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2019.09.22

忍者は一体何者なのか?伊賀や甲賀で忍術が磨かれた理由とは?忍びの謎に迫る!

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「忍者」や「忍び」というと、黒ずくめの装束で運動能力に優れ、敵の城や屋敷に潜入し、時に手裏剣(しゅりけん)などの武器を使うイメージを持つ人が多いでしょう。また最近では日本以上に、アメリカをはじめ諸外国で「Ninja」は人気があり、ハリウッドでも数々の映画に登場しています。もちろん映画やコミックなどでの彼らの活躍は誇張され、現実とはかけ離れていますが、しかしその存在自体を荒唐無稽(こうとうむけい)と考えるのは早計です。戦国時代から江戸時代にかけて、特殊な技術を用いて諜報活動に暗躍した者たちは確かに存在しました。今回は忍者の実態と、彼らの数々の秘術について紹介します。

忍者とは何者なのか? なぜ伊賀や甲賀で忍術が磨かれたのか?

そもそも忍者とは何者で、いつ頃から存在するのでしょうか。
「伊賀(いが)・甲賀(こうか)と号し、忍者という。敵の城中へ自由に忍び込み、密事を見聞して、味方に告知する者である」(『近江與地誌略〈おうみよちしりゃく〉』)というのが、忍者のおよその定義といえるでしょう。

敵地に潜入し、必要な情報を持ち帰る者を「忍者」「忍び」と呼びますが、しかし、たまたまその役目を果たしただけの者は当てはまりません。あくまでもそれを「職能」とする一族一党の中で、独自の技術を習得したプロを指して忍者と呼びます。そしてそんな一族一党を多く輩出したのが、伊賀国(いがのくに、現、三重県北部)であり、近江国甲賀郡(おうみのくにこうかぐん、現、滋賀県南部)でした。

伊賀や甲賀と忍者との関わりは古く、伝承では、聖徳太子(しょうとくたいし)がそばに置いた「志能備(しのび)」が伊賀の大伴細人(おおとものほそひと)であり、また甲賀忍者の筆頭とされる望月(もちづき)家は、「人穴伝説」で知られる甲賀三郎諏方(こうかさぶろうよりかた、平安時代の望月三郎兼家〈かねいえ〉と同一人物とも)を祖と称しています。

伊賀と甲賀はかつて「甲伊一国」とも表現され、隣接する両地はともに都に近く、それでいて険しい山々に取り囲まれた、ある種、「隠れ里」のような場所でした。伊賀の地名である名張(なばり)が、「隠(なば)り=隠れる」に由来することからもそれがわかります。

古来、両地には中央での敗残者が逃れてきて、身をひそめました。敗残者には渡来人(とらいじん)、公家、落武者などがいたでしょう。また山岳で修行する修験者(しゅげんじゃ)たちも多くいました。両地の人々は彼らを受け入れ、それによって山間部でありながら、中央の文物に接し、情報に明るくなり、さらに祈祷(きとう)や薬物の知識も吸収したのです。

また山間地帯であることから、伊賀や甲賀には、諸勢力を従えるような有力な守護大名は成立せず、狭い地域に小規模の土豪がひしめくことになりました。そのため小競り合いが頻発、争いは次第に巧妙なものとなり、必然的に代々受け継がれていた忍術が磨かれることになったのです。

なお近江南部には守護大名の六角(ろっかく)氏がいましたが、甲賀は傘下(さんか)にありながらも独立性が認められ、その代わり六角氏にいざということが起きた場合には、協力・援護するという取り決めがありました。

足利将軍が陣没! 「霞の魔法」とともに甲賀の名を天下に示した鈎(まがり)の陣

観音寺城跡

次に、彼らが実際にその技術をどのように用いたのか、戦いの記録から見てみましょう。

長享(ちょうきょう)元年(1487)9月、幕府に反抗的な近江の六角高頼(たかより)を討伐すべく、京都の足利(あしかが)9代将軍義尚(よしひさ)が自ら大軍を率いて出陣、高頼の居城・観音寺(かんのんじ)城に攻め寄せました。高頼は正面切って戦うことをせず、素早く城に火をかけると、甲賀へと逃げ込みます。六角氏にとっての「いざということ」が起きたのです。

