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2021.08.13

明治天皇と西郷隆盛。暴風雨の野外演習で「起きなかったもの」と「起こさなかったもの」とは

この記事を書いた人

はじめに

――惜しい人を死なせた。

逆賊の汚名を蒙った西郷隆盛について、明治天皇はそう思ったけれど、ハッキリいうわけにはいきません。隆盛が率いた薩軍を討ち破ったことを功績とする人々もいましたからね。天皇の発言ともなれば、影響が大きすぎます。そして、天皇の発した言葉は、滅多なことで取り消せないのです。

明治天皇の生涯を記した『明治天皇紀』に、言葉では表せない、隆盛の死を惜しむ気持ちが伝わる逸話が記されています。それは、西郷隆盛が城山の露と消えた明治10年9月24日の条に記されています。

乱平ぐの後一日、天皇、「西郷隆盛」と云ふ勅題を皇后に賜ひ、隆盛今次の過罪を論じて既往の勲功を棄つることなかれと仰せらる、皇后乃ち、

薩摩潟しつみし波の浅からぬ
はしめの違ひ末のあはれさ

と詠じて上りたまふ、皇后又嘗て侍講元田永孚に語りたまはく、近時聖上侍臣を親愛したまひ、毎夜召して御談話あり、大臣・将校を接遇したまふこと亦厚し、隆盛以下の徒をして早く此の状を知らしめば、叛乱或は起らざりしならんと、

『明治天皇紀』第四 p269

西南戦争が終結したのちのことでした。ある日、明治天皇は「西郷隆盛」という題で歌を詠むよう、皇后にお命じになりました。ただし、それは「今度のこと(西南戦争)の罪を論じて、それまでの功績を顧みないのではいけない」とのことでした。賜った勅題で詠じられたのが、上に掲げた引用中の一首でした。

皇后が、かつて侍講の元田永孚に語ったところによると、「近頃の天皇は侍臣を親愛し、夜ごとに召して談話なさいます。大臣や将校に対しても厚く遇しています。隆盛たちが早くこの状況を知っていたなら、あるいは叛乱はなかったかもしれません」とのことでした。

詩文の解釈は文学者のすることで、ワタクシは史学の方なので、ちょっとなんとも言い難いのですが、詠まれた前後の経緯から、この歌の意味するところはおのずとわかります。なんとも哀しく、やるせない逸話です。

参議・近衛都督として

隆盛は維新後の政権に加わらず、鹿児島に引っ込んでいました。明治4年4月、あらためて参議に任じられて上京しますが、家族を鹿児島に残しての単身赴任でしたから、政権に居座るつもりもなかったのでしょう。同年11月から政府要人の約半数が米欧12ヶ国の歴訪に出る間、隆盛に留守政府を預けようということです。

隆盛は参議(いまでいう閣僚)であると同時に近衛都督(近衛兵司令官)として、廃藩置県を断行、徴兵制を確立させ、宮廷を改革しました。なかでも天皇と関わりが深いのは、宮廷の改革でした。

この時期、政府は「旧来の陋習を破る」ことを口癖のように唱えていましたが、宮中の内官らは保守的な気分が抜けませんでした。三條実美や岩倉具視のような、公家社会の出身者ですらも太政官(政府中枢)の決定事項に彼らを従わせることが困難でした。ことに女官たちは「御一新」による宮廷改革に激しく抵抗しました。このころ明治天皇は満18歳で、人格は未完成でした。早い段階で生活習慣を引き締めれば、理想的な君主におなり遊ばすだろう……ということなのでしょう、明治4年8月1日(1871年9月15日)、隆盛は宮中の大改革に乗り出します。

それまで天皇の近習として仕えていたのは公家社会の出身者ばかりでしたが、薩摩から高島鞆之助と村田新八、長州から有地品之允と太田左門、越前から堤正誼、熊本から米田虎雄、土佐から高谷佐兵衛、佐賀から島義勇、旧幕臣から山岡鉄舟といった、士族から剛毅木訥な人物が選ばれて、近侍することになりました。

このとき、女官たちも大量に解雇されました。朝廷から諸大名へ、天皇の「内旨」を伝えるのは女官が作成した「女房奉書」でした。正式な勅命を伝えるものではありませんが、それでも数百年も続いてきた「天皇の思し召しを伝える」形式を踏んでいますから、女官たちにも相応の権力が生じていたので抵抗されると厄介だったでしょうけれど、電光石火の早業で抵抗する遑も与えずに罷免してしまいました。

