戦列艦、突如として浦賀にあらわる! そして琉球に居座り続けるフランス艦隊。
幕末維新クロニクル(1846年6月)
琉球に居座ったフランス艦隊への対処だけでも大わらわなのに、どてっ腹に大砲をズラリと並べた、遊園地の海賊船みたいなのがあらわれました。江戸とは目と鼻の先の浦賀にです。さあ、どうなることやら。
弘化3年
閏5月(小の月)
太陰太陽暦では19年の間に7回の閏年があります。閏年は、いずれかの月が2度になり、その一年は13ヶ月です。弘化3年は5月と6月の間に、閏5月が入りました。詳しくは、シリーズ第1回を御覧ください。
朔日(1846年6月24日)
権大納言三条実万ヲ即位伝奏ト為シ、右大弁甘露寺愛長ヲ同奉行ト為ス。
朝廷と幕府をつなぐ連絡役を務める公家を武家伝奏といいますが、即位の礼など大がかりな儀式のため、臨時に即位伝奏などが置かれる場合がありました。
弘前藩主津軽順承「越中守」参府ニ依リ、登営ス。
6日
幕府、長崎奉行ノ定員ヲ二人ニ復シ、新ニ目付平賀勝足「三五郎・後信濃守」ヲ以テ之ニ補ス。
長崎奉行は同時に複数が任命されていた時期もあり、最大時は4名の長崎奉行が同時に存在しました。ときには、江戸に連絡担当として残る長崎奉行と、長崎へ赴任する奉行とが同時に存在する場合もありました。南蛮船との貿易事務をはじめ、任務の重要さに比べると、幕府の中では軽く扱われた役職でした。
幕府、書籍印行ニ関スル取締ヲ厳ニシ、予メ草稿ヲ学問所ニ出シテ検閲ヲ受ケシム。
出版規制のために検閲するかわりに、副産物として版権保護みたいなことになったようです。このときのチェックで、パクリがバレますからね。お役所で原稿チェックのうえOKならば「官許」と記して印刷、頒布されます。
7日
琉球滞留ノ仏国通事清人某、密ニ仏・英・米三国軍艦ノ我国ニ来航スベキヲ警告ス。
琉球に滞留しているフランス艦隊に雇われた清国人通訳の某が、フランス・イギリス・アメリカの軍艦が日本に来るだろうと警告しました。
8日
和歌山藩主徳川斉順「権大納言」薨ズ。清水家主徳川斉彊「権中納言」入リテ家督ヲ承ク。
和歌山藩は紀州藩ともいって、徳川御三家の一つです。殿様の斉順(なりゆき)が亡くなったので、御三卿の清水徳川家の第5代当主の斉彊(なりかつ)が跡を継ぎました。御三卿は当主不在になっても取り潰されない特殊な御家なので、こういう場合に便利ですよね。なお、亡くなった斉順は12代将軍家慶の異母弟でした。斉順の側室が懐妊中で出産間近でしたが、その子の出生を待たずに斉順は世を去ってしまいました。
10日
仁孝天皇第八皇女、降誕。和宮ト称ス。
先月10日に「着帯の儀」を行った、典侍の橋本経子が、無事に女児を出産しました。和宮親子内親王です。みなさま御記憶とは存じますが、仁孝天皇さまは去る1月26日に崩御あそばされています。
12日
琉球中山府、書ヲ仏国提督セシーユCecilleニ復シテ、通好互市ノ請ヲ拒絶ス。尋デ、提督、艦長以下ヲ従ヘ、総理官ヲ訪フ。
琉球王国はフランスの通商要求を拒絶しましたが、おとなしく引き下がるとも思えません。総理官とは、幕府に於ける長崎奉行のような、対外交渉担当の役所のようです。
14日
鹿児島藩、曩ニ藩士倉山作太夫「久寿」ヲ琉球在番奉行ニ補シ、密ニ令シテ渡航ヲ装ハシメ、且琉球ニ於ケル警備ヲ緩メシム。既ニシテ仏国軍艦渡来ノ事アリ。作太夫ヲ仮ニ番頭ト為シ、兵ヲ率ヰテ山川港「薩摩国揖宿郡」ニ抵リ、後命ヲ俟タシム。