将軍義尚は意気揚々と甲賀口に位置する鈎(まがり、現、滋賀県栗東〈りっとう〉市)に軍を進め、自らの御所を築かせて本陣としました。そして六角高頼が横領していた付近の所領を回復させた後、幕府軍はいったん撤収しようとします。

そんな矢先の、12月2日の夜のことでした。突如、本陣を深い霧が包み、守備兵の視界が奪われます。兵士らがいぶかっていると、陣所内にたちこめた霧の中から黒ずくめの男たちが次々と現れ、魔物のように襲いかかってきました。男たちは本陣の堀や土塁を軽々と越えて、侵入してきたのです。兵士たちが恐れをなして逃げ惑う中、男たちは建物にかたっぱしから火をかけ、不意をつかれた将軍をはじめとする幕府軍は、大混乱に陥りました。

この男たちこそ、望月出雲守(もちづきいずものかみ)を筆頭とする甲賀五十三家の地侍で、彼らは六角氏との約束を守り、敵に奇襲をかけたのです。霧は火薬を用いた煙幕で、日頃から忍びの術の鍛錬を積む彼らにすれば、にわかづくりの本陣に侵入することなど、わけもないことでした。

幕府の大軍を見事に攪乱(かくらん)した甲賀者たちの噂は瞬く間に他国へ広がり、「霞(かすみ)をもって魔法を使う」と恐れられます。幕府軍は退くに退けなくなり、甲賀のゲリラ戦法に揺さぶられながら1年半も遠征を続けたあげく、将軍義尚が25歳の若さで陣没。これを機に幕府軍は撤収し、正規の軍勢を撃退してのけた甲賀者(こうかもの)たち(伊賀者〈いがもの〉の協力もありました)は、その名を天下に知らしめました。

天下布武を推し進める信長を悩ませた伊賀者たち

伊賀街道

一方、伊賀では狭い土地に小土豪がひしめき、館や砦(とりで)跡とされる記録を数えると、300近くに上るといわれます。その伊賀者たちを束ねたとされるのが上忍(じょうにん)の3家でした。すなわち百地(ももち)、藤林(ふじばやし)、服部(はっとり)家です。

忍者は上忍、中忍(ちゅうにん)、下忍(げにん)に大別されるといわれ、上忍は代々忍びの仕事を受け継ぐ者、忍者集団の頭領でした。中忍はその部下で、下忍の組頭的な役割。下忍は実戦部隊として、最前線で任務にあたる者たちです。

さて、伊賀者たちが命をつけ狙ったのが、「天下布武(てんかふぶ)」と称して、畿内のみならず諸国の制圧を進めた織田信長でした。

信長は、忍びがもたらす情報の価値は認めていたものの、忍びそのものは神出鬼没で奇怪な印象からか、嫌いました。だから伊賀者が狙った……というわけではなく、彼らは信長の敵対勢力から雇われていたのです。戦国時代には、各地の大小名が伊賀者、甲賀者の腕を見込んで一時的に金で雇い、諜報(ちょうほう)、時に敵の暗殺を委ねることもありました。

たとえば元亀元年(1570)、信長が越前(現、福井県)の朝倉氏攻めに失敗し、岐阜城に戻るべく甲賀から伊勢(現、三重県)へ抜ける千草(ちぐさ)越えを通過中、狙撃されます。甲賀の鉄砲の名手・杉谷善住坊(すぎたにぜんじゅうぼう)によるもので、六角氏の要請に応えたものでした。銃弾は信長の体をかすめ、捕らえられた善住坊は無残に処刑されます。

それから8年後の天正6年(1578)、伊勢を押さえる信長の二男・信雄(のぶかつ)は、伊賀を攻略すべく、丸山(現、三重県伊賀市枅川〈ひじきがわ〉)に拠点の築城を始めます。城は三層の天守を備えた大規模なもので、ついに山間部の伊賀にまで信長の手が及ぼうとしていました。

しかし完成間近となった同年10月のある日。丸山城は突如、大爆発を起こし炎上します。夜明け前に忍び込んだ伊賀者たちが、城内のあちこちに火薬を仕掛け、一斉に火を放ったのでした。城内が大混乱に陥ったところへ、さらに数百人の伊賀勢が乱入し、信雄の配下は逃亡、城は半日ともたずに落ちたのです。

