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2022.03.01

江戸の二大盗賊、日本左衛門 VS 鼠小僧!盗んだ総額や荒稼ぎエピソードを紹介

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徳川家康が江戸で開府した17世紀初め、この地の人口は十数万人であったと伝えられています。

それが、あれよあれよと増加して百万人規模の大都市に。パリやロンドンすらもしのぐ、当時世界最大の都市となりました。

同時に増えたのが犯罪です。飢饉、天災、はたまた個人的な事情で困窮した地方の人が、江戸にどんどん流入。ここでもやはり行き詰ってしまうと、犯罪に手を染める人も激増。窃盗、スリ、ひったくり、強盗、放火など、あらゆる悪徳がはびこる犯罪都市でもあったのです。

地方は地方で、徒党を組んで押し込み強盗を働く盗賊が横行しました。当地の脆弱な警察力ではどうにもならず、更生した元盗賊を雇って、盗賊を撃退する村まであるほど。

見るからに悪そうな「先生」に用心棒をお願いする、映画でよく見るシーンですね!


有象無象のワルが跋扈(ばっこ)するなか、その筋ではとびぬけた才覚と蛮勇を持った者が頭角を現すのは必然のことわり。その中でも、歌舞伎やテレビドラマなどで後世に語り継がれるほどのインパクトを残した盗賊2人を、これから紹介しましょう。

犯罪のるつぼでもあった百万都市、江戸(国立国会図書館デジタルコレクション『江戸八景』より)

20代の若さで大盗賊の頭に「日本左衛門」

1人目は浜島庄兵衛(はましましょうべえ)。徳川吉宗治世下の1720年頃、尾張藩の飛脚の子として生まれました。

庄兵衛は、少年時代から体躯にすぐれ、剣術も巧みであったことから、将来を期待されました。しかし、どこで道を誤ったのか、10代で「飲む打つ買う」に邁進。二十歳になる頃、父親に勘当されますが、それで反省するでなく、身軽になったと悪行のレベルを上げます。

もうこの時点でワルのポテンシャルの高さが感じられますね……


庄兵衛には、ボスキャラとしての資質があり、若くして20人ほどの手下を従えるようになります。今の浜松市界隈の公的権力の空白地にアジトをもうけ、近隣の富農・商家で強盗を重ねます。

このときは、被害に遭った百あまりの村の人々が決起し、アジトを襲撃。庄兵衛ら一味は、今の磐田市のあたりへと逃げ延びます。

2年間おとなしくしたのち、庄兵衛らは、一説には百人とも二百人ともいわれる大きな集団を組んで活動を再開。東は伊豆、西は伊勢までを勢力圏に収めました。

いつしか庄兵衛は、日本左衞門(にっぽんざえもん)という異名で呼ばれるようになります。

歌舞伎『白波五人男』の主人公は日本左衞門がモデル(国立国会図書館デジタルコレクション『役者錦絵帖』より)

1軒の屋敷を数十人で襲撃

日本左衞門一味の強盗のスタイルは、おおむね決まっていました。狙った邸宅に押し込むときは、数十人規模で行い、各自提灯を灯して屋内を物色。それとは別に、近隣の家の前や逃走経路に見張りを何人も立たせるという念の入れようでした。

ある商家に押し込んだ時の記録が残っています。

室内で腰かけに座った日本左衞門は、手下たちに盗みの指示を下します。家の人たちは縛り上げられますが、殺傷されることはありません。

この最中、偶然にも夜回りで通りがかった同心が、怪しい気配に気づき踏み込んできました。同心が手下と刀を交えている間、日本左衞門はその戦いぶりを傍観していました。

ややあって、手の空いている手下に「殺すな。生け捕りにせよ」と命じます。

その手下は、同心を羽交い締めにして刀を奪い、家の人と同じく縛り上げました。

金目の物をあらかた盗ると、日本左衞門一行はゆうゆうと引き上げました。

この同心を別にすれば、地元の代官所には、この大盗賊を捕らえる戦力も気概もありません。それをいいことに、日本左衞門は白昼堂々と通りを闊歩していました。

しかし、この日本最大の盗賊の首領にも、運が尽きる時が訪れます。

沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、ですね。

ついに火付盗賊改方が出動

1746年、日本左衞門は掛川藩の商家を襲います。ちょうどこの日は、当主の息子が豪農の養女を妻に迎え入れた婚礼が行われ、祝宴たけなわでした。もともと富裕な家にもっとも金品が集まった夜を狙ったわけです。