鹿児島藩=薩摩藩は、琉球在番奉行を交替させるべく「琉球へ渡航した」と装わせる一方で、琉球の警備を緩めさせ、新任の在番奉行は山川港で兵を率いて待機させたとのことです。うーん、いまひとつ薩摩藩の意図が見えづらく、さてどうなることでしょうか。
15日
仏国船一艘、那覇「琉球」ニ漂著、月ヲ越エテ去ル。
運天港に居座っているフランス艦隊とは別行動していた船のようです。
18日
仏国提督セシーユ、更ニ書ヲ琉球中山府ニ致シテ通好互市ヲ迫ル。
やはり、フランス艦隊は引き下がりません。手ぶらでは帰れないといわぬばかりです。
20日
鹿児島藩主島津斉興「大隅守」琉球外艦ノ状ヲ幕府ニ報ジ、警備ノ為重臣ヲ帰藩セシメンコトヲ請フ。尋デ、江戸詰家老島津石見「久浮」ヲシテ、星馳シテ藩地ニ帰リ、兵ヲ率ヰテ山川港ニ屯シ、臨機渡航セシム。
琉球は建前上「国外」なんですが、薩摩藩の殿様である島津斉興は参勤交代で江戸にいたけれども、琉球に居座ったフランス艦隊のことで気が気でないようです。江戸詰家老を急遽帰国させ、兵を授けて山川港に待機させたとのことです。星馳(せいち)は、流星のように疾走することです。
21日
琉球中山府、申ネテ書ヲ仏国提督セシーユニ致シ、其請ニ応ジ難キノ窮状ヲ訴ヘ、併セテ其留置セル国人ヲ伴ヒ去ランコトヲ請フ。
琉球王国は薩摩藩の承諾なしに「開国します」とはいえませんし、薩摩藩は幕府の内諾なしに「琉球を開国させます」とはいえませんし、幕府にしても朝廷の意向を無視できないわけでして……。「留置セル国人」とは、宣教師のフォルカードのことでしょう。
22日
鹿児島藩世子島津斉彬「修理大夫」琉球外警ノ近状ヲ前水戸藩主徳川斉昭「前権中納言」ニ告ゲ、其措置ヲ諮ル。
薩摩藩の世継ぎである島津斉彬は、文化6年3月14日(1809年4月28日)生まれです。このとき満37歳で、家督を継いでも良い頃合いでしたが世子のままでした。水戸の御隠居さまに琉球の状況を打ち明けて、どう対処すべきか意見を求めたとのことです。
24日
米国軍艦二艘、遠州沖ニ見ハレ、尋デ東航、江戸湾ニ入ル。沿海諸藩及相模・安房・上総警備ノ川越・忍二藩、急ヲ幕府ニ報ジ、警備ニ就ク。
遠州沖から江戸湾に入ってきた米国軍艦2艘のうち1艘は戦列艦といって、どてっ腹にズラリと大砲を並べているタイプです。その大船を、小舟で様子を見に行ったようですが、陸上でも緊張が増していました。
仏国提督セシーユ、新に宣教師ピエール・マリー・ル・チュルヂュPierre Marie Le Turduヲ駐メ、弘化元年以来留置セシ宣教師テオドール・オーギユスタン・フォルカードTheodore Augutin Forcadeヲ伴ヒ、運天港「琉球」ヲ去ル。
ようやく帰ってくれたのですね、運天港のフランス艦隊。交替の宣教師を置いていったとのことで、また来るつもりです。
25日
鹿児島藩主島津斉興、家老調所笑左衛門「広郷」ヲ老中阿部正弘「伊勢守・福山藩主」ノ邸ニ遣シ、琉球ノ事態国艱ヲ惹起スル虞アルニ依リ、此地ニ限リ貿易ヲ許シ、以テ患害ヲ一島ニ沮メンコトヲ説ク。明日、笑左衛門、寄合筒井政憲「紀伊守・後肥前守」ヲ訪ヒ、此事ヲ議ス。
