Culture
2021.09.14

太宰治、森鴎外も愛した名店「資生堂パーラー」人々を魅了した歴史に胸キュン♡

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銀座8丁目の交差点に建つ、ひときわ目立つ鮮やかなレンガ色のビル。資生堂パーラーが入っている、「東京銀座資生堂ビル」です。

資生堂パーラーは明治から続く歴史ある名店。多くの文化人からも愛され、文学作品の中にその名が登場することも多々あります。

化粧品メーカーのイメージが強い資生堂ですが、もともとは日本初の洋風民間調剤薬局として創業し、次いで化粧品の販売をするようになりました。その後、資生堂パーラーの前身である「ソーダファウンテン」を店舗の一角に設け、ソーダ水とアイスクリームの提供をスタートしました。

資生堂パーラーの創業経緯や店を訪れた文豪のエピソードなど、その魅力をたっぷりとご紹介します!

銀座で薬局としてスタートした資生堂

資生堂は、1872(明治5)年、日本初の民間洋風調剤薬局として、銀座の地に創業しました。創業当時の所在地は「出雲町1番地」。現在の東京銀座資生堂ビルが建つ場所です。

創業の地に建つ「東京銀座資生堂ビル」(画像提供:資生堂パーラー)
お店の佇まいからして華やか!どんな歴史があるのかな

資生堂を創業したのは、福原有信氏。医学所(江戸幕府の医学機関)で西洋薬学を学び、その後、大病院(のちの大学東校、東京大学医学部の前身)の職員や、海軍病院薬局長などを務めた人物です。

福原氏は「最新の医学や薬学にもとづき、西洋薬剤を調合する薬局を経営し、西洋のような医薬分業(※)を進めよう」と考え、海軍病院を辞めたあとに、資生堂を創業しました。

(※医薬分業:薬の処方と調剤を分業すること。医師と薬剤師、それぞれの専門家が分担して行うことで、患者に薬をより安全に使ってもらうための制度)

新しい事業でもあり、また品質にこだわり高価な薬剤をメインに取り揃えていたこともあって、創業からしばらくは事業経営がなかなかうまくいかない時期が続きますが、徐々に業績は上向いていきます。

日本初の練歯磨き「福原衛生歯磨石鹸」や、日本の薬剤史上に残る一品といわれる脚気の特効薬「脚気丸」などを販売し、経営は順調に進みました。

1897(明治30)年、資生堂は化粧品の製造をスタート。「品質最良の高級品」をモットーに、最初に製造販売した化粧品のひとつが、化粧水「オイデルミン」です。

化粧品業界への進出にあたり、メイクアップ用ではなく肌の手入れ用の商品を打ち出したのは、当時としては異色のアプローチだったそう。

衛生用品や医薬品に続き、西洋薬学の観点にもとづく肌の美しさの探求へと歩みを進めていった資生堂は、化粧品事業も拡大していきました。

調剤事業と化粧品事業が好調な中、資生堂は次の一手に出ます。それが、資生堂パーラーの前身である「ソーダファウンテン」です。

今でこそ、化粧品のメーカーがカフェを運営しているのは見かけるけど、当時は調剤薬局・化粧品事業が飲食に進出するって斬新な手法だったのでは!?

薬局内の「ソーダファウンテン」でソーダ水とアイスの提供をスタート

資生堂の創業者・福原氏は、1900(明治33)年の第5回パリ万博を視察したあとに帰りの道中で諸外国をめぐり、その際にアメリカの薬局でソーダ水やアイスクリームを販売しているのを目にします。

福原氏はそこからヒントを得て、1902(明治35)年、銀座の資生堂薬局内にソーダ水とアイスクリームの製造・販売を行う「ソーダファウンテン」を設立。日本でソーダファウンテンを設立したのは、資生堂が初めてでした。

1902(明治35)年 資生堂薬局内ソーダファウンテン(画像提供:資生堂パーラー)

