Culture
2021.08.06

豊臣秀吉の朝鮮行きを止めた男・浅野長政。命懸けで伝えたかったメッセージとは?

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ざわざわ。
ざわざわ。

心ではない。
繰り返すが、心がざわついているわけではない。実際に「ざわざわ」という音が聞こえるのだ。人々の囁き合う声が重なり合って、言葉そのものが消える。共鳴する声たちは単なる「音」となり、いつしか「さざ波」のように、その場に溶け込んでいく。

ただでさえ、場の雰囲気は最悪。
なぜなら、先ほど正面切って異を唱えたのが、あの「徳川家康」だったからだ。たとい殿下の仰せでも引き受け難いと、けんもほろろに言い放ったばかりである。

それなのに。
今度は、なんとあの人も。

「殿は…殿は…」
言葉尻がすうーっと消える。
そうして、彼は絶対に言ってはいけない「禁断の言葉」を口にした。

──殿は…殿は…
──野狐(のぎつね)と御心が入れ替わっているのでしょう

「弾正っ。狐と入れ替わってるとはどういうことか⁈ 」
ちなみに「殿」と名指しされたのは、コチラのお方。
今回の一件で、その判断力を疑われた、我らが太閤「豊臣秀吉」である。

月岡芳年 「大日本名将鑑」「豊臣秀吉公」 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

さても、これは一体、何事か。
そう、戸惑われた方も多いだろう。
冒頭から、緊迫の場面をご紹介したのだが。今回は、天下人である豊臣秀吉に対して「狐との入れ替わり」と大それた言葉を投げかけ、命がけの諫言を行ったコチラの一件を取り上げたい。

諫言したのは、五奉行の1人。「浅野長政(あさのながまさ)」である。

なんせ、色々と疑問が湧いて出てくるのは至極当然のコト。だって、まずは浅野長政って誰よってなるし。なんで、秀吉にそんな物言いができるのかも不明。

そして、何より気になるのは。
徳川家康、そして浅野長政らが、揃いも揃って、秀吉に「何を」反対したのか。

緊迫の場面へと再び戻る前に。
どうしてこのような出来事が起こってしまったのか。浅野長政とは誰なのか。

まずは、そこから話を進めよう。

※冒頭の画像は、歌川国芳画 「三国妖狐図会」「蘇姐巳駅堂に被魅」 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)となります
※この記事は、「浅野長政」「豊臣秀吉」「徳川家康」の表記で統一して書かれています

豊臣秀吉と浅野長政の驚くべき関係

今回の登場人物の1人である「浅野長政」。
秀吉にズケズケと物言う彼に、驚かれた方も多いだろう。

この「豊臣秀吉」と「浅野長政」。
同じ姓ではないため、2人の関係は赤の他人と思われがち。だが、彼らの関係は至ってシンプル。一言で表すなら「義兄」。より分かりやすくいえば「相婿(あいむこ)」の間柄なのだ。

「浅野家」といえば。
秀吉の正室とされる「おね(ね、ねね、北政所)」の養家である。もともと、「おね」は杉原家に生まれるも、母方の伯父で織田家家臣の「浅野長勝(ながかつ)」の養女となり、秀吉の妻となった経緯がある。

一方、浅野長政はというと。
尾張国(愛知県)にて、「安井重継(しげつぐ)」の子として生まれるのだが。母の兄である浅野長勝には男子がいなかったこともあり、長勝の養女である「やや」の婿養子として浅野家に迎えられる。のちに、その家督を相続。結果的に、秀吉と長政は、浅野家の「相婿」の関係になるというワケである。

秀吉と長政。
2人は、共に織田信長に仕える。ただ、信長の下で、その頭角を現したのは「秀吉」の方だった。そのため、当初、長政は養父の長勝と同じく、織田家の弓衆だったのだが。のちに、信長の命で「秀吉」の与力となる。こうして、長政は秀吉に属することに。

落合芳幾 「太平記英勇伝」「二十四」「朝野弥兵衛永政」 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

長政は、秀吉と共に歴戦に参加。ただ、どちらかというと。武功を上げるというよりは、次第に兵站など裏方の方で、その実力を発揮。秀吉の叔父である「小出秀政(こいでひでまさ)」が取り仕切っていた豊臣家の家政も、いつしか長政が担うことに。

秀吉の政策で有名な「太閤検地」を滞りなく進め、その成功の立役者となったのも浅野長政だ。東国の諸大名らの取次役なども任され、着実に実務官僚として名をあげていく。秀吉の晩年に整備された「五奉行」においては、その1人に抜擢。

こうしてみれば。
秀吉が天下人になる前から、彼ら2人の付き合いは長い。

だからなのか。
単なる「浅野家の婿」として共に過ごした時代があるゆえに、秀吉に遠慮がないと思えなくもない。ただ、相婿といえど、相手は既に「天下人」の地位まで昇りつめた人物。ある種の信頼関係、ビジネスでよくいわれる「心理的安全性」。コレがなければ、実際は意見するなど到底できないであろう。