連絡手段が人の手で運ぶ文書だけなので、江戸にいた薩摩藩の殿様は、まだフランス艦隊が引き揚げたことを知りません。藩財政を強引な手法で立て直したことで知られる調所笑左衛門を老中の阿部正弘のもとへ遣わして、「琉球に限り貿易を許してはどうか」と提案させました。それによって、列強による日本本土に対する開国を求める圧力が削がれるだろうというのです。同じことを筒井政憲(クロニクル001に登場)とも相談しています。
27日
米国東印度艦隊司令長官海軍代将ジエームス・ビッドルCommodore James Biddle、軍艦「コロンバス」Columbus「ヴィンセンズ」Vincennesヲ率ヰテ浦賀ニ来リ、書ヲ奉行大久保忠豊「因幡守」ニ致シテ通信互市ヲ求ム。
遠州沖から浦賀に戦列艦で乗り込んできたのは、ビッドル提督が率いた米国艦隊でした。浦賀奉行の大久保忠豊に「通信互市」を求めました。「通信」は通訳を常駐させる口実になり得ますし、「互市」は開港して貿易しようということですから、やはり米国商人を滞留させることを意味します。
28日
学習所「後学習院」ヲ京都建春門前ニ建設ス。
平安時代末期に大学寮が焼失して以後、長らく朝廷の教育機関は廃絶していました。仁孝天皇さまは、朝廷の教育機関を再興することを計画なさいましたが、設立前に崩御あそばされたのでした。
鹿児島藩主島津斉興、琉球外艦ニ対スル指揮ノ為、世子斉彬ヲ帰藩セシメンコトヲ請フ。是日、幕府、之ヲ聴ス。
薩摩藩は、琉球にフランス艦隊が居座っていた件で、世子の斉彬を帰国させることを願い出ていたのが、この日に幕府から許可されました。もうフランス艦隊は去って行ったのですが、連絡するのにタイムラグがありますからね。
浦賀奉行大久保忠豊、属吏ヲ米国軍艦ニ遣シ、国法ニ依リ、滞泊中兵器ヲ撤スベキヲ諭ス。提督、肯ゼズ。忠豊、不虞ヲ慮リ、特ニ警戒ヲ加ヘ、急ヲ幕府ニ報ズ。
浦賀奉行所は小役人をアメリカ軍艦に派遣して、停泊中は兵器を仕舞っておくように要求しましたが、聞き入れられませんでした。浦賀奉行所は不慮の事態に至らないよう、特に警戒を強めたとのことです。
幕府、浦賀奉行一柳直方「一太郎・後出羽守」ヲシテ急ニ任地ニ到ラシム。
江戸湾の船舶通航を監視する任務についていた浦賀奉行は、弘化元年から2人が任命されるようになっていました。長崎奉行も複数人が任命されています。業務繁多だと、複数の奉行を置くことがあるので、非常時の例外的措置ではないようです。
是月
外国船、松前・八戸二藩ノ海上ニ出没ス。
6月(大の月)
朔日(1846年7月23日)
鹿児島藩世子島津斉彬「修理大夫」帰藩ニ依リ、父斉興「大隅守」ト共ニ登営ス。大将軍徳川家慶、特ニ父子ヲ引見シ、琉球外艦ノ処置ヲ委任ス。又津藩主藤堂高猷「和泉守」・忍藩主松平忠国「下総守」・丹波亀山藩主松平信篤「後信義・紀伊守」・大野藩主土井利忠「能登守」参府ニ依リ、館林藩主秋元志朝「但馬守」・伊予吉田藩主伊達宗孝「若狭守」就封ニ依リ、各登営ス。
琉球にフランス艦隊が居座ったことに対処すべく、帰国しようという島津斉彬(薩摩藩世子)を将軍家慶が引見しました。将軍も並ならぬ関心を示しているようです。
征夷大将軍徳川家慶、平戸藩儒朝川鼎「善庵」ヲ召シ、特ニ謁ヲ賜フ。
朝川善庵は高名な儒学者で、学問上の業績により謁見の栄誉を賜ったとのことです。
2日