奪われた金は1000両。さらに、花嫁を含め若い女性たちが凌辱されました。

当然ながら、当主の宗右衛門(そうえもん)は怒り心頭。掛川藩に訴え出ました。ところが、掛川藩はその訴えをスルー。それどころか、逆に叱責されます。というのも、以前に掛川藩は宗右衛門に対し御用金の借り入れを依頼したのですが、台所事情が厳しいと断られていたからです。なのに、1000両もの金を蓄えていたとはなにごとか、という理屈でした。

宗右衛門「それとこれとは別の話じゃん!」


宗右衛門は、花嫁の実家の主である三右衛門(さんえもん)に苦衷を打ち明けます。三右衛門は、地元の代官所に訴え出たところで無視されるどころか、おそらく日本左衞門の内通者がいて、逆襲を受けかねないと判断。

三右衛門は、江戸に上がって上訴するしかないと決意します。彼は、そのための準備として近辺の被害者を聞き取り調査します。半年後、10件余りの被害情報をもって江戸の北町奉行所へ訴え出ました。

訴状は、その日のうちに奉行所から老中へと駆け上りました。老中の堀田政亮(まさすけ)は、火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)の徳山五兵衛(とくのやまごへい)に、日本左衞門の捕縛を命じました。

火付盗賊改方とは、放火犯や盗賊といった凶悪犯専門の取り締まり機関。当時の警察組織のいわば精鋭でした。そこから与力、同心、従者の約20人が、遠江へ向け出発します。

鬼平犯科帳で見たことある名前!!!

現地で捜査したところ、日本左衞門は、宿場町の賭博場に顔を見せるとの情報をキャッチ。地元の屈強な若い衆30人の助力を得て、ここを襲撃しました。

2人の同心が表戸を叩き壊して、博打に熱中していた盗賊の不意をつきます。騒然とするなか、灯火が消され、真っ暗になりました。その刹那、薄い壁を突き破って外に逃げ出す者が1人。それには構わず、同心らは盗賊一味の11人を捕らえました。

しかし、その中には日本左衞門の姿はありません。壁を破って姿をくらましたのが、当の日本左衞門だったのです。

周囲一帯に非常線が張られましたが、その行方は杳として知れません。全国に指名手配書を配布するものの、目撃情報は皆無でした。

1000両の大金を狙ったのが仇に…

逃走の果てに自首を決意

日本左衞門はといえば、賭場から脱出するや一目散に天竜川に沿って北上。秋葉山が望めるところで、子分の万三郎の母親の手引きで三河に入りました。そこから美濃、大坂へと抜け、そこから讃岐へ渡りました。金毘羅詣での人々に紛れ込んで、仲間から逃走資金を受け取ります。そこからさらに西へ逃走を続け、宮島(厳島)に来たところで、自分の手配書を目にします。

こんな所にまで、捜査の手が及んでいるのか…

さしもの日本左衞門も、心がくずおれそうになります。さらに下関まで来て、今度はとって返して東進し、京都の東町奉行所に出頭。

拙者がお尋ね者の浜島庄兵衛にございます…

と自首しました。津々浦々に手配書が回っていては、逃げ切れないと観念しての決断でした。

日本左衞門は江戸へ護送され、そこで北町奉行所と火付盗賊改による取り調べを受けました。

1747年2月11日、「町中引廻しの上、遠州見附宿において獄門」との判決が下ります。

その日のうちに、日本左衞門ほか数名の手下は斬首され、首は遠州まで運ばれて刑場にさらされました。このとき、日本左衞門は29歳。以降、この規模を超える大盗賊団が出現することはありませんでした。