明治5年5月には、再び女官の大量解雇がおこなわれ、それによって皇后みずからが天皇の身支度を奉仕する場面も見られるようになったとのことです。

隆盛の宮廷改革で肝心なのは、天皇の人格形成に影響を及ぼしたことでしょう。とかく深窓の下で多くの侍臣にかしずかれて育った貴人は、荒っぽいことを嫌う傾向があり、迅速果断の意気を欠いてしまいます。明治天皇の人格が完成する前に、隆盛は宮廷改革というキツイ一手を打ち、その狙いどおり明治天皇は剛健廉直の士を愛する君主となり、直言して憚るところがない山岡鉄舟に厚い信頼を置くようになりました。

勅諚によってザンギリに

明治6年3月、明治天皇は不意に断髪を仰せになり、侍従に命じて髷を落とさせ、ザンギリ頭になさいました。『明治天皇紀』では、「世伝へて二十日と為す」としているくらいで、ハッキリした日付は宮中にも伝わっていません。おそらく3月20日前後だとしかいえませんけれども……。その日も天皇は女官に髪を結わせ、白粉を塗らせて、御学問所におでましでしたが、お戻りの際にはザンギリになっておられたので女官たちが驚いたそうです。

宮廷改革で女官たちの大幅な入れ替えが断行されて間もない時期のことでした。女官のなかには、天皇や皇后の思し召しよりも旧来の習慣を優先して指示に従わない者が多くいたので、二度に及んで大量のクビ切りが断行されたのですが、そうした空気の刷新がありながら、それでも不意打ちでないと断髪が実現できなかった事情が窺えます。

断髪に際して理髪師を宮中に呼ぶことすらなしに、その場で勅諚がくだり、侍従の有地品之允に髷を絶ち切らせ、ついで侍従番長の米田虎雄と侍従の片岡利和らが、かわるがわる髪を整えたとのことです。素人がいじった頭ですからヒドイ仕上がりだったでしょうけれど、髷を切ったという既成事実が出来たので、つぎからは理髪師を呼ぶのに女官たちから抵抗されなくなったでしょう。

暴風雨のなかで夜襲を受ける

明治6年4月29日(太陽暦採用後)午前6時のことでした。明治天皇は、下総国千葉郡大和田村(現在の千葉県船橋市習志野台周辺)に近衛兵を率いて野営を伴う対抗演習におでましになりました。

軍事演習を「天覧」とか「統監」は、よくあることなんですが、そういう「見てるだけ」というハナシじゃないんです。このときは天皇みずからが1箇大隊を率い、敵に見立てた「対抗部隊」と戦うという、異例のことでした。

泊まりがけの演習では、近隣の民家なんかを借りて司令部を置くものですが、このときは玉座も天幕の中に設置するという徹底的なスパルタ式でした。演習の場は、旧幕時代には「小金牧」という幕府が管理していた野生馬の生息地の一部で、近隣の農民の出入りは認められていましたが居住は禁じられていたので、借りようにも民家はなかったでしょうけどね。

おりしも天候が悪化しつつあるなか、明治天皇は騎馬で皇居(旧江戸城西の丸)を御出発、従うのは軍人だけでなく、宮内卿徳大寺実則・宮内大輔万里小路博房ほか公家たちと、旧幕臣で当時は御用掛の岡田善長と大河内正質らを随えていました。

馬上の天皇は抜剣して「行進」の記号を示しながら、演習地まで2800人の部隊を指揮して、7里28町(およそ30.5km)の道のりを進まれました。

近衛都督たる隆盛は、もちろん行進に従っていましたが、肥満して馬に乗れないため徒歩で天皇の御乗馬の後ろについていました。演習の様子は渡辺幾治郎(故人)の『明治天皇の聖徳 軍事』から見ておきます。

かくて明治天皇は習志野に諸兵を指揮し、四月二十九日・三十日の両日は、供奉官や将校等と同様、茫々たる原野の中に幕営あそばされた。これは士卒と艱苦を分たんとの思召からであらせられた。