ソーダファウンテンの設立にあたり、福原氏はソーダ水の製造機をはじめ、グラスやストロー、シロップ、スプーンなど細かいものまで、すべてアメリカから取り寄せました。

採算を心配する周囲からは「グラスやストローくらいは日本のものでいいのでは……?」という声も挙がりましたが、「本物」にこだわる福原氏は、その声に耳を貸しませんでした。
しかしそれが功を奏し、「薄手のグラスから西洋を感じる」と評判になったそうです。

当時の銀座は、政府主導で西洋文明を取り入れた街づくりを推進しており、東京随一のハイカラな街でした。そんな銀座の地で、細部まで本物にこだわった福原氏が手がけた「ソーダファウンテン」のアイスクリームやソーダ水は、大きな話題を呼びました。

行けないけど行ってみたい!

また、資生堂は化粧水「オイデルミン」宣伝のために、当時大人気だった資生堂パーラーのソーダ水1杯につき「オイデルミン」を景品としてプレゼントする取り組みを行いました。

当時まだ珍しかったソーダ水やアイスクリームは「ハイカラな資生堂」というイメージを強く印象づけ、化粧品事業の大きな飛躍にもつながりました。

西洋料理の提供を開始し、「ソーダファウンテン」から「パーラー」へ

ソーダファウンテンが軌道に乗ると、客から「食事も食べたい」との要望が出るようになりました。そこで、西洋料理も提供することになり、サンドウィッチなどの軽食を出すところからスタート。

その後、関東大震災で建物が倒壊。仮店舗での営業を経て、1928(昭和3)年に出雲店を「資生堂アイスクリームパーラー」と名称を改めて新装開店し、本格的な西洋料理の提供をスタートしました。現在の「資生堂パーラー」のレストランとしての歴史は、こうして始まったのです。

1928(昭和3)年開業当時の案内状(画像提供:資生堂パーラー)

新しい建物は木造の2階建てで、外壁は黄土色のタイル張りでした。建物の正面側の2階部分には直径2mほどの大きな窓があり、その左右には西洋風のバルコニーが設けられていました。

1928(昭和3)年頃 資生堂パーラー内観(画像提供:資生堂パーラー)
先程とはかなり印象が変わったな〜!

建物の内部は吹き抜けになっており、天井にはシャンデリア、入口の内脇には花売り場がありました。
1階の正面奥には、前身のソーダファウンテンを彷彿とさせる飲料カウンターと厨房があり、その上の2階部分には、オーケストラボックス(楽団が音楽を演奏する場所)があったそうです。

食事を楽しむモガ(モダンガール)たち(画像提供:資生堂パーラー)

「カリーライス(カレーライス)」に「チキンライス」、「オムレット(オムレツ)」、「ミートクロケット(コロッケ)」など、バラエティに富んだ洋食を提供していました。当時から続く伝統の味は、現在も多くのメニューに受け継がれています。

資生堂パーラーを愛した作家たち

資生堂パーラーは多くの文化人から愛されました。常連客には作家も多く、エッセイや小説の中に資生堂パーラーが登場することも多くあります。資生堂パーラーにゆかりのある作家たちと、その作品をご紹介します。

【森鴎外・森茉莉】鴎外が安心して子どもに食べさせた「アイスクリーム」

森鴎外は「舞姫」「高瀬舟」など多くの名作を世に残した明治を代表する作家で、陸軍の軍医としても活躍しました。
森茉莉は鴎外の長女で、小説家、エッセイストとして活躍した人物です。

森鴎外。1916(大正5)年、彫刻家 武石弘三郎氏のアトリエにて撮影された写真(国立国会図書館デジタルコレクションより)

鴎外は娘の茉莉を溺愛し、また茉莉も鴎外のことを大変慕っていました。森茉莉は『父の帽子』など、鴎外との思い出にまつわるエッセイを数多く残しています。

森茉莉は、エッセイ「父のこと2」で父・鴎外との思い出を語る中で、「父は銀座の資生堂のアイスクリーム以外、そこらの横丁の店ではアイスクリームはたべさせてくれなかった」と書いています。

アイスクリーム(画像提供:資生堂パーラー)