これに怒った信雄は、翌天正7年(1579)9月、父・信長の許しも得ずに8,000余りの軍勢を率いて伊賀に攻め込みました。伊賀の地侍は数では劣るものの、百地丹波(ももちたんば)ら上忍の指揮のもと、信雄軍を山中に釘づけにして軍の展開を封じ、奇襲、夜襲のゲリラ戦の連続で散々に翻弄します。結果、信雄は甚大な被害を出して、伊勢に逃げ帰りました。この戦いを「第一次天正伊賀の乱」と呼びます。

飛ぶ鳥落とす勢いの織田軍を破ったことで、伊賀者の恐ろしさを天下は改めて認識し、信長は息子の失態に「親子の縁を切る」という書状を送るほど激昂(げっこう)しました。

第二次天正伊賀の乱と信長を二度狙撃した忍び

息子の信雄が伊賀に攻め込んで惨敗を喫した年、信長は二度、京都と安土を往復していますが、おそらく伊賀の乱後の秋のことでしょう。

近江の膳所(ぜぜ)付近を通過していた信長が、狙撃されます。銃弾の軌道は過たず馬上の信長をとらえていましたが、なんと日よけに差しかけていた朱傘の柄(え)に命中し、信長自身は無事でした。家臣らがすぐに狙撃手を探しますが、見つけられません。

翌日、信長の宿所を伊賀の城戸弥左衛門(きどやざえもん)と称する者が訪ねて来て、「昨日の襲撃は伊賀甲賀の手の者に違いありません。それがしに探索をお任せくだされ」と下手人探しを申し出ました。実はこの弥左衛門こそ昨日、信長を狙撃した張本人で、正体は「音羽(おとわ)の城戸」と呼ばれる鉄砲名人の伊賀者だったのです。音羽の城戸は自ら下手人探しを請け負うことで追跡を防ぐとともに、信長の隙をうかがいました。一説に彼は、大坂の石山本願寺(いしやまほんがんじ)より信長暗殺を依頼されていたといわれます。

それから2年後の天正9年(1581)9月、復仇の思いに燃える信長は、息子信雄に5万の軍を与えて、再び伊賀に侵攻させます。当時の伊賀の全人口が約9万とされますから、その半分以上にも及ぶ大軍で、あたかも巨大なすりこぎで伊賀全体をすり潰し、伊賀者を根絶やしにしようとする構えでした。これを「第二次天正伊賀の乱」と呼びます。

これに対し伊賀者は果敢に反撃し、蒲生氏郷(がもううじさと)勢や筒井順慶(つついじゅんけい)勢に得意の夜襲をかけて大打撃を与えています。また比地山(ひじき)城では、攻め寄せる丹羽長秀(にわながひで)勢を何度も撃退しました。しかし衆寡敵(しゅうかてき)せず、伊賀は8日間で焦土と化し、非戦闘員を含む3万人余りが織田勢に殺されます。上忍の百地丹波らは行方知れずとなり(戦死とも)、第二次天正伊賀の乱は幕を閉じました。

翌月の10月9日、降伏した伊賀に、織田信長は自ら視察に訪れます。

信長が伊賀国一の宮の敢国(あえくに)神社で休息していた時のこと。突如、複数の銃声が響き、近習たち数人がばたばたと倒れました。またも狙撃されたのです。しかし、信長自身は奇跡的に無事でした。

この時、近くの森から大鉄砲で信長を狙った男たちの一人こそ、あの音羽の城戸だったのです。二度目の暗殺も失敗した音羽の城戸は、追っ手が迫る中、二人の仲間とともに森の奥へ飛鳥の如く消え去りました。つくづく悪運の強い信長ですが、これより8ヵ月後の本能寺の変で命を落とします。本能寺の変にも伊賀者が関与していたという説がありますが、定かではありません。

以下、【忍者の謎と秘術・後篇】につづく

※後篇では北条氏を支えた風魔一党や、真田氏に仕えた草の者など、各地の戦国大名に仕えていたとされる忍者集団や、実際に忍者が使ったとされる秘術で、現在に伝承されているものなどを紹介します。

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書いた人

東京都出身。出版社に勤務。歴史雑誌の編集部に18年間在籍し、うち12年間編集長を務めた。「歴史を知ることは人間を知ること」を信条に、歴史コンテンツプロデューサーとして記事執筆、講座への登壇などを行う。著書に小和田哲男監修『東京の城めぐり』(GB)がある。ラーメンに目がなく、JBCによく出没。