幕府、浦賀奉行大久保忠豊「因幡守」・同一柳直方「一太郎・後出羽守」ニ命ジテ、米国提督ノ請ヲ斥ケシム。因テ、川越藩主松平斉典「大和守」・忍藩主松平忠国ニ令シテ各警備地ニ赴カシメ、又沿海諸藩ヲシテ臨機浦賀ニ出兵セシム。
かねて「通信互市」を要求している浦賀沖のアメリカ艦隊に対し、幕府は2人の浦賀奉行たちに命じて要求を拒絶させました。そして、川越藩と忍藩の人員を警備担当地域に出張させ、沿岸部の諸藩に浦賀への出兵準備を命じました。
3日
鹿児島藩主島津斉興、外艦琉球渡来ノ状ヲ幕府ニ報ズ。
琉球から新しい情報が伝わってきたようです。でも、幕府としては浦賀のアメリカ艦隊の方が、よほど心配だったでしょう。
5日
老中阿部正弘「伊勢守・福山藩主」鹿児島藩世子島津斉彬ニ、琉球交易ハ公許シ難キモ、遠隔ノ地ニ在ルヲ以テ臨機ノ処置特ニ之ヲ一任スベキヲ告グ。尋デ、斉彬、帰藩ノ途ニ就ク。
老中の阿部正弘は「琉球での交易は、公に許可しがたいが、遠隔地ゆえ(連絡に時間がかかるので)”臨機の処置”を一任する」とのことです。実に微妙な対応ですね。なにかあっても幕府が責任を負わないようにしてますよね。場合によっては琉球のみ開国しても良いけど、幕府は責任とらないからね、というところでしょう。そして、世子の斉彬が帰国の途に就きました。
浦賀奉行大久保忠豊・同一柳直方、米国提督ビッドルニ国法ヲ諭シテ通好互市ノ請ヲ斥ク。
国法とは海禁政策のことで、「通好互市」要求を飲むことは、国法に反することになりますから、幕府としてはNoとしか言えません。
浦賀奉行大久保忠豊・同一柳直方、檄ヲ小田原藩主大久保忠愨「加賀守」・六浦藩主米倉昌寿「丹後守」・館山藩主稲葉正巳「兵部少輔」・飯野藩主保科正丕「能登守」・安房勝山藩主酒井忠嗣「越前守」ニ伝ヘ、浦賀ノ要所ヲ戍ラシム。
浦賀奉行所は、小田原藩および浦賀水道に面した諸藩に動員をかけました。浦賀の対岸にあたる房総半島の諸藩にもです。
7日
米国東印度艦隊司令長官海軍代将ジエームス・ビッドルCommodore James Biddle、浦賀ヲ去ル。警備ノ諸藩、各戍兵ヲ撤ス。
アメリカ艦隊は、案外アッサリと帰ってくれました。このとき、まだ北米西海岸のLos AngelesとSan Franciscoがメキシコ領で、アメリカは太平洋岸に港湾を持っていませんし、太平洋航路を開く意図もありませんでした。日本に望んだのは漂流者の保護や食糧・燃料の補給など、捕鯨船の活動を助けることまででした。言い換えると「薪水給与令では不足だ」ということですが、いわゆる微笑外交で済ませてくれましたね。大砲にモノをいわせることはしませんでした。
仏国印度支那艦隊司令官海軍少将セシーユLe Contre amiral Cecille、軍艦クレオパトルCleopatre・サビーヌSabine・ヴィクトリューズVictorieuseヲ率ヰテ長崎ニ来リ、書ヲ奉行井戸覚弘「対馬守」ニ致シテ薪水ヲ請ヒ、且漂流人ノ救護ヲ求ム。
琉球の運天港を去ったと思ったら、長崎に現れたフランス艦隊、薪水の補給と漂流者の保護を要求しました。建前上、琉球王国は日本とは別な国でした。だから、日本への要求は別口です。外国との交渉の窓口である長崎に来ているので、いきなり江戸湾に入ってきたアメリカ艦隊に比べれば穏当といえるでしょう。
8日
老中阿部正弘、鹿児島藩家老調所笑左衛門「広郷」ヲ招キ、琉球交易ニ関スル幕府ノ内意ヲ告ゲ、寛猛宜ヲ得テ後患ヲ貽スコト勿ラシム。藩主島津斉興、使番新納四郎右衛門「久仰」ヲ急遽帰藩セシメ、且琉球渡航ヲ命ズ。