然るに三十日には夜半から暴風雨となり、雨水が御床下を浸し、天幕は強風雨のために倒れかゝるといふさわぎになつたが、天皇は泰然として驚きたまはなかつた。しかも、この強風雨の深夜に仮装敵軍の夜襲が行はれたので、天皇は玉枕を蹴つて蹶起させられ、忽ち風雨を物ともしたまはず、颯爽たる御英姿を降る雨中に現じたまひて、これを御覧あらせられたといふ。

渡辺幾治郎『明治天皇の聖徳 軍事』p64
千倉書房 昭和16年

いくら対抗演習とはいえ、天皇が野営している天幕に夜襲なんて、無茶なことをしたものです。しかも暴風雨に乗じての夜討ちなので、月明かりすらもないわけですよ。暗がりの中でつかみかかった相手が天皇だった……なんてことにもなりかねません。

たまたまですが、このとき天皇は眠っていなかったようです。はるかのち、明治末年になってからのことですが、御陪食(天皇とともに食事すること)を仰せ付けられた陸軍中将の渡辺章が、その席で聞いた、明治天皇のその夜の回顧談を伝えています。

其夜風雨ありて 天皇の入らせ給へる天幕は吹き倒されて畏くも 天皇には雨に打たれ給ひしも御憐み深くも部下の眠りを驚かすまじと一天万乗の御身の御親天幕を起さんとし給ふ折柄不図目を覚まして少し左後に控へたる天幕内より頭を出したるは西郷隆盛にて「其処に在すは陛下にましまさずや」と伺ひ奉りしに「如何にも朕なり天幕倒れたれば起さんとはしつるなり」と宣ふ、西郷驚きて早速起し参らせんとしたるも独りの力に及ばず「呼び起すな」と宣ふを西郷強て部下を呼起して軈て天幕を建て参らせたるも天幕内の御調度は元より玉体までも濡れさせ給ひし由御物語ありて御打笑み給ひし事あり

富岡福寿郎 大井徹翁 著『明治天皇御一代』p347-348

暴風雨のために玉座を設置した天幕が吹き倒され、大雨のなか「御親」(おんみずから)ゴソゴソと立て直そうとしていたところ、気配に気づいた隆盛が

「そちらにおわすのは陛下でしょうか?」と。

軍事演習ですから、こんな誰何(スイカ・何者であるか問うこと)じゃダメなんですが、相手が天皇である蓋然性が高いので仕方ないですかね。それで

「いかにも、朕である」

と応答があったのだから図星でした。天幕が倒れたので起こそうとしているのだ、とのことで、いまのアウトドア用品なら一人で立てられるテントがありますが、むかしながらのポールを立ててロープを張る式のテントだと、1人で立てるのは無理です。隆盛が手を貸しましたが、2人がかりでもダメだったので寝ている兵隊さんを起こそうとしたのですが、天皇は「呼び起こすな」と宣いました。そうはいっても2人だけでは埒があきません。隆盛は部下を叩き起こして天幕を立てさせました。けれども、中に置いてあったものも、天皇御自身も、ずぶ濡れだったとのことです。そういう思い出を「御打笑み給ひ」ながら回顧したのは、やはり印象に残る出来事だったのでしょう。

天幕が倒れたのは、夜襲の前だったか、あとだったか、それはわかりませんが、いずれにせよ安眠できる状況ではなかったはずです。起きていたところに夜襲があり、「天皇は玉枕を蹴つて蹶起」なさり、「颯爽たる御英姿を降る雨中に現じ」たのだろうと思われます。このとき夜襲を仕掛けた対抗部隊の指揮官は、近衛局長官の篠原国幹でした。

皇居炎上

対抗演習から数日を経た5月5日、皇居が失火によって炎上しました。当時、旧江戸城は火災で焼失した本丸が再建されないまま、明治新政府に引き渡されたので、建物が残っていた西の丸を皇居としていました。

火災の様子は『明治天皇紀』によると、

五日 皇城炎上す、昨朝来北風烈し、午前一時二十分紅葉山女官房室火あり、宿直員等、参集せる諸有司並びに出動せる近衛兵等と協力して防火に努むと雖も、強風火炎を煽りて如何ともすべからず

『明治天皇紀』第三 p61

たちまち宮殿まで延焼し、天皇が日常を過ごす「奥向」と、小所司代や御学問所代など「表向」も炎に呑まれはじめました。『明治天皇紀』の編纂に携わった渡辺幾治郎によると、

