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2021.12.11

大隈重信ってどんな人?やったことは?エピソードを3分で解説

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大隈重信(おおくましげのぶ、1838―1922)とは、一体何をした人物なのでしょう? その人柄やエピソードは? わかりやすく3分で解説します。

日本の第8代&第17代総理大臣

大隈重信は、明治から大正期にかけて日本の財政や外交にすぐれた手腕を発揮した政治家です。

国立国会図書館デジタルコレクションより

佐賀で生まれ、84歳で没したその生涯は激動の幕末・明治維新史と軸を一つにしており、まさに波乱に次ぐ波乱。失礼ながら彼の人生を勝手にハイライトにしてみました。

大隈重信 人生のハイライト

大隈重信 1838-1922(天保9-大正11)

29歳:佐賀藩を脱藩して副島種臣とともに京都へ行き、徳川慶喜に大政奉還を迫ろうとする(捕まって佐賀に戻される)。
30歳:明治新政府で外交を担当する「参与兼外国事務局判事」に登用される。翌年結婚。
32歳:「参議」となり、大久保利通 、木戸孝允、板垣退助らとともに新政府の実権を握る立場に。
35歳:西郷隆盛の征韓論に反対。征韓派の西郷、板垣、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣は下野する。このあと、大久保とともに地租改正や殖産興業政策を推進する。
43歳:「国会開設意見書」を提出するものの、薩長勢力などに排斥され参議を辞任。「立憲改進党」を設立。
44歳:東京専門学校(のちの早稲田大学)を創立。
50歳:第1次伊藤博文内閣の外務大臣に就任。
51歳:不平等条約の改正に尽くすが、過激派に爆弾を投げつけられて負傷し、右足を切断。外務大臣を辞職。
60歳:第5回衆議院議員総選挙で、党首を務める進歩党が第1党に。板垣の自由党と合同して「憲政党」を結成し、日本初の政党内閣である第1次大隈内閣(隈板内閣 [わいはんないかく] )を組織。第8代内閣総理大臣に。党内の対立などにより4カ月で総辞職。
69歳:進歩党党首を辞して、早稲田大学総長に就任。著述や講演などの文化活動を続ける。
76歳:ふたたび政界に復帰し、第2次大隈内閣を組織。第17代内閣総理大臣に。第1次世界大戦下で軍備拡張などを行う。
78歳:侯爵に叙せられたのち、総辞職。
84歳:胆石症で死去。日比谷公園で国民葬が行われた。

30代ですでに日本の行方を左右する中心的存在であったこと、一旦は政治から身を引きつつも76歳でふたたび政界に復帰するというパワフルおじいちゃんであったことが特に目を引きます。

ちなみに、明治時代の日本人の平均寿命は43歳前後でした。

ちなみにちなみに、日本の郵便制度の父・前島密を逓信次官に最初に任命したのも大隈さんです。前島密について、詳しくはこちら!

とにかく器がでかい

大隈は自らのことをたびたび「楽天主義の人間である」と語っています。

その人柄を偲ばせるエピソードは数多く残されていますが、特に紹介したいのが、51歳の時右足の大部分を失った事に関して後に述べた彼の言葉です。

この事件は、欧米列強に対する領事裁判権(治外法権)を撤廃するのと引き換えに、裁判官に当たる「法官」に外国人を任用するという条約案に激怒した、過激派の日本人青年によるものでした。

大隈はこう言います。

国立国会図書館デジタルコレクションより

「吾輩は吾輩に爆裂弾を放りつけたやつを(中略)憎い奴とは寸毫(すんごう=ちょっと)も思わぬ。
却つて今の軟弱な青年(中略)弱虫よりは、よつぽどエライ者と思うて居る。苟(いやしく)も外務大臣なりし我輩に爆裂弾を喰わして、当時の輿論を覆さんとする其勇気は蛮勇でも、何でも、吾輩はその勇気に感服するのである」
(講演録『青年の為に』大正8年発行)

右足を失ったためにその後彼が生涯使い続けた義足は、いまも佐賀市の大隈重信記念館に保存されています。

そのような犠牲を強いた相手に対して、「憎いとは思わない」「その勇気に感服する」と言える人物が、はたして世の中にどれほどいるでしょうか。

この言葉一つをもってしても、大隈の度量の大きさ、自身の損得ではなく常に国の未来を考え続けた人物であることが伺えます。

器のデカさがハンパじゃない…

「早稲田大学? ああ“大隈さんの学校”ね」

大隈は、ペリー来航の15年前、天保9(1838)年3月11日、佐賀藩で砲術長を務めた武士・信保 (のぶやす) ・三井子 (みいこ) の長男として、肥前国佐賀会所小路(現在の佐賀市水ヶ江)に生まれました。

