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2021.11.09

東北の地に築かれた黄金郷!奥州藤原氏はなぜ滅亡したのか?3分で解説

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岩手県の平泉(ひらいずみ)は、ユネスコの世界遺産に登録されたことで有名ですよね。
その文化遺産の数々を生み出したのは、4代にわたってこの地を治めた奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)です。
2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にも登場する奥州藤原氏。源義経との関係やその活躍を、駆け足でご紹介いたします!

奥州藤原氏ってどんな人たち?

奥州藤原氏は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけて、現在の東北地方一帯を治めた一族です。
初代の藤原清衡(ふじわらのきよひら)から始まり、基衡(もとひら)、秀衡(ひでひら)、泰衡(やすひら)と4代続きましたが、鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝(みなもとのよりとも)に攻められて滅亡しました。

そんな彼らは、平泉の地に仏国土(ぶっこくど/仏の国、仏の世界)、とりわけ理想郷ともいえる浄土(じょうど)を目指し、多くの仏教建築や庭園を造営しました。

黄金都市の礎を築いた初代・清衡

清衡の父は、地方官人の藤原経清(つねきよ)。平将門(たいらのまさかど)を討伐した藤原秀郷(ひでさと)の子孫でした。
母は、陸奥国(むつのくに/現在の青森県・岩手県・宮城県・福島県・秋田県の一部に相当)内陸部で権勢を誇っていた豪族・安倍氏の出身。
そんな両親の間に清衡が生まれたのは、前九年合戦(ぜんくねんかっせん/前九年の役とも)のさなか、天喜4(1056)年とされます。

この戦いは、国司(こくし/中央から地方へ派遣された行政官)と安倍氏の間で起こったものです。
途中で国司が源頼義(よりよし)に代わり、安倍氏は敗北。安倍氏の婿養子だった経清は殺されました。

経清は戦いのさなかで頼義の怒りを買い、苦痛を与える方法で処刑されたと伝わっています。頼義は頼朝の先祖にあたります。このころから因縁は始まっていたと言えるかもしれません。※画像はColBaseより『前九年合戦絵巻』(東京国立博物館所蔵)

戦後、清衡の母は、頼義に加勢した出羽国(でわのくに/現在の山形県と秋田県に相当)の豪族・清原氏に嫁ぐことになりました。連れ子である清衡は清原姓を名乗ります。
そんな清原氏では永保3(1083)年に内紛が起こり、清衡も巻き込まれてしまいました。
このときの国司は、頼義の嫡男・源義家(よしいえ)。清衡は彼の助けを借りて、最終的に勝利をおさめました。
寛治元(1087)年まで続いたこの戦は、後三年合戦(ごさんねんかっせん/後三年の役とも)と呼ばれます。

戦いばっかりで大変だなぁ……。

覇者となった清衡は、姓を藤原に戻します。そして勢力を広げ続けて、奥州(東北地方一帯)の実質的な支配者に上りつめます。
彼は拠点を平泉に移すと、仏教都市づくりを始めます。その象徴とも言える存在が、長治2(1105)年に始まった中尊寺(ちゅうそんじ)の再興です。
平泉一帯で豊富に採れた金に加え、京から優れた技術者を呼んだこともあり、中尊寺の金色堂(こんじきどう)は当時の最高水準の建築物となりました。

奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝も、中尊寺は保護したそうですね。

他にも、清衡は数えきれないほどの堂塔(どうとう)や庭園を築きました。
平泉はもちろん、支配下にある村落のひとつひとつにも、伽藍(がらん/寺院またはその主要建物群)を建てたと言われています。

どうして彼はここまで仏教建築に力を入れたのか。それは、相次ぐ戦乱で失われた多くの命を慰め、平和な社会を作りたかったからだと言われています。

金は力なり!  2代目・基衡

70歳を超えて亡くなった清衡の跡を継いだのは、次男の基衡です。
この時代、必ずしも長男が跡を継ぐとは限りませんでした。しかし基衡の場合、長男で正当な跡取りとされていた異母兄・惟常(これつね)との争いに勝って、2代目の座におさまりました。

基衡は、清衡が築いた仏教都市をさらに発展させました。代表的なのは毛越寺(もうつじ)の建立で、これは中尊寺に匹敵する立派な建築だったそうです。

金銀が散りばめられていたそう! すごい勢力だったのがわかりますね。

毛越寺本尊の薬師如来像の制作は、京都の仏師に莫大な謝礼を支払って依頼しました。3年ほど時間はかかりましたが、立派な像が完成します。
その素晴らしさは、噂を聞きつけて見にきた鳥羽上皇(とばじょうこう)が「これほどのものを京から出してはならない」と命じるほどだったと言われています。

基衡は康治2(1143)年に赴任してきた国司・藤原基成(もとなり)との融和をはかるため、彼の娘を嫡男の秀衡に嫁がせています。ここで得た縁が、一族のさらなる発展をもたらします。

全盛期を迎えたものの圧力をかけられる3代目・秀衡

基衡の死後は、秀衡が3代目として跡を継ぎます。妻の実家の縁と財力を生かし、秀衡は中央貴族へ金や馬を献上したり寺社へ寄進したりして、自分の評価を高めました。
そして嘉応2(1170)年、秀衡は従五位下・鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん/陸奥国に置かれた軍政府の長官)に任命されます。