加えて、今回、浅野長政が諫言した場面は、ただの「親族会」ではない。れっきとした、政治の場面。当時の日本を左右する重要な局面だった。

それなのに、である。
浅野長政は、臆することなく正々堂々と、秀吉に諫言したのである。

秀吉の愚行を指摘?浅野長政の男前な一言

さても、長らくお待たせして申し訳ない。
浅野長政がどのような人物か分かったところで。ようやく、冒頭の緊迫した場面に戻ろう。

彼らは、一体、何について揉めていたというのだろうか。

ときは、天正20(1592)年5月。
豊臣秀吉の政権にとって、いや、日朝関係にとってと、言い直した方がいいかもしれない。非常に重要な出来事が起こった年である。

じつに、その1ヵ月前。
4月より、秀吉は兵を朝鮮へと派兵した。いわゆる「朝鮮出兵(文禄・慶長の役)」である。ちなみに、「朝鮮出兵」とは。この年から慶長3(1598)年にかけて、2度にわたり明(当時の中国)征服のため朝鮮へ兵を出した侵略戦争のコト。

そして、冒頭の場面は。
戦況の報告を受けていた秀吉が、突如、こんな発言をしたことに始まる。

「このようなことでは合戦がいつ終わるかわからない。今は秀吉みずからが三十万の大軍を率いて彼国(朝鮮)へ押し渡り、(前田)利家、(蒲生)氏郷を左右の大将とし、三手にわかれて、朝鮮は言うに及ばず民までも攻め入り…(中略)…日本のことは徳川殿(家康)がおられれば安心である」
(大石学ら編『現代語訳徳川実紀 家康公伝3』より一部抜粋)

なんと、秀吉、自ら朝鮮へ渡海すると言い出したのである。

この気まぐれな秀吉の発言に対して、最初に反応したのが、コチラのお方。
徳川家康である。

月岡芳年 「本朝智仁英勇鑑」「一」「徳川内大臣家康公」 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

家康といえば。なんてたって、輝かしいあの江戸幕府を開いた男である。計算が回る古狸のコト。「朝鮮出兵など言語道断」とかなんとか。絶対に秀吉の愚行を諭してくれているはず。

期待に胸膨らませ、『徳川実紀』を読み進めると。
まさかの期待外れ。

なんと、家康が異を唱えたのは…「自らの役割」について。

どうして、自分には渡海の声がかからないのか。それも、日本でのお留守番役とは、なんたる面目のなさ。前田利家、蒲生氏郷(がもううじさと)には、渡海の声がかかったにもかかわらず、自分にはない。それがどうにもこうにも、納得できなかったようである。その不満をぶつけている部分をご紹介しよう。

「今異国で戦が起こって殿下(秀吉)が御渡海されるのに、私一人が諸将の後に残り留まり、むなしく日本を守れというのか。微勢であっても手勢を引き連れ、殿下(秀吉)の御先陣を務めたい」
(同上より一部抜粋)

ちなみに、座を回していたのは、秀吉より「関白」を譲り受けた「秀次(ひでつぐ)」。もちろん、彼は大激怒。確かに、命令に背かれたとあっては怒るのも無理はない。しかし、家康はあくまでマイペース。若い頃から、武道に関して、一度も不覚を取ったことがないのが彼の誇り。だからこそ、これだけは譲れないとの思いがあるのだろう。怒られたところで一切引かず。さらに、追撃。

「通常のことはともかくとして、弓箭の道においては後代へも残ることであるから、たとえ殿下(秀吉)の仰せであっても引き受け難い」
(同上より一部抜粋)

こう、はっきりと、言い切ったのである。

ざわざわ。
ざわざわ。

もう、場は最悪。気まずいにも程がある。一体、誰がこの事態を収拾するのかと、それぞれ顔を見ながら腹の探り合い。

そんな時に進み出てきたのが。
「浅野長政」その人である。彼の見解はというと。

「このたびの出兵に、中国や四国の若者たちは、みな彼地(朝鮮)へ渡り、殿下(秀吉)が今また、北国や奥州の人衆を召し連れて渡海されることがあれば、国内はいよいよ人が少なくなります。その隙を窺って、異国から攻められるか、または国中に一揆が起こったとして、徳川殿(家康)お一人が残られ、いったいどのようにこれを御鎮めになれましょうか」
(同上より一部抜粋)

この時点では、断然、家康よりも長政。家康は自分の武道における地位、名誉のため。一方、長政は、日本という国のため。異を唱えるにしても、非常に理路整然としており、その上、正論である。

