──家内(いえのうち)には、米や着類を埋るもんだ
(江戸時代前期の兵法書である『雑兵(ぞうひょう)物語』の一節から)
家内とは、家の中という意味。「埋める」となっているから、家の床下などに掘った穴を指すのだろう。つまり、家の中の穴に、米や着物を埋めているのが普通だ。だから、そんな場所を探した方がいいぞ、という意訳となる。
色々と突っ込みどころ満載の内容なのだが。
一番、気になるのは、コレって、一体、誰目線のアドバイスなのかというコト。
戦乱に巻き込まれた人々の危機管理スキルかと思いきや。じつは、一転して、その反対側。隠し場所を見破り、家財や大事なモノを奪取する者たちの目線なのである。冒頭でご紹介した一文は、「雑兵(ぞうひょう)」たちの略奪のノウハウを紹介したもの。ちなみに「雑兵」とは、身分の低い兵卒の総称である。
それにしても、奪われるのは「モノ」だけではない。「ヒト」もである。戦国時代には、従軍した兵士らによる敵地での略奪行為、いわゆる「乱取り(らんどり)」が横行していたという。
今回は、この「乱取り」がテーマ。
公然と「乱取り」を認め、人身売買まで行っていた疑惑のある「あの方」から。「乱取り」を認めたものの撤回したいがために奇策を思いついた「あの方」まで。まさか、あの戦国大名が……と驚愕するばかり。
戦国大名と「乱取り」の切っても切れない関係について。
それでは、早速、ご紹介していこう。
上杉謙信は「乱取り」肯定派なの?
じつは、さきほどの「乱取り」の略奪ノウハウには続きがある。まずは、コチラからご紹介しよう。
「──そとに埋る時は、鍋や釜におっこんで、上に土をかけべいぞ。
──その土の上に、霜の降た朝みれば、物を埋た所は、必(かならず)、霜が消るものだ。それも日数がたてば、見えないもんだと云(いう)、能々(よくよく)、心を付て、掘り出せ」
(藤木久志著『城と隠物の戦国誌』より一部抜粋)
家の外に埋めるときには、鍋や釜などに詰め、穴を掘って埋める。そして、上から土をかけることが多い。そこを探せというワケである。
さらには、屋外の隠し穴の探し方にも、アドバイスが。
寒い時期には、明け方に霜が降りることも。そんな場合には、その「霜」を見れば、隠し穴が分かるという。
掘った土は温かい。だから、隠し穴に掘った土を覆いかけていれば、その部分だけ霜が消えるというのである。ただ、日数が経てば、この事情もまた違ってくる。覆い隠すための土も冷えるため、同じように霜が降りてしまう。だから、見分けもつかなくなるのだとか。
それにしても、入念な探しように、ただただ唸るばかり。それもそのはず。従軍した「雑兵」たちは、大きな手柄で立身出世を夢見ているワケではないからだ。この「乱取り」を収入源として、生活している者が数多くいたのである。
合戦の勝敗が、ある程度決まれば。
つまり、味方の軍勢の勝利がほぼ見えれば、軍の統率者より「乱取り自由」の許可が出る。これで、兵士たちは奪いたい放題。戦場近くの村を襲撃して、農作物や家畜、家財道具、カネなど「モノ」はもちろんのこと。女性や子どもなど「ヒト」までも略奪する。略奪したモノで飢えをしのぎ、カネに変えて、生活をなんとか成り立たせていたのである。
さて、そんな「乱取り」を公認していた戦国大名の1人といわれるのが、コチラの方。「越後の龍」こと、上杉謙信である。
毘沙門天の熱烈な信仰者としても有名な上杉謙信。実直で潔癖な性格といわれ、生涯独身を通した戦国大名でもある。生涯の師は、「曹洞宗」の天室光育(てんしつこういく)禅僧。「真言宗」の総本山である高野山にも関わりがある一方で、京都の大徳寺より法号を受けていた。つまり、「臨済宗」にも帰依していたのである。
ズラッと宗派を並べてみると。
仏の教えに、とてもご執心の戦国大名だといえるだろう。ただ、そんな謙信が、意外にも「乱取り」を公認していたというのである。
根拠とされているのは、常陸国(茨城県)の寺で書かれた『別本和光院和漢合運』。その中に、問題の箇所がある。なんとも衝撃的な内容だ。
「小田開城、景虎より、御意をもって、春中、人を売買(うりかう)事、二十銭、三十二程致し候」
(『戦国の村を行く』 藤木久志著より一部抜粋)
景虎とは、上杉謙信のコト。
関東に侵攻した上杉謙信が、小田城(茨城県つくば市)を落城させたときの様子が記されているようだ。そこには、「乱取り」で略奪した「ヒト」を売り買いしている内容が見て取れる。謙信が差配しているように、見えなくもない。
ただ、一方で。
この記述は、そもそも箇条書きの内容が繋げて列挙されているだけであり、上杉謙信と人身売買は別項目。両者は関係がないという説も。
どちらにしろ、人身売買が行われていたのは事実。
ちなみに、人身売買の相場は、一般的に2貫(約30万円)~だといわれている。20銭(約3000円)であれば安すぎるため、売買というよりは、身内に人質を解放したという可能性も。事実は定かではない。
それにしても、戦乱の世では、実際に戦って命を落とす兵士たちもの運命も過酷だが。不幸にも、戦場となった場所で捕らわれた人たちの行く末も悲惨だったようだ。人身売買に巻き込まれ、海外にまで売られたという話もある。
立場はどうであれ。
生き抜くためには、相当の知恵と覚悟が必要だったに違いない。
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諏訪大明神様が激怒?武田信玄の奇策とは?
