大河ドラマ『どうする家康』が、話題を呼んでいます。なかでもコミカルな雰囲気が漂うのが、山田孝之さん演じる、服部半蔵(はっとりはんぞう)。従来、凄腕の伊賀(いが)忍者としてドラマなどに登場することの多い半蔵が、忍術はできないのに忍者の頭目(とうもく)をせざるを得ない、という設定で描かれています。果たして、実際の半蔵はどんな人物だったのでしょうか。
「伊賀越え」に困惑する半蔵
「前右府(さきのうふ)様、明智の謀叛により、本日未明、京都本能寺にてご生害(しょうがい)遊ばされました」
織田信長、死す! 和泉国(いずみのくに、大阪府南部)堺より京都に向かっていた徳川家康一行に、馬を飛ばしてその凶報をもたらしたのは、京都の商人・茶屋四郎次郎(ちゃやしろうじろう)でした。時に天正10年(1582)6月2日。
信長の招きで堺を見物したのち、本能寺で開かれる茶会に参加する予定だった家康一行は、総勢僅か30数人。信長の同盟者である家康の命を、明智光秀がねらうのは間違いなく、この人数ではひとたまりもありません。惑乱し、「われらも京で斬り死にいたす」と口走る家康を、重臣の本多忠勝(ほんだただかつ)らがなだめすかし、何とかして畿内から脱出することで一行は意見が一致します。
しかし主要な街道は、すでに明智の手勢が固めているはず。その目をかすめて、領国に戻るにはどうしたらよいか。そこで家康らが選んだのが、険しい伊賀(三重県西部)の山中を抜けて、伊勢湾を目指す「伊賀越え」のルートでした。
とはいえ、問題もあります。伊賀の地は1年前の天正9年(1581)、織田信長が大軍を投入し、抵抗する国侍たちを家族も含めて皆殺しにしていました。いわゆる第二次天正伊賀の乱です。まだ戦火の傷跡も生々しい、信長への恨みに満ちた伊賀の山中を、信長の同盟者である家康が少人数で、無事に通過できるものなのか。
そのとき、一人の男の顔が、家康の目に留まります。
「おお、半蔵がおるではないか。伊賀にゆかりのお前ならば、服部一族の縁者も多かろう。道案内の手配を頼みたい」
「ははっ」
返事をしたものの、半蔵の表情はさえません。それもそのはずで、半蔵は確かに忍びの者として知られる「伊賀の服部」の血筋ではあるものの、自身は三河(みかわ、愛知県東部)の生まれ育ちで、家康に「槍働き」で仕える武者であり、伊賀とはあまり縁がなかったからです。「家康の伊賀越えは、服部半蔵が同行していたのだから、生涯一の艱難(かんなん)だったはずがない」といった見方もありますが、半蔵と伊賀の関係を思うと、必ずしもそうとはいえません。
では、伊賀越えに困惑する半蔵が、なぜ今日、伊賀忍者の代表的な存在として語られるようになったのか。以下、生涯をたどりつつ、その謎と実像を追ってみます。
伊賀の山中
伊賀を去った半蔵の父・保長
服部半蔵正成(まさなり)は天文11年(1542)、服部半三保長(はんぞうやすなが)の5男として三河国岡崎の伊賀(岡崎市伊賀町)に生まれました。主君家康とは同い年です。
「徳川殿はよい人持ちよ 服部半蔵 鬼半蔵 渡辺半蔵 槍半蔵」
三河でそう謳(うた)われるほど、戦場での活躍で名を知られました。服部半蔵正成、渡辺半蔵守綱(もりつな)ともに、徳川十六神将の一人に数えられています。
服部半蔵の「半蔵」は服部家当主の通称で、先祖の半六という者が蔵人(くろうど、天皇の家政を担当する蔵人所の役人)に任ぜられたことから、半六蔵人を縮めて「半蔵」になったといわれます。「半三」と表記する場合もありました。半蔵正成は5男ですが、兄たちを差し置いて当主となったのは、武功を認められてのことなのでしょうか。なお父親も通称は「半三(はんぞう)」ですから、まぎらわしいので、親族間ではもう一つの通称である弥太郎(やたろう)で呼ばれていたでしょう。本記事では、半蔵で通します。