老中は自分自身が藩主ですから家老をはじめ家来たちがいますけれど、よその藩の家来を呼び出すのは、よほどのことです。琉球問題は幕府としても重大な関心事だったのです。「後患ヲ貽ス」は、いまのコトバだと「禍根を残す」くらいの意味です。そうならないよう「うまくやれ」というのが幕府としての「内意」であります。新納久仰(ひさのり)は、戦国の名将として名高い新納忠元の次男の家系を養子として継いだ人で、なかなかの大物に琉球行きを命じています。
9日
式部大輔五条為定・少納言桑原為政ヲ学習所有識「有職」学生ト為シ、九条家士寺島俊平「天祐」・儒大沢雅五郎「敬邁」・同中沼了三「之舜」・同牧善輔「■」・同岡田六蔵「亀」ヲ学習所講師ト為ス。
(■は、車+兒、音はゲイ、訓は不明)
学習院の前身、学習所の教授陣が任命されました。ここでいう「学生=がくしょう」は、学術の専門家のことであって、教わる側の人ではありません。
仏国印度支那艦隊司令官海軍少将セシーユ、急ニ長崎ヲ去ル。
佐賀藩主鍋島斉正「肥前守」仏国軍艦長崎入津ノ報ニ依リ、佐賀ヲ発シテ之ニ赴ク。「十六日帰城」
フランス艦隊、案外あっさりと長崎から去ってしまいましたね。そうとは知らず、長崎警備に任じられていた佐賀藩では、殿様みずから長崎に赴いたとのことです。いまから行ってもスレ違うだけですけどね。長崎と佐賀は同じ肥前国ですが、それでも通信にタイムラグが生じます。
13日
広島藩主浅野斉粛「安芸守」・鯖江藩主間部詮勝「下総守」・高田藩主榊原政恒「後政愛・式部大輔」・飯山藩主本多助賢「豊後守」・大垣藩主戸田氏正「采女正」・延岡藩主内藤政義「能登守」・高遠藩主内藤頼寧「駿河守」・杵築藩主松平親良「市正」・福知山藩主朽木綱張「近江守」・上ノ山藩主松平信宝「中務少輔」・高島藩主諏訪忠誠「因幡守」・岩村藩主松平乗喬「能登守」・水口藩主加藤明軌「越中守」・湯長谷藩主内藤政民「因幡守」・与板藩主井伊直経「兵部少輔」・神戸藩主本多忠廉「伊予守」・天童藩主織田信学「兵部少輔」谷田部藩主細川興建「長門守」・奥殿藩主大給乗利「石見守」・磐城平藩世子安藤信睦「長門守」参府ニ依リ、各登営ス。
18日
幕府、宮津藩主本荘宗秀「伯耆守」・岩村藩主松平乗喬・横須賀藩主西尾忠受「隠岐守」・福知山藩主朽木綱張・山上藩主稲垣定国「安芸守」ヲ奏者番ト為ス。
幕府の奏者番は、譜代大名にとって幕閣への登竜門でした。旗本や大名が将軍に拝謁するときに姓名を確認して取り次ぐほか、将軍家や御三家の法要に代参することもありました。
松代藩主真田幸貫「信濃守」・庄内藩主酒井忠発「左衛門尉」・高取藩主植村家教「出羽守」・白河藩主阿部正備「能登守」・浜田藩主松平武成「右近将監」・岡崎藩主本多忠民「中務大輔」・宮津藩主本荘宗秀・松本藩主戸田光則「丹波守」・岸和田藩主岡部長和「内膳正」・飫肥藩主伊東祐相「修理大夫」・三春藩主秋田肥季「後憙季・安房守」・丸岡藩主有馬温純「日向守」・高槻藩主永井直輝「遠江守」・丹後田辺藩主牧野節成「河内守」・今治藩主久松定保「後勝道・若狭守」・福島藩主板倉勝顕「内膳正」・刈谷藩主土井利祐「淡路守」・美作勝山藩主三浦義次「備後守」・長島藩主増山正修「河内守」・田原藩主三宅康直「土佐守」・村松藩主堀直央「丹波守」・峰山藩主京極高景「右近将監」・須坂藩主堀直武「長門守」・七日市藩主前田利豁「丹波守」・小島藩主瀧脇信賢「丹後守」就封ニ依リ、各登営ス。