さて、ここからは、大名側からみた「乱取り」を考えてみよう。
一体、「乱取り」を許すとは、どういうコトか。
まずは、戦乱に参加した者への「報酬」となる。
そもそも、敵方の首級を取るなどの手柄を立てた者たちは、「恩賞」を受けることができる。領地や、刀や馬などの「モノ」。他にも、主君が家臣を賞賛する「感状」などだ。
ただ、これらが全員に行き渡るワケではない。何しろ、軍勢は多い。彼らが「報酬ゼロ」となるのだけは避けたいと思うもの。そこで、敵地での略奪行為を認め、それを「報酬」とするのである。
また、忘れてならないのは、自軍の士気を上げるという効果。
そういう意味でも「乱取り」は、戦国大名からすれば、何かと役立つ便利なモノなのである。
しかし、残念ながら万能ではない。落とし穴だってある。
それは、「乱取り」が好きすぎて「戦」自体に身が入らない輩の出現である。「勝ち」が見えていたにもかかわらず、結果的に、兵士が「乱取り」で疲弊。まさかの逆転を許すなんて、そんな事態だけは避けたいはず。
今回は、そんな悩みどころを、自らの奇策で解決した戦国大名をご紹介。キレッキレの頭脳で見事に問題を解決したのは、コチラの方。「甲斐の虎」こと武田信玄である。
天文11(1542)年10月。
ちょうど、この前年。武田信玄は父である「信虎」を隠居させて追放。武田家の当主の座につき、軍勢を率いている。その後、信玄は信濃国(長野県)へ侵攻を開始。その頃の話である。
武田信玄には、1つ、頭を悩ませる問題があった。
「今度は新付の諸衆をはげますために乱取りを許したが、下郎どもはもともと乱取りは大好きだから、夜も明けぬうちから走り出ていって、夢中になり、ようやく夕方になって帰ってくる。…(中略)…諸卒が陣をよそにして走り出ていて陣が空っぽだということにでもなれば、どうやって敵にあたることができよう」
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)
整理すると。
当時の信玄は、勝利確定前でありながら、士気を上げる目的で「乱取り」を許したという状況。けれど、「戦」よりも「乱取り」に熱が入り過ぎる輩が続出。既に「乱取り」によって略奪し、一定の成果を上げたにもかかわらず、である。
なかなか「乱取り」を止めない状況に、危惧の念を抱く武田信玄。
だったら、いっそのこと「乱取り」を禁止すればいいじゃない?
つい、単純にそう思ってしまうのだが。それがなかなか、簡単な話でもないのだ。
「わしが乱取り禁止の命を下したとしても、こっそり人目をかすめ、夜に紛れて出かけてしまうと、誅伐するほかはない。陣中で人を誅するということは、主将たる者のなすべきことではない」
(同上より一部抜粋)
自らが気付いて「乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)」をやめる。荒々しい行動や無法な行いを、自重することが重要なのだ。
何度もいうが、ポイントは「自らの意志」。
ゆえに、ただの禁止令ではない「奇策」が必要というワケである。
そこで、信玄が考えついたのが。
ズバリ「神のニセお告げ」byダチョウ倶楽部作戦である。
先鋒の甘利虎泰(あまりとらやす)、そして、板垣信形(のぶかた)、飯富虎昌(おぶとらまさ)の3名の家臣たち。彼らを実行役として、信玄は、ある芝居をさせることを考える。
天文11(1542)年10月21日。
2日間の乱取りを許した翌日の晩である。
甘利虎泰が、板垣信形の陣に来て、信じられないような話をする。
「今宵夢で諏訪大明神の神使だといって大山伏がきて、『このたび下郎ども(諸卒)が乱暴狼藉をしているのは、あるまじき非道である。早く止めさせよ』と怒って告げた。するとたちまち夢は覚めた」
(同上より一部抜粋)
この話に、驚いたのが、板垣信形。
「ええっ。それがしも!」
そこにやって来たのが、飯富虎昌。
「なんと、それがしも!」
同じ夢を見たコトに恐れおののく3人の武将。
早速、彼らは自陣にて「乱取り」を禁止したという。
──諏訪大明神様が怒っていなさる……
この噂は、あっという間に広がって。
3人の武将のみならず、他の武将の陣中でも「乱取り」を行う者はいなくなったのだとか。
こうして、信玄の読み通り。
軍勢全体を通して、「乱取り」は自発的に消えたのである。
最後に。
自ら手を下さない。それでいて、思い通りの結果を出す。
武田信玄とは、なんとも恐ろしい戦国武将である。
なかなか、狙ってできるコトではない。
全ては、人心を操る術に長けていたからこそ。
それにしても、1つ気になるコトが。
ダチョウ倶楽部の有名なあのコント。
次々と「俺も!」「俺も!」って手を挙げるアレ。
じつは、その原型って、この武田信玄の作戦だったのかも……。
(そんなワケないか)
恐るべし、武田信玄のセンスと、唸ったのであった。
参考文献
『名将言行録』 岡谷繁実著 講談社 2019年8月
『城と隠物の戦国誌』 藤木久志著 株式会社筑摩書房 2021年1月
『戦国の村を行く』 藤木久志著 朝日新聞出版社 2021年1月
『戦国の合戦と武将の絵辞典』 高橋信幸著 成美堂出版 2017年4月
▼漫画でわかりやすく
ドラえもんの社会科おもしろ攻略 歴史人物伝【戦国】