さて、半蔵と伊賀国との関係はどんなものだったのか、それは伊賀服部氏の歴史をひもとくことでもあるのですが、ここでは簡略に紹介しておきます。
伊賀国、及び隣接する近江国甲賀郡(おうみのくにこうかぐん、滋賀県東南部)は、都の近くでありながら険しい山々に囲まれた土地です。古くより国主・領主を持たず、地侍が個々に砦(とりで)を築き、争いあう中で、独自の火術や諜報(ちょうほう)術を発達させていきました。いわゆる「忍びの術」です。
俗に「甲賀望月(もちづき)、伊賀服部」と称されるように、伊賀を代表する氏族が服部氏でした。遠い祖先は渡来系氏族ともいわれ、織部司(おりべのつかさ、古代の朝廷で織染〈しょくせん〉を管理する役職)に任じられて服部連(はとりべのむらじ)と称し、伊賀国阿拝(あへ)郡を領したのがその始まりとされます。やがて服部氏は血筋がいくつかに分かれ、戦国時代の頃には千賀地(ちがち)、百地(ももち)、藤林(ふじばやし)の3家が三上忍(じょうにん)と呼ばれて伊賀を3分し、それぞれ地侍たち(忍びの者)を統括していたといわれます(百地は大江〈おおえ〉氏の流れとも)。
中でも服部氏の本家とされていたのが千賀地氏で、当主が半三保長でした。半蔵の父です。ところが保長は一族を連れて、父祖の地である伊賀を離れ、京都に向かうのです。理由はわかりません。保長は本来の姓である服部を名乗り、12代将軍足利義晴(あしかがよしはる)に仕えて、安綱(やすつな)の刀を賜ったといわれます。しかし当時の将軍に実力はなく、たびたび都を追われる有様でしたので、保長はほどなく職を辞し、三河の松平清康(まつだいらきよやす、家康の祖父)の家臣となって、以後、代々に仕えました。半蔵が生まれも育ちも三河なのは、こうした事情からなのです。
なお、伊賀、甲賀の忍びについては、こちらの記事もご参照ください。
忍者は一体何者なのか?伊賀や甲賀で忍術が磨かれた理由とは?忍びの謎に迫る!
服部氏の家紋「源氏車に矢筈(やはず)」
忍びの者を率いて初陣
半蔵は6歳で岡崎の大樹寺(だいじゅじ)に預けられますが、3年後に寺を飛び出し、16歳まで消息不明となります。兄たちに養われていたといいますが、想像をふくらませればこの時期に、父保長配下の忍びの者たちと、何らかの関わりが生まれていたのかもしれません。というのも半蔵が初陣の際、忍びの者を率いていたという記録があるからです。
半蔵の初陣は永禄元年(1558)、16歳のとき、三河国西郡(にしごおり、蒲郡市)の宇土(うど)城夜討ちだとされます。宇土城は上ノ郷(かみのごう)城とも呼ばれ、守将は今川家臣の鵜殿長照(うどのながてる)でした。半蔵は60~70人の忍びの者を率い、城内に潜入したといわれます。しかし半蔵と同い年である主君の松平元康(もとやす、のちの徳川家康)は当時、今川家の人質の身ですから、この時期に今川方の宇土城を攻めるはずがありません。元康が実際に宇土城を攻めるのは、桶狭間(おけはざま)合戦を経て、今川家から独立後の永禄5年(1562)のことなので、それと混同して伝わった可能性があります。しかしそうだとすると、半蔵の初陣は16歳ではなく、21歳。主君よりも遅いことになります。
一方、半蔵が16歳のとき、元康が初陣を果たしています。永禄元年2月、三河国加茂郡(かもぐん、豊田市)の寺部(てらべ)城攻めでした。離反した鈴木重辰(すずきしげたつ)の城を、今川家の命令を受けて元康が攻略したもので、このとき元康は火攻めを行ったといわれます。記録にはありませんが、火攻めを実行したのは半蔵が率いる忍びだったのかもしれず、このときが半蔵にとっても初陣だった可能性があります。いずれにせよ、初陣の半蔵が忍びを率いており、武功を賞せられて元康より槍を賜った記録があるのは事実です。また忍びを率いた活躍を父の保長も認めて、5男の半蔵を服部家の当主にしたのかもしれません。
