『源氏物語』には「斎王(さいおう)」という女性が2人登場します。斎王とは、プレイボーイで鳴らした光源氏でさえも迂闊に手が出せない聖なる存在!
『伊勢物語』などの平安文学にも出てきますが、なかなか聞き慣れない言葉ですよね。そのため「物語の中にだけ出てくる架空の設定なんでしょ?」と思う方がいるかもしれません。いえいえ。斎王は実在したんです。若く未婚の皇女が親元を離れ遠く伊勢の地で、あるいは都の郊外で、いつ終わるとも知れない任期まで日々神に仕えていたのです。
斎王とは? 恋愛はご法度だった?
仕える神社で呼び名が違う?
斎王とは、伊勢の伊勢神宮または京都の賀茂神社に奉仕する天皇の未婚の娘(皇女や内親王)や、玄孫までの女王(にょおう)のこと。2つの神社に仕える聖なる存在で、伊勢神宮は斎宮、賀茂神社は斎院と呼び分けます。神に奉仕する聖なる皇女として過ごす間、恋愛はご法度です。
斎王を派遣することになったきっかけは、どちらも皇女の父親による「戦勝祈願」でした。斎宮は壬申の乱の際に、斎院は薬子の変時に、それぞれの父親が「この戦いに勝ったら娘を奉仕させる」と神に誓い、見事勝利を収めたのです。終焉を迎えた主な理由もほぼ同じで、どちらも国の政治が武家に移ったことや、朝廷の財政が苦しくなったからなんですよ。
斎王の任期は?
斎王は、ウミガメの甲羅を用いた卜定(ぼくじょう)占いで決められました。斎王に選ばれると、それからは俗世間と離れ身を清める潔斎に入ります。卜定で選ばれてから斎王が退下(任務を解かれ都へ戻ること)するまでの期間ですが、それはまさに神のみぞ知る。
というのは任務が解けるのは、基本的に譲位、今上帝の崩御、父母や兄弟の喪だったから。またあるいは斎王自身が亡くなったり、病気で斎王としての務めができなかったりする場合に限られていました。
『源氏物語』の斎宮は、六条御息所のひとり娘
伊勢の斎宮は、潔斎後に天皇との別れの儀式「発遣の儀」を経て伊勢へと旅立ちます。伊勢での住居は斎宮と呼ばれる宮殿で、伊勢神宮とは10キロ以上離れていました。
平安時代中期の法典『延喜式』によると、初斎院で3年間潔斎をし、禊後に野宮の斎院入りとなっていますが、実際には卜定から数えて3年目の頃に斎院入りしていたそう。
京都郊外・嵯峨野にある野宮神社は、どの斎院のものか不明ですが、この野宮跡地に建てられたと云われています。今でも野宮神社周辺はひっそりとしていますよね。夜ともなると、さらにひっそり。平安時代には、もっともっと寂しく静かな場所だったんだろうなあ。
紫式部が書いた平安時代の長編小説『源氏物語』で伊勢の斎宮に選ばれたのは、桐壺帝の弟で今は亡き東宮と、六条御息所(ろくじょうの みやすどころ / ろくじょうの みやすんどころ)との間に生まれた一人娘です。身分的には内親王(皇女)ではなくて女王ですが、イトコにあたる朱雀帝の即位にともない斎宮に選ばれました。
『源氏物語』の斎院は、朝顔(槿)の姫君
賀茂の斎院は潔斎場所がそのまま本院(斎院の住居)となるので、その地に留まり賀茂神社へ奉仕します。
『源氏物語』で賀茂の斎院に選ばれたのは、桃園式部卿の宮の娘です。彼女は通称「朝顔(槿)の姫君」と呼ばれ、光源氏の求愛を拒み通す稀有な存在でした。
どれくらい拒んでいたか詳しくはこちらをどうぞ▼
あの光源氏にも落とせない女性がいた!『源氏物語』唯一、プラトニックラブの行方
朝顔の姫君の父親は、斎宮の女御の父親と同じく桐壺帝の弟です。彼女の前の斎院は、桐壺帝と弘徽殿の女御との間に生まれた女三の宮でした。女三の宮は桐壺帝の崩御により斎院の任が解けたため都へ戻り、彼女と入れ替わる形で新しい斎院として朝顔の姫君が選ばれたのです。
斎王の禁断の恋愛事情
任期中の斎王たちの恋愛事情はというと、神に仕える身のため、当然のことながら恋愛禁止でした。ただ実際には、結婚直前に斎王へ決まってしまったり、斎王の姿を見たりした男性から猛アタックを受けてしまう例はありました。
結婚直前に斎王へ決まった雅子(まさこ)内親王の場合
それは平安時代中頃のこと、醍醐天皇の第10皇女・雅子内親王は22歳で斎宮に決まりました。斎宮に決まる=未婚だということ。当時の女性は10代前半で結婚することが多かったので、22歳まで独身だというと少し遅いように感じますよね。