まだ20代だったんだ。

「火附盗賊改」の正体 ――幕府と盗賊の三百年戦争

狙うは用心の薄い大名屋敷のみ「鼠小僧」

1830年代のはじめの頃。江戸市中では、大名屋敷に忍び込んでは金を盗む、怪盗の噂が広まりました。

その姿が目撃されることは一切なく、人々はその者を鼠小僧と呼ぶようになりました。

鼠小僧の本名は次郎吉。1797年に生まれたとされています。父親の貞次郎は、中村勘三郎が座長を務める中村座の用心棒的な役回りをしていました。

次郎吉は10歳頃に、盆や膳を作る木具職人へ奉公に出されました。16歳になって親元へ戻り、木具職人として働き、後には鳶職人に転職します。時には大名屋敷の中へ通され、修繕なども行いました。

やがて博打にはまりこみ、経済的にいつもかつかつになると、盗みに関心が向きます。

さて、どこに忍び込んでやろうか…

裕福な商家だと、金品は蔵に厳重保管するなど難易度は非常に高く、そこは無理だと判断します。このとき、仕事で出入りしていた大名屋敷はどこも、意外と不用心なことを思い出しました。塀さえ乗り越えられれば、後は簡単。その塀も、鳶職人としての経験を生かせば、難なく攻略できそう…

1823年、次郎吉は泥棒稼業のデビューを果たします。

最初に狙ったのは、伊予松山藩の江戸藩邸。夜が更けて閉め切った門を乗り越え、女中部屋の長局(ながつぼね)へと忍び込みます。

広い屋敷の中で、長局をターゲットとしたのは、金目の物が錠もされずに保管されていること、万が一見つかっても相手は女なので逃げやすいという理由からです。

期待どおり、たんすの引き出しを開けると現金がありました。その額は5両。

それを引っつかむと、次郎吉は誰にも見咎められることもなく、また門を越えて闇に消えました。

江戸犯罪史上もっとも有名な一人盗賊、鼠小僧の誕生です。

やっぱり、盗人もちょっとした出来心から生まれるのですね…


尾上菊五郎が演じた鼠小僧の画

嘘の供述で最初の逮捕をやり過ごす

彼は、夜だけでなく、日中に忍び込むことがありました。どうやるかといえば、出入りの職人のふりをするわけです。

一例を挙げましょう。

1824年の夏の夕暮れどき、次郎吉は美濃大垣藩邸の前で門番に、新部屋(奉公人向けの大部屋)に用向きがあると告げて屋敷に入りました。新部屋には、知り合いの鳶職人がおり、夜まで博打などして過ごしました。

真夜中になって皆が寝静まると、行動開始です。折からの風雨で、音を立ててもわからないのをいいことに、土蔵破りに挑戦します。鳶部屋からノコギリを持ち出し、土蔵の戸の弱い部分を引き切って中へ。そこには戸棚があったので、これもノコギリで切るなどして金の保管場所を探り当てます。最後の関門の錠前をこわすと、金銀の山が。しめて492両を手にして逃げ帰りました。これは、総計100件を超える盗みの中で、一度に手にした最高額です。

順調に思えたのも束の間、泥棒を開業して2年で次郎吉は逮捕されます。1825年2月、常陸土浦藩主土屋相模守の屋敷の通用門から入って隠れていたのが見つかり、逃げ切れず南町奉行所の同心に捕まりました。

この時点で、28か所もの屋敷に盗みに入り、総額で約750両の金をせしめていました。しかし、そんなことはおくびにも出さず、嘘の供述をします。

これまで一度も盗みをしておりません。初めて土屋相模守様のお屋敷に忍び込みましたが、何も取らぬうちにお縄にかかってしまいました。もっとも、これまで江戸市外で野田(路上)賭博を数度いたしたことがあります。(『江戸の盗賊』より)

奉行所は、供述を信じ込みました。過去の行状が露見すれば死罪は確実ですが、入れ墨のうえ中追放の刑で済んだのです。

「中追放」とは、江戸十里四方外への追放を意味しました。次郎吉は、おとなしくそれに従って大坂へ行きますが、次郎兵衛と変名して舞い戻ります。そして、盗みを再開しました。

今回の逮捕で、何か信条が変わったわけでなく、盗みの対象は大名屋敷に限り、金銀は盗っても物品は盗りませんでした。高価なかんざしといった装身具には目もくれず、ひたすら現金主義だったのは、物品だと古物商に卸した際に足がつくことを恐れてのことでした。

100件以上の盗みを重ねても、次郎吉が捕まらない大きな理由は、被害に遭った側は誰一人として届け出を出さなかったからです。盗難を届ければ、用心がなってないと叱責を受ける恐れがありました。それでも、噂というかたちで尾ひれをつけながら、鼠小僧の活動は市中に知られていきました。

届け出を出せないような家を狙っていたのか!