その後、主君の元康が三河を統一して徳川家康と名を改め、遠江(とおとうみ、静岡県西部)への進出を図ると、半蔵も従います。永禄6年(1563)以来、何度か衝突が起きた三河宝飯郡(ほいぐん、豊川市)の牛窪(うしくぼ)城・小坂井(こさかい)の戦いをはじめ、永禄12年(1569)の遠江掛川(かけがわ)城攻めでは渡辺半蔵守綱らとともに城を囲み、元亀元年(1570)の近江姉川(あねがわ)の戦いにも参加。これらの戦場で半蔵が忍びを率いたという記録はなく、三河武士の一人として「槍働き」に励んだと解釈されています。ただ半蔵が率いる兵卒に、忍びたちが含まれていた可能性はあるでしょう。
「鬼の半蔵」の涙
家康が遠江の今川領を切り取る一方、今川氏の本拠である駿河(静岡県東部)には、甲斐(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん)が攻め込んで占領。戦国大名としての今川氏は滅びました。さらに信玄は遠江、三河の徳川領に侵攻し、元亀3年(1573)12月に家康の居城・浜松城の近くで起こるのが三方ヶ原(みかたがはら)の戦いでした。
戦いの少し前。半蔵は徳川家に入り込んでいた竹庵(ちくあん)という者が、武田が放った間者(かんじゃ)であることを突きとめ、討ち果たしています。おそらく間者であることを見抜いたのは、半蔵の周囲にいる忍びたちであったでしょう。表立っては出てこないものの、忍びたちは常に半蔵の側にいて、服部家当主を支えていた気配があります。
なお三方ヶ原の戦いは、家康の生涯最大の惨敗となりますが、半蔵は一番槍をつける奮戦をし、また退却する家康をねらって追いすがる敵の武者を、負傷しながらも討ち取って、浜松城に帰還。家康から褒美に槍を賜わるとともに、新たに伊賀の者150人を預けられました。詳細はわかりませんが、あるいは三方ヶ原の折、兵卒として参加した服部家の忍びが多数討死したのかもしれず、人数を補うため、家康が新規に雇用した忍びたちだったとも考えられます。
その後も天正2年(1574)に武田勝頼(かつより、信玄の後継者)が遠江に侵攻した際、徳川勢が増水した天竜川を挟んで牽制、小競り合いとなりますが、半蔵は最前線で活躍しています。
5年後、半蔵は思わぬ役目を務めることになりました。家康の長男信康(のぶやす)切腹に際しての、介錯(かいしゃく、介助として首を斬ること)です。信康は勇猛な武将で、家康の跡継ぎとして将来を期待されていました。ところが正室の徳姫(五徳、織田信長の娘)と折り合いが悪く、徳姫が夫の不行状を父の信長に訴えたところ、信康が武田氏に内通していることを疑った信長は、家康に信康の処分を求めたのです。家康は断腸の思いで、信長の求めに応じました。
遠江二俣(ふたまた)城内で切腹する前、信康は半蔵にこう語ったといいます。
「そちはわしのことをよく存じておろう。われに叛意などあろうはずもなし。ただただ、無念じゃ」
半蔵は、泣き伏しました。そしていよいよ切腹のとき、半蔵は悲嘆のあまり刀を振り下ろすことができず、見かねた検使役の天方通綱(あまがたみちつな)が代わって、介錯を務めています。信康はまだ20歳でした。
半蔵が切腹の次第を家康に泣きながら報告すると、同席していた本多忠勝、榊原康政(さかきばらやすまさ)も声を上げて泣き、家康は「いかに剛強な半蔵でも、主の子には手をかけかねたか」とつぶやいたといいます。「鬼の半蔵」の涙は、若くして散った信康へのいたわしさと、信長にあらがえない徳川家臣の口惜しさが入り混じったものだったでしょう。半蔵の一面を伝えています。半蔵はのちに信康のために江戸に寺を建立(こんりゅう)し、それが服部家の菩提寺となりました。四谷の西念寺(さいねんじ)です。