幼いころから藩校「弘道館」で漢学を学び、のちに「蘭学」を学びます。そして、その後長崎でアメリカ人宣教師フルベッキについて英学を学び、世界的な視野を持つ青年へと成長していったことが、明治新政府での彼の外交政策に生かされていきます。

また、20代ですでに長崎に英語学校「致遠館 (ちえんかん)」を設立し、その経営にあたっています。政治家であると同時に、近代国家としての教育政策・教育事業には生涯を通じて力を尽くしていました。

中でも早稲田大学の設置は、学問を政治から独立させ、自由の精神を養うための私学創設という彼の悲願でもありました。

国立国会図書館デジタルコレクションより

博覧強記で教育事業や外交に辣腕を振るった大隈ですが、生涯一度も海外へ渡航していません。
早稲田大学の前身である「東京専門学校」の設置に当たっては、法学者・政治家であり留学経験のある小野梓 (あずさ) に相談し、教育者・高田早苗 (さなえ)ら7人の青年の助力を得て、体制を整えていきました。

しかしこの名前は当時の人々には呼びにくかったようで、街の人々は「大隈さんの学校」と読んでいたそう。
「早稲田大学百年史」には↓↓↓のようにあります。

「明治から大正に及んでも、律義な江戸気質の遺老や、学生相手の下宿の女中までこう呼んでいた」
「先の筆頭参議として権勢並ぶ者なく、婦女幼童もその名を心得ているほど高名の設立者だったからである」

40歳半ばを過ぎたばかりの大隈重信という人物が、すでに東京の人々の間で広く認知されていたことがわかります。

字が超絶下手だった

大隈は膨大な数の著作を残していますが、「直筆」の文書がほとんど残っていません。
これは学生時代、字が上手ではなかった彼が、学友の字を見て敵わないと悟り、以来「終生筆を執らない」と決めたからだそう。著作集は、すべて周囲の人間に口述筆記させたといいます。

そんな彼の貴重な自署を見ることができます。
それが「大日本帝国憲法」の原文。彼は黒田清隆内閣の外務大臣として署名したのでした。

国立国会図書館デジタルコレクションより

「隈」のこざとへんが若干震えているように見え、なんだか緊張が伝わってきます。頑固でありながら、案外、繊細な人物だったのかもしれません。

新政府の発足から大日本帝国憲法の発布まで、詳しくこちらで詳しく解説します

大隈重信の5つ左に「陸軍大臣 大山巌」の名前が。どんな人だったか、こちらも解説
しました

「愚痴をこぼすな」「俺が衰えることはない!」

大隈は70歳の時、「我輩は何故いつまでもすべてに於て衰えぬか」と題した講演を行っています。

「普通の人はここで煩悶し愚痴をこぼすが、人間愚痴をこぼす様ではおしまいである。

失敗は世の常、煩悶するにも及ばぬ。悲観する必要もない。失敗すれば如何にしてこれを恢復(かいふく)するかという新たなる第二の希望が起るではないか。
この難関を切り抜ける気力がなくてはならぬ。而(しか)してこの問題に処して更に経験を得て行くとすれば、失敗も見方に依ては甚はなはだ有益且つ興味あるものである。

我輩は如何なる困難、如何なる障碍(しょうがい)に遭遇するも決して悲観しない。
事が困難になり複雑になればなるほど、益々大なる勇気と興味とを以て常にその解決を試みている。

我輩は自らこれを名づけて快楽主義といっている。
失敗も成功も何事も常にこの快楽的の眼を以て研究しているから未だかつて苦悶したり、愚痴をこぼしたりした事が無い。何時も愉快で何日も元気である。」
(『大隈重信演説談話集』2016年、岩波文庫)

つまり、

「愚痴をこぼしたら、そこでおしまい」
「失敗したって、それは新たな希望じゃないか」
「私は悲観しない」
「むしろ困難であればあるほど、勇気と興味が湧いてくる」
「だからいつも愉快で、いつも元気なのだ」

ということ。

これを当時の平均寿命を悠々と超えた御年70歳の「おじいちゃん」が言っているのだから、恐れ入ります。

しかも、実際にこの後再度総理大臣の座に返り咲いている。多くの若者を鼓舞し、その先頭に立って教育に力を注ぎ、そこに日本の未来を見たこの明治の偉人に、学ぶことはまだまだありそうです。

参考文献
『早稲田大学百年史』
『日本大百科全書』
『世界大百科事典』

読んでいると、彼が目の前でしゃべっているかのような感覚がして、元気になります(死してなお人々にパワーを与えている…)


大隈重信演説談話集 (岩波文庫)