しかし、足かけ10年に及んだ盗人(ぬすっと)稼業にも、年貢の納め時がやってきます。

あっけない幕切れ

1832年5月、上野小幡藩の上屋敷でのことです。藩主の松平忠恵(ただしげ)が、不審な物音を聞き、さては盗人かと家来に警戒を命じます。提灯を手にした家来たちが、屋敷を取り囲んだところ、庭に飛び降りた者がいます。たちまち取り押さえられました。

邸内での逮捕だと取り調べの際に面倒があるので、いったん門外に出し、そこで奉行所の同心に捕らえさせました。

その時点では、この男がよもや鼠小僧とは思われず、名も無いコソ泥とみなされました。

しかし、よくよく調べると、このさえない風貌の小柄な男が、世に名高い鼠小僧と判明。次郎吉は、まるで手柄を自慢するかのように、これまでの盗みの数々を自供しました。あまりに件数が多く、調書をとるのに3ヵ月要しましたが、判決は当然ながら「引き廻しのうえ獄門」。同年の8月19日、36歳の鼠小僧次郎吉は、刑場の露と消えました。

3ヶ月も!! DON☆DAKE〜!!


日本左衞門こと浜島庄兵衛と、鼠小僧こと次郎吉。かたや大盗賊のボスで、かたや単独行動する盗人という大きな違いはあれど、この2人は江戸時代における盗みのプロの両雄であることは間違いないでしょう。当時の庶民にとって彼らは、富豪や大名に対する日頃のうっぷんを晴らしてくれる、ある種の「義賊」でもありました。そのため、浜島庄兵衛は、歌舞伎『白浪五人男』のリーダーの日本駄右衛(にっぽんだえもん)として、次郎吉は『鼠小紋東君新形』(ねずみこもんはるのしんがた)の稲葉幸蔵としてよみがえるのです。

最後に、少々蛇足めいた話になりますが、2人が短い人生の間に、盗人稼業でどれほど荒稼ぎしたのか、みてみましょう。

日本左衞門の盗んだ金額として記録にあるのは、三右衛門が江戸上訴の材料として調べ上げた13件の報告です。一番高額の被害は1000両というのが2件。最少額で1両2歩です。ほかに衣類など物品の被害がありますが、ここは現金のみで考えると総額2222両。

一方の鼠小僧次郎吉は、10年近くの間に100軒あまりに侵入しての盗んだ総額は約3000両といったところ。

簡単には計算できませんが、米価を基準にすると江戸中期で1両6万円ほどだったようなので、ざっくり1億8000万円!!


質素を旨とすれば、1両で1か月暮らせましたから、なかなかの稼ぎぶりに見えます。ですが、日本左衞門は、大勢の手下に分け前を配分する必要がありました。鼠小僧次郎吉は、手にした金はあらかた博打に使い果たしてしまいました。となると、有意義に使える金は、いつも手元にないという状態だったのではと推測されます。常に追われる身で、神経をすり減らす日々であることを考え併せると、盗人稼業はわりに合わない仕事だとわかりますね。

主要参考文献

『江戸の盗賊』(丹野 顯著/青春出版社)
『甲子夜話 [正]1』(松浦静山著/平凡社)
『殿様と鼠小僧』(氏家幹人著/講談社)
『「火附盗賊改」の正体―幕府と盗賊の三百年戦争』(丹野顯著/集英社)
『古文書に見る江戸犯罪考』(氏家幹人/祥伝社)

▼参考文献はこちら
古文書に見る江戸犯罪考

書いた人

フリーライター。北国に生まれるも、日本の古くからの文化への関心が抑えきれず、2019年に京都へ移転。趣味は絶景名所探訪と美術館・博物館めぐり。仕事の合間に、おうちにいながら神社仏閣の散策ができるYouTube動画を制作・配信中→Mystical Places in Japan