鴎外は大正時代に亡くなっているので、2人が足を運んだ「資生堂」は、建て替え後のパーラーではなく、店舗の一角に設置された「ソーダファウンテン」のことかと思います。

エッセイの中には、鴎外が娘に「そこらの横丁」のアイスを食べさせない理由は明記されてはいませんが、おそらく衛生面の理由からでしょう。

鴎外はドイツで細菌学や衛生学を学んでいたことから、かなりの潔癖症だったと言われています。鴎外の、資生堂パーラーへの信頼の高さが感じられるエピソードです。

【太宰治】婚前交際のデートに「資生堂でアイスクリイム・ソオダ」

「人間失格」「走れメロス」など、数多くの名作を残した、昭和初期を代表する作家・太宰治。

妻の他に2人の愛人がいたり、何度も自殺未遂を繰り返した末に本当に自殺してしまったりと、私生活の退廃ぶりは、それ自体がまるで物語のよう。
過去には映画化もされたほどなので、「作品を読んだことはないけれど、太宰のことは知っている」という方も多いのではないでしょうか。

太宰治。よく通っていた銀座のバー「ルパン」で撮影した一枚(国立国会図書館デジタルコレクションより)

青森出身の太宰が東京帝国大学入学のために上京したのは昭和に入ってからなので、太宰が通ったのはソーダファウンテンではなく、パーラーのほうかと思います。

太宰の作品には「資生堂(※)」の名が度々登場しますが、その中のひとつ、「正義と微笑」は、16歳の少年・芹川進の日記形式で書かれた小説です。
(※太宰の小説の中では、資生堂パーラーは「資生堂」と記載されています)

進は、結婚を間近に控えた姉が婚約者と2人で銀座へ出かけた日の日記に、「婚前交際というやつだ。二人で、いやに真面目な顔をして銀座を歩いて、資生堂でアイスクリイム・ソオダとでもいったところか」と書いています。

アイスクリームソーダ(画像提供:資生堂パーラー)

当時の銀座は恋人たちの定番デートスポットで、デートの最中に資生堂パーラーへ訪れるカップルも多かったのだとか。

母の介護と弟2人の世話のため家を離れられず、26歳でようやくお嫁に行くことになった(※昭和初期の女性の平均初婚年齢は23歳)姉のことを、進は「尊い犠牲者」と呼びました。日記には姉への感謝と愛情、結婚生活の幸福を願う気持ちを綴っています。

姉の結婚を祝福する気持ちは本心かと思いますが、「いやに真面目な顔をして」という記載から、姉が男性とデートに出かけるのに、何となく面白くないような、複雑な感情を抱いている様子が感じられます。

「正義と微笑」の他の箇所では、進と兄が2人で資生堂パーラーに行く場面が描かれています。また、資生堂パーラーが登場する太宰の他の作品内では、男女で連れ立って行くシーンもあれば、1人で食事をしに行くシーンもありますので、カップルばかりではなく、幅広い客層に利用されていたことが伺えます。

ちなみに、太宰作品の中で資生堂パーラーが登場するのは、「花燭」「二十世紀旗手」「火の鳥」「ろまん燈籠」と、確認できた限りでもこれだけありました。
小説の中で固有名詞が使われていたのは、その名が人々に広く知れ渡っていた証でしょう。「資生堂」の認知度はかなり高かったのだろう、と感じます。

【池波正太郎】美食家が愛した「チキンライス」

「鬼平犯科帳」「剣客商売」「仕掛人・藤枝梅安」といった、時代小説を数多く手がけた一方で、美食家としても有名な池波正太郎。資生堂パーラーは、浅草生まれの池波が「銀座の洋食」を初めて味わった場所でした。

チキンライス(画像提供:資生堂パーラー)

1935(昭和10)年に小学校を卒業し、株式仲買店に勤めていた池波は、丸の内の顧客先まわりをすることが多かったそう。その際、早めに用事を済ませて銀座に行き、資生堂パーラーのチキンライスや、モナミ(喫茶室/レストラン)のカレーライス、エスキーモ(喫茶店)の新橋ビュウティと称する三色アイスクリーム、といった美食にふけるのが楽しみだったのだとか。

