天皇脱出は未発に終わりました。
鳥羽伏見の戦いに勝利した新政府は、慶喜に対する征討令を発し、江戸攻めを計画します。かつて和宮降嫁を推進した具視は、江戸城の大奥に残っていた和宮を救うべく、江戸無血開城を画策します。このとき、松平春嶽にお膳立てをさせながら、その成果をそっくり奪って征討大総督の熾仁親王に譲り渡すという、味方を欺くようなことをしています。ところが、甲州勝沼の戦いが起きたことで和平交渉は頓挫しました。そして、予備の交渉ルートを担った勝海舟と西郷隆盛とが江戸開城を実現させたことで、和宮の身柄は無事でした。ただし、和平交渉メインルートの徳川方を担っていた寛永寺の高僧たちは、和平交渉の頓挫を恨み、それが上野戦争の遠因となりました。
新政府の基礎固め
新政府の閣僚となった具視は、三条実美とともに、副総裁、さらに議定兼輔相となるなど新政府の中枢にあって政権の基礎を固めるとともに、宮廷改革にも力を注ぎ、公家たちの宿直制度を廃止するなどしています。
江戸開城ののち、明治天皇は旧江戸城西の丸を新皇居とします。その際、具視も供奉しましたが、明治2年、いったん明治天皇とともに京都へ戻ります。その際、病気を理由に補相を辞職しましたが、ほどなく施行された官制改革で大納言に任じられています。このとき行政を統括する右大臣には三條実美が任じられ、明治初年の二頭体制が形成されました。のち、実美は太政大臣に、具視は右大臣に据えられ、いまの内閣制度になぞらえると、三條首相と岩倉官房長官といったところでしょう。
明治3年、具視は「建国策」を示し、民政・財源・兵制・訴訟法・教育の各制度を全国一律にすることを主張しました。これが版籍奉還と廃藩置県によって実現していきます。
米欧12ヶ国訪問
明治4年、具視は不平等条約改正を目指す特命全権大使として木戸孝允,大久保利通,伊藤博文ら、多くの政府要人とともに米欧12ヵ国を訪問しました。三條実美や西郷隆盛らに留守政府をまかせ、1年10か月にわたっての外遊でした。しかし、日本の法律や諸制度は「万国公法」に準拠しておらず、いまだ非文明国と看做されたため、なんら外交上の成果を得られませんでした。ただし、具視ら洋行組は、先進諸国との格差を見せつけられたことで近代化の必要性を痛感、文明開化に拍車をかけることになったことが「成果」といえるでしょう。具視は鉄道に関心を示し、帰国後は日本鉄道会社(のち国有化)の設立に貢献しています。
征韓論争
明治6年、具視が帰朝したとき、留守政府は征韓論争で揺れていました。発端は、明治4年(1871)に朝鮮の宗主国である清国と、「対等」条約である日清修好条規を締結したことでした。清国は朝鮮を属邦と看做していたため、日本が清国と対等であるということは、朝鮮は日本より格下だという理屈になります。しかし、朝鮮からすれば日本の新政権は態度がデカイのです。かつて幕府は天皇の臣下として、清国皇帝の臣下である朝鮮と交際してきましたが、明治新政府は、生意気にも「日本は清国と対等」などと主張しているわけです。朝鮮からすると「寝言をいいやがる」という具合で、明治政府に対する反感を募らせていきました。そして、具視らが外遊していた間に征韓論争がわき起こります。留守政府は「朝鮮問題には手を付けない」ことが決まっていたにも関わらず、参議の板垣退助が居留民保護を口実に朝鮮への派兵を訴え、西郷隆盛は派兵に替えて自身が大使として交渉に向かうと主張、そこへ外遊組の木戸孝允らが具視に先んじて帰国し、「力を養ふより先なるはなし」と内治優先を唱えて征韓派と対立しました。
そんななかで具視らが帰国します。米欧各国を見て来た外遊組は、やはり内治優先を主張して征韓派と激しく争いました。太政大臣の実美は両派の板挟みとなり、ついに心労のため病に倒れます。(ワタクシが体験した虚血性心不全に病状が似通っています)
具視は、太政大臣摂行(代理)となり、天皇の裁断を得て隆盛の朝鮮派遣を中止させますが、それを不満とする隆盛、退助ら征韓派は辞表を叩き付けて政府を去りました。
立憲政体に反対