20日
皇太后新清和院「欣子内親王・光格天皇中宮」 崩ズ。寿六十八。
光格天皇の中宮だった皇太后さまが崩御なさいました。光格天皇は、孝明天皇の祖父にあたらせられます。
21日
忍藩主松平忠国、相模・安房沿海防禦不備ノ状ヲ幕府ニ具陳ス。
江戸湾警備に駆り出されていた武州忍藩から防禦の不備を指摘されました。まあ、米国の軍艦2隻が浦賀水道に入って来ちゃったんだから「不備」といわれるのも当然なんですが。
22日
円照寺宮「大機文成尼王・有栖川宮織仁親王女」 薨ズ。大将軍徳川家慶、半減ノ忌ニ服ス。
円照寺宮さまは「大儀文成」とも伝わっています。織仁親王さまの第3王女で、妹である第8王女の喬子女王が将軍家慶の正室でした。ちなみに末の妹で第12王女の吉子女王は徳川斉昭の正室で、七郎麻呂(のちの慶喜)の生母です。
老中阿部正弘、琉球外艦ノ事アルニ依リ、鹿児島藩主島津斉興ニ問フニ其沿海防備ノ状態ヲ以テス。斉興、乃チ状ヲ具シテ之ニ答フ。
老中から「琉球の沿岸はどんな防禦をしていますか」と問われて、薩摩藩の殿様は正直に答えたようです。琉球王国は幕府の権力が及ばないことになっていたはずですが、列強が食指を伸ばすとなると一蓮托生ですから、そうもいっていられないのであります。
23日
柳河藩主立花鑑備「左近将監」 卒ス「三月二十四日」 是日、従弟鑑寛「次郎・後左近将監・立花寿淑男」 封ヲ嗣グ。
幕府、山形藩主水野忠経「後忠精・金五郎・和泉守」ノ領地一部ヲ上地セシメ、長瀞藩主米津政懿「越中守」・白河藩主阿部正備・棚倉藩主松井康爵「周防守」・小見川藩主内田正道「豊後守」ニ、村替ヲ命ズ。
上地とは幕府が藩領の一部を召し上げることをいいます。村替は、領地の一部を交換することです。諸事情から幕府領や寺社領と藩領とが複雑に入り混じった地域がありました。また、数万石の小藩でも数百km離れたところに飛び領地を持っていたりしました。村替も珍しいことではありません。
28日
丁抹国測量船ガラテアGalatea、相模海上ニ仮泊ス。浦賀奉行所属吏及川越藩ノ警兵、就テ其状ヲ偵シ、近海ノ諸侯、亦之ニ備フ。
丁抹国とはデンマークです。測量船ですから水深を測ったりして、海図を作成していたことでしょう。つまりは、他の船も海図を見ながらドシドシ来るようにするぞ、ということです。
是月
伊豆韮山代官江川太郎左衛門「英龍」伊豆七島巡視ノ状ヲ幕府ニ稟ス。
伊豆七島の巡視を命じられていた江川太郎左衛門から、報告がありました。
鹿児島藩主島津斉興、英・仏船琉球渡来ノ状ヲ長崎奉行井戸覚弘・同在勤目付山口直信「内匠・後丹波守」及大坂城代松平忠優「後忠固・伊賀守・上田藩主」ニ報ズ。
江戸にいた薩摩藩の殿様から、長崎奉行や大坂城代など幕府の出先機関にまで、琉球の状況を伝えています。あるいは、フランス艦隊が長崎から去ったあとのことかもしれませんけど、通信に大きなタイムラグがありますからね。
水戸藩士高橋多一郎「愛諸」 密ニ前藩主徳川斉昭「前権中納言」ノ謹慎宥免ニ奔走ス。
謹慎処分を受けている水戸の御隠居様、なかなか活溌なので行動を慎んでいるようには思えないのですが、大っぴらに人と面会出来なかったりするので、やはり宥免して欲しいのでしょう。