この際に於ける明治天皇の沈著なる御態度、周到なる御処置振りには、これを漏れ承はつて、驚歎せぬ者はなかつた。火勢焔々として玉坐に迫まらんとするに、毫も周章の御態なく、従容として御服を更めたまひ、皇后に対しては、避難その他の御処置に就いて、こまごまと御注意があらせられた。

渡辺幾治郎『明治天皇の聖徳 重臣』 p81

とのことで、当時20歳の青年君主だった明治天皇が、ドッシリとした落ち着きを見せています。

だが、この間にあつて、最も驚歎されたことは、西郷が嘗て献上した箪笥のことであつた。天皇はその火急の際にこれを思ひ出され、このまゝにしては焼失すると思召され、早速その御取出しの処置を侍臣に命じたまうた。このことは可なりの危険を冒かさねばならなかつた。

渡辺幾治郎『明治天皇の聖徳 重臣』 p81

火急のおりにもかかわらず、かなりの危険を冒してまで、西郷隆盛が献上した箪笥の持ち出しを命ぜられたのでした。

このとき外遊中だった岩倉具視は、後日このことを伝え聞いて「身体に粟を生じた」というほど衝撃を受け、天皇に厳しく諫言したといいます。皇居炎上は、明治4年4月に隆盛が上京して以来、2年が過ぎた頃のことでした。以後、明治21年10月7日に明治宮殿が落成するまで、赤坂離宮が仮皇居となります。

出火当時、山岡鉄舟は柏木淀橋(現在の東京都中野区中央1丁目付近か?)に居住していました。深夜のこととて、寝間着のまま皇居に駆け付けたということですが、天皇の生命に危険が及ぶ事態に即応するためには、もっと近くに住まなければなるまい、と、考えて、赤坂仮皇居に近い四谷に転居しています。

勅令ダイエット

赤坂に移られた天皇は篠原国幹を召し寄せ、宮内卿の徳大寺実則を通じ、対抗演習を実施した大和田村の原野に「習志野原」の名を賜り、以後は操練場とすることを仰せ出されました。5月13日のことです。一説に、武勇に優れた「篠原に習え」との意味を込めた命名だとされますが、確証はありません。

そのころ隆盛は体調を崩していました。

わが曾祖父の大山巌と隆盛が従兄弟なので、ワタクシと隆盛は遠縁ながら親類でありまして、おそらく遺伝的体質は似通っています。隆盛が母方の伯父にあたる椎原与右衛門に宛てた書翰には、「療医の見込も膏気増出いたし、血路を塞ぎ順環不致候故痛所も出来、若脈路を塞ぎ、脈路破候節は、即ち中風と申ものに候由」と記されていて、どうやら血管系の病気のようですね。ワタクシの場合、心臓の血管に支障が現れたのですが、隆盛は身体のあちこちの血管が詰まって痛みを生じていたとのことで、放っておけば中風(脳出血)になるという医師の見立てでした。

先日の対抗演習に際して、近衛都督たる隆盛が、馬に乗れずに徒歩で従ったというのも言語道断ですけれども、隆盛の肥満が病的であると見た天皇は、ドイツ人医師ホフマンに往診を命じました。『明治天皇紀』明治6年6月6日条によりますと、

五月初旬より陸軍大将兼参議西郷隆盛宿痾に悩めるを以て、是の日、大侍医岩佐純及び東校雇独逸国人ドクトル・テヲドール・ホフマンを其の邸に遣はして診療せしめたまふ、爾後肩・胸の痛減じ、漸次快方に向ふ

『明治天皇紀』第三 p78

快方に向かったとありますが、ホフマンの処方は、とんでもなくキビシイものでした。渡辺幾治郎の『明治天皇の聖徳 重臣』によると、

西郷は平生全身が、肥満して疾歩することが出来なかつた。明治六年五月頃、最も甚しく、遂に諸所に痛を覚えるに至つた。明治天皇は夙に彼の肥満はただの肥満ではなく、病的であらうと御案じあそばされ、時の大学医学部の内科教師独逸人ドクトル、ホフマンを差遣して、これを診療せしめたまうた。