しかし内親王は基本的に結婚せずに生涯独身で過ごすため、なんら不思議はありませんでした。もし結婚するとしたら相手は皇族で、降嫁(臣下へ嫁ぐこと)は稀だったんです。
そのような時代に、雅子内親王は臣下にあたる藤原敦忠のもとへ降嫁予定でした。ところが降嫁寸前のところで、卜定により斎宮に選ばれてしまったのです。斎宮に選ばれた雅子内親王は即、潔斎に入り、ルール通りに伊勢へと向かいました。斎王がいつ退下するのかは、誰にも分かりません。
もう少し結婚するのが早かったら……。
敦忠は自分の行動力のなさに、後悔したことでしょう。雅子内親王がいつ伊勢から都へ戻ってくるのか分からない状態でも、敦忠は雅子内親王と手紙の遣り取りを続けたようです。
そして数年後。雅子内親王は母親の喪に服すため、斎宮の任を解かれ都へ戻ってきます。待ちわびていた敦忠は、即座に手紙を届けたことでしょう。けれど伊勢から戻った雅子内親王は、敦忠のイトコにあたる藤原師輔(もろすけ)に嫁いでしまったのです!
突然現れた恋のライバル師輔は、とても押しの強い性格だったようです。そして帰京した元斎宮を素早く妻に迎えるなんて、行動力も相当!
伊勢にいた間も手紙の遣り取りをしていたのに……どうして……。
敦忠の嘆きは相当大きかったと思います。けれど雅子内親王の師輔への降嫁は、敦忠と師輔との政治的背景を考えると、仕方がない面もありました。
というのは敦忠が3歳で父親と死に別れたのに対し、師輔の父親は健在で今をトキメク実力者。師輔の方が経済的に裕福で、将来性もバッチリ。雅子内親王の父親である醍醐天皇が、「愛娘を嫁がせるなら、内親王としての品格を保てる師輔がいいなあ」と思った可能性もありますよね。
雅子内親王にすれば、待っても待ってもなかなか結婚への踏ん切りがつかなかった敦忠よりも、あっと言う間に結婚への根回しをした師輔に惹かれたのかもしれません。この勝負、後見人となる父親不在の草食系男子よりも、日の出の勢いを持つ家の肉食系男子の勝ち! といったところでしょうか。
退下後に密通!? 当子(まさこ)内親王の場合
三条天皇の第1皇女・当子内親王は、退下後、結婚する前に破談となってしまいました。彼女は斎宮として数年間を過ごした後、16歳(または17歳)で父帝の譲位により帰京します。
元斎宮で16歳という妙齢に加え、母親は美貌で知られた女御(天皇の后妃で上位の身分)でした。その美しさは『栄花物語』で、「えもいはずうつくしき姫君(なんとも言いようがないくらい、美しい姫君)」と評されるほど! さらに血のつながった大叔母も、類いまれなる美貌の持ち主だったそう。となると、当子内親王も容姿端麗だった可能性大。
10代半ば過ぎとはいえ、美貌(だと思われる)の内親王で、かつては斎宮(聖なる皇女)。まさに高嶺の花です。入内するのかどうなるのか、貴公子たちの興味の的だったでしょう。
そんな当子内親王に目をつけたのが、血統は良いけれど没落しつつある家の息子・藤原道雅でした。彼は当子内親王の乳母に手引きをさせ密通します。
実は道雅は、後に荒三位(あらざんみ)と呼ばれるほど、気性が激しく粗暴な性格の持ち主。もしかしたら当子内親王の乳母へ、強引に密通の手引きをさせたのかもしれません。忍び会っただけで既成事実を作ったかどうかも分かりません。しかし娘を溺愛する三条天皇は、このことを知ると激怒し、すぐさま2人を引き離し乳母を追放。
やがてこの事件は世間の人々の間にも知れ渡るようになった、と『栄花物語』や『十訓抄』などは伝えています。現代に生きる私たちでも、噂話の種にされるとストレスを感じますよね。ましてや、生まれてこの方、ずっと深窓の皇女として過ごし、さらに斎宮になった内親王にはどれだけ重荷だったでしょう。当子内親王は翌年、髪を下ろし出家してしまいました。
ところで、師輔は雅子内親王と結婚できたのに、どうして道雅は当子内親王と結婚できなかったのでしょうか。それは彼が順序立てずに密通という手段に出たことや、実家が没落しつつあることなどが考えられそうです。師輔は怠りなく根回しをし、実家は日の出の勢い。道雅と大違いです。