清衡と基衡は押領使(おうりょうし/警察・軍事を司る官職)に任官されていましたが、これはさほど高い官職ではありません。ゆえに、彼らは奥州の実質的な支配者に留まっていたのです。
だからこそ秀衡の鎮守府将軍への就任は大きく、これで名実ともに奥州の支配者と認められたのです。
さらに秀衡は、養和元(1181)年に平氏の推挙で、従五位上・陸奥の国司に任じられます。

『大日本歴史錦繪』国立国会図書館デジタルコレクションより
右上が秀衡、その隣が義経。子どもの国衡や泰衡は左端に

まさに一族の全盛期。秀衡は祖父や父と同じく都市計画を進め、無量光院(むりょうこういん)を建立しました。
無量光院は宇治の平等院鳳凰堂を模して造られ、その規模は平等院よりも少し大きかったとされます。

一方で、秀衡は平泉の平和維持に尽力します。京や他の地域で合戦があっても、中立を貫きました。
文治2(1186)年、前年に平家を滅ぼした頼朝から牽制のような書状を送られてきますが、秀衡は衝突を避けて対応しました。
頼朝は、奥州で絶大な力を持つ秀衡をかなり警戒していたようです。その後もたびたび圧力をかけてきます。

出る杭は打たれてしまうのか……。

文治3(1187)年になると、頼朝の弟である義経(よしつね)が追放されて奥州へやってきます。彼は以前にも、秀衡のもとに身を寄せたことがあったのです。
秀衡は頼朝との戦いを覚悟したのか、義経をかくまいます。ところがこの年、秀衡は病で世を去ってしまいました。

頼朝に許してもらえなかった4代目・泰衡

4代目の泰衡は、秀衡の正妻から産まれたものの次男でした。彼には、側室から生まれた国衡(くにひら)という兄がいました。
兄弟仲は険悪で、死期が迫った秀衡は跡目争いを心配します。ただでさえ鎌倉幕府との緊張が高まっているのに、内紛が起きれば頼朝に付け入る隙を与えてしまいます。
秀衡は息子たちに「義経を大将軍として仕え、奥州を守れ」と告げ、兄弟が争わないように取り計らってから亡くなりました。

『源義経』一勇斎国芳 国立国会図書館デジタルコレクションより

文治4(1188)年になると、義経の奥州潜伏が発覚してしまいます。頼朝は泰衡たちへ、義経討伐の命を何度も要請しました。
文治5(1189)年、頼朝は奥州藤原氏が義経の味方であると確信し、朝廷に奥州討伐を申し入れます。泰衡たちは「義経が見つかり次第、討ちます」といった書状を送りますが、もう相手にされません。
とうとう泰衡は義経一行を攻め、自害に追いこんでしまいます。

お父さんの遺言がぁ~!

『土佐坊昌俊義経が宿所に夜討の図』一勇斎国芳,朝桜楼国芳 国立国会図書館デジタルコレクションより

泰衡は義経の首を頼朝に送りましたが、意味がありませんでした。頼朝は既に、奥州藤原氏を滅ぼすと決意していたのです。そして頼朝は全国の武士へ奥州攻めの動員令を発し、自らも軍を率いて奥州へ向かいます。

最終的に、戦に敗れた泰衡は殺され、権勢を誇っていた奥州藤原氏は滅亡しました。こうした状況なので、泰衡が先代までのように都市づくりを行う余裕はほとんどなかったでしょう。
この戦での勝利が、頼朝の武家政権確立を後押ししました。

歴史に「もし」はないとは言え、遺言通り義経に仕えていたら、奥州藤原氏の未来は変わっていたのかな。

中尊寺金色堂には、清衡・基衡・秀衡のミイラ化した遺体と、泰衡の首級(しゅきゅう/打ち取った首)が今も安置されています。
東北の地に一大勢力を築きながらも、源氏との戦いに敗れてしまった奥州藤原氏。しかし、その栄華は今も、建造物や遺跡群から窺うことができます。

3分で読めましたか?

4代の歴史を3分で解説してみましたが、いかがでしたか? 3分で読める量ではなかった? 実は「3分で解説」シリーズ、時折「3分に時空を歪める」シリーズが紛れ込むことがあります。あなたが読み終わるまでの時間、それが「3分」なのです。

カップラーメンにお湯を入れて、記事を読んでみてください。麺が伸びていたら、それはもしかしたらもしかするかもしれません。

主な参考文献
『図説 奥州藤原氏と平泉』 高橋富雄・三浦謙一・入間田宣夫/編 河出書房新社 1993年
『奥州藤原氏 その光と影』 高橋富雄/著 吉川弘文館 2009年
『藤原秀衡 義経を大将軍として国務せしむべし』 入間田宣夫/著 ミネルヴァ書房 2016年
『平泉の文化史1 平泉を掘る』 菅野成寛/監修 及川司/編 吉川弘文館 2020年
『中世奥羽の自己認識』 入間田宣夫/著 三弥井書店 2021年

▼和樂webおすすめ書籍
中尊寺の仏教美術: 彫刻・絵画・工芸 (3) (平泉の文化史 3)

書いた人

日本文化や美術を中心に、興味があちこちにありすぎたため、何者にもなれなかった代わりに行動力だけはある。展示施設にて来館者への解説に励んだり、ゲームのシナリオを書いたりと落ち着かない動きを取るが、本人は「より大勢の人と楽しいことを共有したいだけだ」と主張する。