ホフマンは通訳と一等軍医石黒忠悳(後の子爵)とを連れて浜町の薩摩屋敷に西郷を訪ねた。丁度西郷は灸を点ゑて居られたが、やがて面会すると、ホフマンは、

今日は、天皇陛下の仰せを蒙り、閣下の診察に参りました、

と述べると、西郷は

誠に有難い次第であるが、私は灸さへ点ゑてゐれば、健康で居られますから、別に先生の診察を受けるまでもないと存じますが

と断はられた。すると、ホフマンは、厳然として、

拙者は、貴国 天皇陛下の仰せを受けて診察に参つたのであるから、この使命を果さないで帰ることは出来ない。閣下が若し診察を受けぬといはれるなら、直接 天皇陛下にそのことを奏上されたい、私は閣下から御断りを聞く耳は持ちません、

と申した。西郷は、即坐に、

これは全く拙者の誤りで、何とも恐入つた次第である、真ぐ診察を受けます、

といつて診察を受けた。ホフマンは全身を検診し、服薬の方箋を与へ、養生法としては、毎日散歩する事、脂肪多き物を採らぬ事、酒を節する事、又自分で好むなら灸を点ゑても宜しい事を告げて帰つた。処方はカルルス塩を日々服用することであつたといふ。このことは、石黒子の近著『懐旧九十年』に詳述されてあるが、西郷が椎原与右衛門に宛てた書翰にも詳述されてあつた、明治六年六月六日のことであつた。

渡辺幾治郎『明治天皇の聖徳 重臣』 p82-83

先述した伯父あての書翰には「瀉薬を用ひ、一日五六度づゝもくだし候事に候」とあり、日に5回も下剤を飲んでいたとのことです。また、運動するようにいわれたので、日本橋小網町の自宅を出て、弟の西郷従道の持ち家だった「青山の極田舎」(現在の東京都渋谷区東4丁目付近か?)に移って、兎狩りを日課にしたとのことでした。一人で出来る兎狩りだから罠猟ですね。罠を仕掛けてまわり、翌日また獲物がかかっていないか見て回るのです。その姿は、まさしく上野の山にある銅像と同じです。上野の西郷さんは、帯に縄罠を挟んでいますしね。

勅命とあってはマジメにダイエットしなきゃいけませんから、きっと激痩せしたことでしょうが、そんな健康状態で征韓論争を闘っていたとは、さぞやキツかったでしょう。

隆盛、野に下る

徐々に健康を取り戻しつつあった隆盛でしたが、9月に岩倉使節団が帰国してから、征韓論争はいよいよ紛糾しました。【岩倉具視】の回で記したとおり、隆盛を使節として朝鮮に派遣することは岩倉具視によって強引に取りやめとされました。それを不満として辞表を叩き付けた隆盛でしたが、10月24日に辞表は受理され、ついで板垣退助、江藤新平ら征韓派の人々もまた政府を去りました。近衛兵も、薩摩出身者およそ100名、土佐出身者およそ40名が辞職しています。

隆盛は、天皇のお気に入りであったことはワタクシが確信するところですが、征韓論争では隆盛の意見を退けました。国策の決定に私情は持ち込まないという、青年天皇の意気を感じますけれども、それが天皇と隆盛との別離を招いたのでした。

そして、時流は非情にも隆盛に朝敵の名を負わせました。明治10年、西南戦争で薩軍の首魁として担がれた隆盛は、逆賊として鹿児島城山の露と消えました。

対抗演習で、なにが起きなかったか

容易に起きなかったのは、暴風雨で倒された天幕です。起こさなかったのは寝ていた兵隊たちですが、結局のところ叩き起こされてますね。今回、非常にオチをつけづらいネタなので、こんなダジャレで勘弁してください。

明治天皇と西郷隆盛には後日談もありますので、隆盛の没後、天皇から示された言葉によらない隆盛への哀悼の念を、このあと機会があれば御披露したいです。

書いた人

1960年東京生まれ。日本大学文理学部史学科から大学院に進むも修士までで挫折して、月給取りで生活しつつ歴史同人・日本史探偵団を立ち上げた。架空戦記作家の佐藤大輔(故人)の後押しを得て物書きに転身、歴史ライターとして現在に至る。得意分野は幕末維新史と明治史で、特に戊辰戦争には詳しい。靖国神社遊就館の平成30年特別展『靖国神社御創立百五十年展 前編 ―幕末から御創建―』のテキスト監修をつとめた。