さらに彼は後に荒三位と呼ばれるだけあって、当子内親王が斎宮に選ばれた年に、暴力行為により謹慎処分を受けています。三条天皇が愛娘の将来を考え2人を引き離したのは、仕方がないといえるでしょう。
道雅のその後ですが、激しい気性は治まらず、花山法皇の皇女殺害の黒幕になります。
※荒三位…荒れる三位のこと。三位とは律令制下における上級貴族の位階。道雅は40年間ほど、正三位と正四位(正四位上)の間に位置する従三位だったことから、こう呼ばれるようになった。
任期中に猛アタックを受けた済子(なりこ)女王の場合
女王の身分は内親王(天皇の娘)と比べると若干格下です。けれど斎王に選ばれた女王は、内親王とほぼ同格とみなされます。ただ、斎王に選ばれた本人や周囲の人たちにその心構えが不足していると、予期せぬ事態が起こることも。
平安時代中期に斎宮となった済子女王は、時の天皇から見て遠縁(いとこ違い)にあたりました。済子女王の父親・章明親王は、醍醐天皇の第13皇子。母方の実家は中納言家でした。どうにもパッとしそうではありませんよね。
このことから、済子女王が斎宮に選ばれた頃の章明親王家の暮らしぶりは、それほど良くなかったのではないか、と筆者は思います。
使用人たちは「うちの姫さんが斎宮に選ばれたって! 内親王様と同格になったって!」と驚くものの、簡単に心構えは変わらなかったでしょう。
もしかしたらその隙を突かれたのかもしれません。済子女王は伊勢へ旅立つ前の潔斎期間中に、平致光(たいらの むねみつ)と密通してしまいました。警護が甘かった? 斎宮付き女官たちが手引きした? あるいは……。
そもそも致光は警護にあたっていた滝口武者でした。これはもう、警護が甘いどころではないですよね。彼は何かの折に済子女王を垣間見てしまい、猛アタック。そして思いを遂げてしまったのです。
任期中に密通で退下したのは、後にも先にも済子女王ただ1人(伝承期間を除く)。伊勢へ行くこともなかった彼女のその後は不明です。宮廷側がこの事件を重く見たのかは分かりませんが、済子女王の次の斎宮・恭子(たかこ)女王は3歳でした。
辞職したそのあと結婚はできるの?
退下した斎王のその後ですが、先述したように当時の内親王は基本的に生涯独身です。そのため帰京後は後見人の下へ身を寄せたり、出家するパターンが多かったそう。後宮へ入内したのは、元斎王99人のうちわずかに8人でした。
天皇の准母(天皇の生母に準じた地位を公的に与えられた女性)になる元斎王も8人いましたが、それでも少ないですよね。雅子内親王のように降嫁できた元斎王はもっと少なく、なんと4人だけなんです。
『源氏物語』に登場する2人の斎王の場合、六条御息所の娘は伊勢の斎宮として数年間を過ごし、桐壺帝の崩御により退下。母親とともに都へ戻ります。そして紆余曲折を経て冷泉帝のもとへ女御として入内。元斎宮ということから「斎宮の女御」と呼ばれるようになったのです。
さらには中宮(天皇の后たちの中で皇后と並ぶ最高位)となり「秋好(あきこのむ)の中宮」に。モデルとなる人物がいたとはいえ、このようなケースは珍しいことでした。
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一方、朝顔の姫君は斎院の務めを終えた後も、思うところあって光源氏の求婚を拒み続けました。六条御息所の娘と朝顔の姫君。どちらも光源氏と結ばれない存在として描かれているのは、神聖なる斎王の経験者だったからかもしれませんね。
いつ終わるとも知れない任期のなか、斎王たちはどのような思いで暮らしていたのでしょうか。
都へ、懐かしい我が邸へ早く帰りたい。
きっとこれが一番だったのではないでしょうか。
京都嵯峨野にある野宮神社は、斎宮の潔斎場所のひとつと伝えられています。緑豊かな竹林で覆われている野宮神社へ参拝する際には、斎宮たちのことを思い出してみてくださいね。
参考文献
『神に仕える皇女たち』(原槇子/著・新典社)2015年9月
『源氏物語の結婚 – 平安朝の婚姻制度と恋愛譚』(工藤 重矩/著・中央公論社) 2012年3月
『伊勢斎宮と斎王』(榎村寛之/著・塙書房)2004年6月
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