鈴鹿サーキットは、国際的にも「難コース」として知られている。
ダイナミックなカーブと最大52mの高低差、そして立体交差。鈴鹿は途中で右回りから左回りへ変化する、世界でも珍しいサーキットでもある。ここで様々なドラマが生まれ、幾人もの名レーサーが誕生した。
鈴鹿サーキットを建設したのは本田技研工業だ。
そしてこの難コースは、本田宗一郎の哲学が存分に盛り込まれた「作品」でもある。
「鈴鹿以前」のサーキット
日本初の常設サーキットは、多摩川スピードウェイだ。
その名前を聞いて、大抵の人は「どこだそこは!?」と首を捻るだろう。1930年代に神奈川県川崎市の多摩川沿いに建設された施設で、現在は跡地として記念プレートのみが設置されている。若い頃の本田宗一郎は、自らレーシングカーに乗って多摩川スピードウェイを疾走した。
しかしこのサーキットは僅か数回の公式レースが開催されたのみで使用されなくなり、やがて忘れ去られた。ホンダを始めとする戦後の二輪メーカーは、群馬県に存在した浅間高原自動車テストコースでレースを開催するようになる。
が、この「浅間のサーキット」は未舗装だった。ここで開催されたレースは、どちらかと言えばモトクロスのそれに近いものである。雨が降ればたちまちのうちに泥濘地帯と化すため、ライダーはスタックに気をつけながら走らなければならなかった。
日本にも完全舗装のサーキットが必要だ、という声が出るのは必然の流れである。「ホンダのNo.2」として長年経営を支えた藤沢武夫は、著書にこう書いている。
たまたま、マン島レースに出た連中が帰ってきて、一杯飲もうというときに私もいっしょになった。
「どうだい、外国のレース場のようなものを日本にもつくらねえか」
といったら、レースの連中はもちろん大賛成です。鈴鹿に工場を建設したところだったので、その近くにサーキットをつくることになりました。
(『経営に終わりはない』藤沢武夫 文春文庫)
前述の浅間高原自動車テストコースは、壮絶な悪路故に日本製二輪車の足回りを強化する役割を果たした。「レースは走る研究室」という考えに照らせば、本格的なサーキットを建設することは当時の至上命題だったのだ。
安全を最重要したホンダ
サーキットにはもうひとつ、重大な役割を担っている。
それは「公道レースを撲滅する」というものだ。
アマチュアレーサーでも使用できるサーキットがあれば、わざわざ危険を冒して公道で草レースを開催する必要などなくなる。「サーキットを作れば暴走族の数は減っていく」ということは、“熱血バイク改造オヤジ”ことポップ吉村も公言していた。しかし同時に、アマチュアレーサーに向けた規則も整備しなければならない。
私は、浅間コースでやったような、あんなレースのやり方はいけない、厳重な規則にもとづいたレースをしたいと思って、日本でのアマチュア規則を決めました。このような国際規格につながる規則は、日本で初めてきめられたものです。
(同上)
サーキットは好き勝手に暴走してもよい場所ではない。走行には必ずルールが課せられる。レースの安全のためには、必要不可欠の措置だ。
ホンダが鈴鹿サーキットを建設する際、まず考慮したのは「安全」である。
レースの安全については、例えばスタート前にコースを一周して安全を確認した後、初めてレース発進となる。常に消防車や救急車が待機し、救護所には医師と看護婦が詰められている、といったような安全管理に徹して、厳格ではあったがこれはだれでも納得できることです。
(同上)
藤沢はそう書いているが、ここは敢えて鈴鹿サーキットの建設が1962年であることを考慮してみたい。この時代のモーターレースは四輪でも二輪でも、「常に消防車や救急車が待機し、救護所には医師と看護婦が詰められている」ということに殆ど関心が払われていなかった。
スコットランド出身の伝説的F1ドライバー、ジャッキー・スチュワートは1966年6月のベルギーGPで大事故を起こした。幸いにもスチュワートは骨折のみで済んだが、彼が運ばれた救護室には医師も看護師もいなかった。床には煙草の吸い殻が落ちていたという。誰かが救護室を休憩所として使っていたのだろう。ガソリンまみれのスチュワートは、その床に長時間放置された。
その日以来、スチュワートは戦いに身を投じた。モーターレースを安全な競技にするための戦いである。当時のドライバーたちの意識は「モーターレースは命懸けの男の競技。安全を求めるのなら、最初からドライバーになどなるな」というもので、スチュワートの提案する「シートベルトの義務化」と「ヘルメットの改良」は決して歓迎されなかった。モータージャーナリストたちも、これより10年前に活躍したファン・マヌエル・ファンジオのスタイル(ポロシャツとスラックスでレースに臨んでいた)を称賛し、スチュワートの意見を嘲笑した。
しかし、その間にもドライバーたちは次々と落命していく。スチュワートと同じスコットランド人のジム・クラークも、ライバルのヨッヘン・リントも、レース中の事故でこの世を去った。
スチュワートは大事故を防ぐため、事前のコースチェックも厳格に実行した。もしもどこかに不具合があれば改善を要求し、それが達成されなければボイコットする。我が町にF1がやって来ることを期待していた地元の住民からはもちろん顰蹙を買ったが、スチュワートは頑として譲らなかった。
欧米のサーキットでは、一選手がそこまでしなければならなかったのだ。
が、本田宗一郎の哲学が反映された鈴鹿サーキットは、設計当初から「安全性」が考慮されていた。「安全は利益に優先する」という考え方が、その土台となっていた。
1959年末、鈴鹿製作所の厚生施設を建設する提案会議の場で社長の本田宗一郎から発せられた言葉が、日本初の本格的なロードサーキット誕生の源となった。
当時は浅間高原で、浅間火山レースが開催されていた。このコースは、テストコースを持っていなかった二輪車メーカーが、“ユーザーに対して責任ある製品を販売する”という主旨のもとで建設された。しかし、コース建設当時の予想を上回る高速・高性能車が開発されるようになり、ライダーと観客の安全を確保するために、1959年には打ち切りとなった。
宗一郎は、「オートバイづくりというものは、呉服や家具とは違って、人命という取り換えのきかないものを預かっている」という基本思想のもと、来たるべき高速時代に対応したクルマづくりと、安全な高速走行ができるレース場をつくるのがメーカーの義務だと考えを固めていた。
田んぼを潰すな!
さらに宗一郎は、鈴鹿サーキットの建設予定地にも細かく指示を出した。
水田を避けたのだ。
建設地域としては当初、水田地帯が予定されていた。しかし、本田の、
「大切な米をつくる田んぼをつぶしてはいけない」
との指示で、山林原野を切り開いてコースが引かれることになった。
これが現代であれば、土地を買ってしまえばサーキットにしようが駐車場にしようが所有者の勝手……ということで片付く問題だ。が、それは飢饉が発生する可能性のない時代だからこその考えでもある。
「米俵の上に腰掛けたら罰が当たる」「田んぼは神聖な場所」という価値観は、飢えの恐怖を知っている昔の日本人特有のものである。米は命の源。サーキットを作るために水田を犠牲にするなど、あってはならないことだった。
宗一郎の「尊農精神」は、世界有数のエキサイティングなコースという形で具現化したのだ。
【参考】
『経営に終わりはない』藤沢武夫 文春文庫
安全運転普及本部 50年の歩み ホンダ公式サイト
語り継ぎたいこと ホンダ公式サイト
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