西念寺の「松平信康公供養碑」(左)と「服部半蔵正成公墓」
伊賀組組頭から伝説の忍者へ
天正10年3月、織田軍による甲州征伐で武田氏は滅び、家康は駿河一国を獲得。駿河・遠江・三河を領国としました。家康は御礼言上のため信長の居城・安土(あづち)城に赴き、信長の勧めで上洛、堺を見物している最中に起きたのが、本能寺の変です。冒頭で紹介した通り、家康一行は「伊賀越え」で畿内脱出を図り、その際、地侍との交渉と道案内を任されたのが半蔵でした。
「伊賀は正成が本国たるにより、仰(おおせ)をうけたまわりて嚮導(きょうどう)したてまつる」と『寛政重修諸家譜』は記しますが、伊賀越えに関する史料の大半に半蔵は登場しておらず、目立った活躍はしていないようです。そもそも半蔵の血筋は服部家の本家筋とはいえ、父親の代で伊賀を去っており、さらに前年の信長の伊賀攻めで大半の地侍が殺されていますから、残る縁故の者は少なく、声がけは難しかったでしょう。
とはいえ甲賀の多羅尾(たらお)氏、伊賀の宮田新之丞(みやたしんのじょう)、米地九左衛門(よねちくざえもん)、柘植平弥(つげへいや)ら協力した地侍の名が同時代史料に記録されており、半蔵の交渉の成果だったかもしれません。しかし護衛として十分な数とはいえず、ときには落武者狩りの襲撃を槍で防ぐこともあり、または茶屋四郎次郎が金を与えて懐柔するなどして、なんとか伊賀の山中を通り抜けたのが、家康の「御生涯艱難の第一」とされる伊賀越えの実際だったのではないでしょうか。
しかしこの伊賀越えが、半蔵の立ち位置を変えることになります。領国に帰った家康は、協力した伊賀、甲賀の者たちを新たに召し抱え、半蔵に預けました。伊賀者の中には「半蔵は伊賀を抜けた家の者で、格下だ」と、配下になることに不満を言う者もいたようです。しかし半蔵は、その後の天正壬午(じんご)の乱(主に武田旧領の甲斐、信濃〈長野県〉をめぐる北条〈ほうじょう〉氏との戦い)や、小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦い(家康・織田信雄〈のぶかつ〉の連合軍と、羽柴秀吉〈はしばひでよし〉の戦い)、小田原北条攻めなどで、預かった忍びたちを諜報活動やゲリラ戦で活かし、武功を上げました。
そして天正18年(1590)、家康が関東に移り江戸城に入ると、半蔵は知行(ちぎょう)8000石、与力(よりき、補佐役)30騎、伊賀組同心(どうしん、配下の下級武士)200人を従える旗本となり、江戸城麹町(こうじまち)口門外に組屋敷を構えます。やがて伊賀組同心の伊賀者たちは、普段は城の警固にあたりつつ、自分たちの待遇向上のため、家康を助けた伊賀越えを「名誉の働き」として喧伝します。結果、彼らを束ねる半蔵の名も広まることになりました。
慶長元年(1597)、半蔵は江戸で病没。享年55。半蔵没後も、伊賀者たちは関ヶ原合戦や大坂の陣に参戦しています。伊賀組の組頭である服部半蔵正成の名は、江戸時代には『忍秘伝(にんぴでん)』に見られるように、次第に伊賀者の頭領として認識されるようになり、さらに後世、伝説的な伊賀忍者として物語などで描かれることになりました。半蔵が知ったら、苦笑したかもしれません。なお江戸城麹町口門は、半蔵の組屋敷があったことにちなみ、「半蔵門」と呼ばれることになります。
半蔵門と桜
参考文献:『新訂 寛政重修諸家譜 巻十八』(続群書類従完成会)、大久保彦左衛門『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)、山田雄司『忍者の歴史』(角川選書)、戸部新十郎『忍者と忍術』(中央公論新社)、菊地浩之『徳川十六将』(角川新書) 他
取材協力:服部半蔵開基 四谷 浄土宗 西念寺