池波が50代半ばのころに書いたグルメエッセイ集『散歩のとき何か食べたくなって』に収録されているエッセイ「銀座・資生堂パーラー」には、友人の井上に誘われて初めて資生堂パーラーを訪れた時の様子が書かれています。

一足先に資生堂パーラーを体験していた井上は、「銀座の資生堂という洋食屋に行ったら、チキンライスが銀の容器に入って出てきたんだ!」とその驚きを伝え、興味を惹かれた池波は、井上とともに資生堂パーラーへ行きました。

池波は、自身がよく通っていた浅草・上野界隈の洋食屋で食べ慣れていたポークカツを頼もうとしますが、メニューのどこにも見当たりません。ボーイに尋ねると、彼は「ポーク・カットレッツ」と書かれた箇所を指さしました。

「カツが、カットレッツかい」「こいつは、たまげたなあ」と、池波と井上が驚いている様子を、ボーイや周りの客たちが笑いながら眺めていたそうです。

ミートクロケット(画像提供:資生堂パーラー)

資生堂パーラーはほかの洋食店に比べると値段が高かったこともあり、学生の客は少なかったそう。10代の少年2人が店にやって来るのは、珍しい光景だったことでしょう。そんな中、ボーイや客たちが少年たちの新鮮な反応を笑いながら眺めている——。

その後、池波が資生堂に足繁く通うようになったことから推察するに、ここでの「笑い」は知識がないことに対する嘲笑ではなく、少年たちの素直な驚きようを微笑ましく感じて思わず笑ってしまったのでしょう。当時の資生堂パーラーの大らかな雰囲気が感じられる一節です。

池波正太郎は後年に至るまで、資生堂パーラーに通いました。
資生堂パーラーの元社長・菊川武幸さんは、接客係として勤務していた時に池波を何度も接客したことがあるそう。菊川さんはご自身の著書『東京・銀座 私の資生堂パーラー物語』の中で、池波氏はチキンライスやミートクロケットがお気に入りだった、と書いています。

今も昔も、心ときめく「資生堂パーラー」

私が以前資生堂パーラーに伺った際、店内の洗練された雰囲気やスイーツの美味しさもさることながら、スタッフの方の接客や気配りが素晴らしかったことが特に印象に残りました。

特別な対応をしていただいたわけではないのですが、席に案内する、注文を取る、食事をテーブルに並べる……といった、他のお店でも行われているひとつひとつのことが、どれも気が行き届いていて、「さすが、歴史ある名店……!」と感銘を受けたのを覚えています。

今も昔も、人々の心をときめかせる「資生堂パーラー」という存在。銀座に足を運んだ際には、ぜひ立ち寄ってみてはいかがでしょうか。

画像提供:資生堂パーラー
憧れの場所が記事を読んでもっと憧れの場所になりました!

〜参考文献・Webサイト〜

『東京・銀座 私の資生堂パーラー物語』菊川武幸
『銀座カフェー興亡史』野口孝一
『森茉莉全集・7 ドッキリチャンネルII』森茉莉
『太宰治 電子全集 日本文学名作全集電子文庫』太宰治
『散歩のとき何か食べたくなって』池波正太郎

資生堂パーラーの歴史(資生堂パーラー公式サイト)
https://parlour.shiseido.co.jp/history/index.html

平均初婚年齢の推移(内閣府)
https://www8.cao.go.jp/shoushi/shoushika/whitepaper/measures/w-2004/html_h/html/g3350000.html

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資生堂パーラー ビューティープリンセス7本セット

書いた人

浅草出身のフリーライター。街歩きや公園でのんびりするのが好きで、気が向くとふらりと散歩に出かけがち。趣味はイラスト、読書、写真、純喫茶めぐりなど。 レトロなお出かけスポットを紹介するWebマガジン「てくてくレトロ」を運営しています。

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編集長から「先入観に支配された女」というリングネームをもらうくらい頭がかっちかち。頭だけじゃなく体も硬く、一番欲しいのは柔軟性。音声コンテンツ『日本文化はロックだぜ!ベイベ』『藝大アートプラザラヂオ』担当。ポテチと噛みごたえのあるグミが好きです。