しかし、そのあと。勢い余って、長政の持論は急展開。

「そうじて殿下(秀吉)が近頃あやしい言動をなされるのは、野狐などと御心が入れ替わっているのでしょう。…(中略)…万民も太平の世を過ごそうとしているのに、罪もない朝鮮を征討なさり、広く国財を費やし人民を苦しめなさるとは何事ですか…(中略)…ここまで、思慮のない殿下(秀吉)ではないはずです。どうして、このようになられてしまったのか。ゆえに、狐に入れ替わっているのではないかと申し上げました」
(同上より一部抜粋)

ああ。とうとう、言っちゃったよ。
天下人である秀吉に「狐と入れ替わってる」って。

歌川国芳画 「三国妖狐図会」「蘇姐巳駅堂に被魅」 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

「狐」を出されちゃあ、黙っていられないのは当たり前。この言葉に、さすがの秀次も腰刀に手をかけたとか。ただ、少し引っ掛かるのが『徳川実紀』の内容である。秀次が激怒した理由について「事の理非はともあれ、主人に無礼を働いたから」とされている。

えっ?
事の理非はともあれって。思いのほか、「秀吉の狐入れ替わり説」を、当時の人たちは支持していたとか。確かに、それほど朝鮮出兵は秀吉の愚行だったと、言えなくもない。

なお、この長政の発言で、場は騒然。
関白の秀次は腰刀に手をかけるわ、織田信長の次男である「信雄(のぶかつ)」と前田利家は押しふさがるわで、地獄絵図一歩手前。そんな当事者の浅野長政は、周囲に去れといわれても一向に席を立たず。なんなら「惜しくもない命を召されよ」とか言う始末。結局、家康が人に命じて浅野長政を次の間に連れて行き、その場を収めたという。

それにしても、男前すぎる浅野長政の発言。
相婿という特別な間柄であっても、ここまで果たして言うだろうか。そんな疑問も感じなくはない。

ただ、長政は秀吉にとって特別な人間だ。
権力を手中に収める前の「素の秀吉」を知っている数少ない人物でもある。あの人情味溢れる秀吉が、次第にモンスターへと変貌する。自らの手で少しでも止めたい。そんな思いは、大いに理解できる。

一体、何のための朝鮮出兵なのか。その目的すら曖昧なまま、異国を征討するコトなどできない。

──秀吉を止められるとすれば、自分しかいない。
この長政の思いが通じたのか。
実際に、この騒動ののち、秀吉は後悔し、渡海を思いとどまったという。

最後に。
今回の一件にて、豊臣秀吉に諫言した「徳川家康」と「浅野長政」。じつは、この2人にはある共通点がある。

なんと、その共通点とは「囲碁」。
彼らは、日頃より囲碁を打つ仲間だったとか。『徳川実紀』には、このような記述もある。

「長政は常に(家康の)寵眷(寵愛して目にかけること)が深く、君(家康)が手持ちぶさたな時には長政を呼び出して、共に囲碁をなさった。時として長政は行道を争い、無礼な挙動もあったが、君(家康)はかえって御一興であるとお思いになり、ほほえましく思われていた」(同上より一部抜粋)

家康が暇な時には、浅野長政を呼び出して囲碁を打つ。
そんなほっこりした2人の関係も、「秀吉の死」により大きな変化を迎えることに。

「家康暗殺の疑い」。まさかの浅野長政が、これに巻き込まれて蟄居(ちっきょ)。それでも、慶長5(1600)年の「関ヶ原の戦い」では、浅野長政・幸長父子は、共に家康率いる「東軍」にて参戦。その天下分け目の戦いでは、東軍が勝利。

家康が次の天下人となり、嫡男の幸長は紀伊和歌山37万石を与えられる大幅加増。浅野家もこれで安泰。長政は、そう思っただろうか。

慶長16(1611)年4月、浅野長政死去。享年65。
どのような状況であっても、「囲碁仲間」という彼らの個人的な関係は変わらなかったとか。実際に、長政の死後、家康は、あれほど大好きだった囲碁を遠ざけたという。

ふと、想像してみる。
囲碁を楽しみながら、あれやこれやと、他愛もない話で盛り上がる。ひょっとして、今回の一件である秀吉の「朝鮮出兵(文禄・慶長の役)」さえも、話題に上がったやもしれぬ。なんなら、二人して愚痴っていた可能性も。

案外、互いの諫言も、囲碁をしながら出てきたアイデアだったりして。

「いやあ、やり過ぎてしまいましたなあ」
そんな笑い声が聞こえてきそうな、昼下がり。

囲碁を打つ2人の姿が目に浮かぶのであった。

参考文献
『現代語訳徳川実紀 家康公伝3』 大石学ら編 株式会社吉川弘文館 2011年6月
『その漢、石田三成の真実』 大谷荘太郎編 朝日新聞出版 2019年6月
『豊臣家臣団の系図』 菊池浩之著 株式会社KADOKAWA 2019年11月