明治7年(1874年)1月14日(すでに太陽暦が採用されています)、具視は赤坂喰違坂で土佐士族の武市熊吉らに襲われました。具視は顔面と左腰に軽傷を負いながら、四ッ谷濠のなかにドボンと逃れ、一命を取り留めました。しかし、真冬に水泳をしたせいか、公務復帰までに一ヶ月を要し、その間に征韓派の江藤新平らが佐賀の乱を起こしています。
明治8年4月14日、明治天皇は「漸次に国家立憲の政体を立てる」という詔を発しました。ゆくゆくは憲法を制定し、天皇の権限さえも憲法によって規定されるということです。立憲政体は日本固有の国体(お国柄)を大きく変えてしまうとして、具視は反対していましたが止められませんでした。
ここが潮時と見たのでしょう、具視は辞表を出しました。その辞表が却下されると、病気と称して出仕しないようになり、それでも周囲から出仕を促され、やむなく出仕するようになりましたが、立憲政体には反対の立場を貫きます。おりしも不平士族らが政府の開化政策を批判していた時期のことで、かつての具視であれば、強引な政治手法で立憲体制の成立を阻止したでしょうが、動かなかったのは老いたからでしょうか。
晩年
明治10年の西南戦争を最後に士族の反乱がおさまると、明治13年頃から言論による闘争=自由民権運動が盛んになりました。この時期に至り、具視は憲法制定の必要性を悟ります。そして、イギリス式憲法を推す大隈重信と、ドイツ式憲法を推す伊藤博文とが競い合うなか、具視は君主大権を温存するドイツ式が望ましいとして、博文に憲法草案をまかせます。
明治14年、北海道開拓使官有物払下げ問題が起きた際、博文は政敵である重信を事件に結びつけて政権から排除します。その際、具視は博文側に立っていました。
明治16年、具視は癌になり、7月20日に没しました。その前日、明治天皇が見舞に訪れた際、衰弱した具視は着替えもままならず、蒲団の上に正装を広げ、かろうじて上体を起こしつつ、合掌して天皇を病室に迎えます。
天皇、具視を見て流涕し、纔かに其の状を親問したまふのみ、具視亦対へんとすれども能はず、君臣相対して語なし
宮内庁 編『明治天皇紀』第六 p86
吉川弘文館 昭和46年
天皇に旅立ちを見送られた具視は、臣下としての最高位である太政大臣を追贈され、皇族以外では初めて国葬の栄誉を受けました。
なにが起きなかったか
さて、具視に関して「なにが起きなかったか」を考えると、いくつか思いつくことがあります。まず【大政奉還】の回で述べた、「討幕の密勅」を無効にしたことです。まさに「二階に上げて梯子をはずす」ようなことを、薩摩藩を相手にやってのけました。もし無効にしていなかったら、無謀な戦争を挑んで敗北したあげく、明治維新は実現しなかったことでしょう。
つぎに【鳥羽伏見の戦い】の回で述べましたが、天皇を山陰に脱出させる時間を稼ぐため、具視が京都に残留して戦う手筈だったのが、思いも寄らぬ勝ちを拾って実現しませんでした。
もうひとつは、【江戸開城】の回で述べたとおりです。具視が描いたシナリオでは三人の宮様が主役を演じるはずが勝沼の戦いが起きてブチ壊され、予備ルートだった勝・西郷の交渉によって決着しましたが、本来のカタチでの政治決着は起きなかったのです。
おわりに
何度も味方を欺くようなことをしているだけに敵が多かった具視は、失脚して復権できなかった期間が長いです。また、すべてお見通しみたいな知能派でもなく、見込み違いも少なくなかったのですが、意志が強固で容易なことでは妥協しない姿勢は一貫しています。それでいながら自分の判断の過ちを悟って考えを改める柔軟さも認められ、ただ頑固なだけの人物でもありません。また、けして賄賂を受けとらないカタブツでもありました。
有名な『南州翁遺訓』にある、
命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり
これと、具視の人物像とが、かぶる面があります。具視は生命の危険を顧みず、悪評が立つのを厭わず、不正蓄財をせず、望めば力ずくで奪いとれただろう太政大臣の位も求めず、なかなか「始末に困る」人だったようにワタクシは思います。その点、自分の誠実さをアピールしていた隆盛は、「名を惜しんだ」人でした。腹黒さを隠そうともしなかった具視は、吹っ切れていたのでしょうね。