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2019.09.22

忍者とは?忍術を操る忍びの正体は?7000文字徹底解説!あの漫画のモデルも紹介!

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忍者といえば、伊賀(いが)甲賀(こうか)がその代名詞のような存在でしょう。前編で紹介した通り、彼らは権力に属さず、その気になれば足利(あしかが)将軍率いる幕府軍を手玉に取る、恐るべき「忍術」を操る集団であることを戦国時代には知られていました。

しかし「忍者」「忍び」と呼ばれる者たちは、伊賀と甲賀にのみいたわけではありません。戦国の世、各地の大名は伊賀や甲賀の忍びを雇うかたわら、近在の忍びたちも活用しました。【忍者の秘術と謎・後編】では、各地の大名を支えた忍者集団の暗躍と、忍者たちが用いた数々の秘術で、現在にまで伝わっているものを紹介します。

「忍び」と「透波(スッパ)」

「忍術とは偸盗 (ちゅうとう)術なり」という言葉があります。忍者は命令を受けて敵の居所に潜入し、情報や物品を奪うからこその忍術であり、これが命令ではなく、私利私欲で活動していれば、ただの盗賊に堕(だ)すことになります。忍者と盗賊を分けるものは、技を何のために用いるかにありました。逆に、「盗賊に任務を与えれば、忍者に近い存在になりうる」ともいえるのです。

そうした背景の中、戦国時代に登場するのが「透波(スッパ)」と呼ばれる者たちでした。

スッパとは当時の言葉で「欺瞞(ぎまん)、虚言(きょげん)」を意味し、スッパな者といえば、「浮浪者、人をだます者」を指しました。ちなみに今日、暴(あば)く、出し抜くことを「スッパ抜く」といいますが、これはスッパが突然、刃物を抜くことに由来するとされます。あまり良い意味の言葉ではありませんが、要は野武士・強盗の類を大名たちは雇い、忍者としての任務を与えたのです。

たとえば甲斐国(現、山梨県)の武田信玄(たけだしんげん)は、「足長坊主(あしながぼうず)」の異名(いみょう)があるほど遠国の情報に精通していましたが、それは配下の「三ツ者」と呼ばれる忍びたちの働きが大きかったといわれます。

「三ツ者」とは「諜報・謀略・監察」の役目をいい、富田郷左衛門(とみたごうざえもん)が差配しました。また信玄は三ツ者の他に、修験者(しゅげんじゃ)や御師(おし、下級神職)、歩き巫女(みこ)といった諸国を歩く宗教者、そして透波(スッパ)も情報源として活用していたといわれます。

武田の「透波(スッパ)」・韋駄天(いだてん)の熊若

武田信玄が用いた「孫子の旗」「風林火山」として知られる

信玄が透波を用いて諜報活動をしていたことは、『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』にも記されています。

「信濃(現、長野県)から召し抱えた『スッパ』70人の中から特に優れた者を30人選出。これを飯富虎昌(おぶとらまさ)ら3人の武将に10人ずつ預けた。そして敵対する信濃の村上(むらかみ)氏、諏訪(すわ)氏、小笠原(おがさわら)氏の領内に10人ずつ潜入させ、情報収集を行う。得た情報は甲信国境で待機する武田の侍に伝え、早馬で甲府に届けられた」。忍びとして働く透波の、一端(いったん)がうかがえるでしょう。

その武田の透波に「熊若(くまわか)」という俊足の若者がいました。ある時、飯富虎昌が信濃に合戦に向かう途中、軍旗を忘れたことに気づき、熊若に命じると、瞬く間に甲府から軍旗を持って来て、韋駄天(いだてん)ぶりにまわりの将兵が驚いています。 また信玄秘蔵の『古今和歌集』が館(やかた)から盗まれる事件が起こり、熊若が疑われますが、彼は俊足を飛ばして逃げる犯人を自ら追跡、捕縛し、身の潔白を明かしました。犯人は北条(ほうじょう)氏配下の風魔(ふうま)の手の者であったともいいます。

北条の乱波(ラッパ)「風魔一党」

箱根神社

風魔は箱根一帯を本拠にしたといわれる 相模国(現、神奈川県)小田原城を本拠とする北条氏は、初代早雲(そううん)以来、5代約100年にわたって関東制覇を目指しました。その北条氏に協力した相州乱波(ラッパ)が「風魔一党」です。透波を、主に関東では「乱波(ラッパ)」とも呼びました。

風魔は本来、風間(かざま)、もしくは風摩で、相模国足柄下(あしがらしも)郡を根拠地とし、その頭領は代々「風魔(風間)小太郎(ふうまこたろう)」を名乗ったとされます。風「魔」として知られるようになったのは、その方が恐ろしげであるからでしょう。  

小田原北条氏3代の氏康(うじやす)は、武田信玄、上杉謙信(うえすぎけんしん)の好敵手でしたが、その氏康の書状に「相州の風間小太郎の指導を受けた二曲輪猪助(にくるわいのすけ)なる忍びを、相模柏原(かしわばら)城の敵軍の状況を探るためにひそかに派遣した」とあります。風魔一党が忍びとして、北条氏を支えていたことがわかります。

軍記物の『北条五代記』には「乱波というものは国々の様子をよく知り、人としては悪事を働くくせ者が多い。彼らを先頭にして夜討ちをかければ、道に迷うこともなく、ある時は武功をあげ、また藪(やぶ)や草陰に隠れて毎夜敵状をうかがい、敵に悟られず明け方には帰る」と、乱波の仕事ぶりが記されています。また乱波が、命じられた忍び働きはするものの、「人としては悪事を働くくせ者」であることも、大きな特徴といえるでしょう。

実際、風魔一党の中には山賊や海賊行為、強盗、窃盗を行う者たちもいました。 風魔一党の合戦での活躍ぶりがわかるのが、天正7年(1579)9月の北条氏政(うじまさ)と武田勝頼(たけだかつより、信玄の息子)との黄瀬川(きせがわ)の戦い(現、沼津市、三島市)でしょう。この時、風魔一党は対岸の武田の陣に毎晩のように夜討ちをかけます。たとえ天候が悪くてもお構いなしに襲いかかり、将兵を生け捕りにしてはなぶり殺し、綱を切って馬を奪い、陣に火をかけ、武器・食糧を強奪するなど、荒っぽいやり口に歴戦の武田勢も次第に疲弊しました。

しかし武田方も一矢報(いっしむく)いようと、ある夜、10人の武田の透波が風魔に紛れ込み、敵陣に向かいます。すると風魔は頭領の合図で一斉に松明(たいまつ)を灯し、互いに声を出しながら、座ったり、立ったりしました。武田の透波はわけがわからず、おろおろするうちに全員が斬られてしまったのです。これは敵が紛れ込んでいないかを確認するための「立ちすぐり、居(い)すぐり」という識別法で、合言葉は日本語ではなかった、ともいわれます。果たして風魔一党とは何者だったのか、気になるエピソードです。

猿飛佐助の原型・真田の「草の者」

角間渓谷(かくまけいこく)。真田郷の忍び「草の者」が忍術を修行したと伝わる

忍者といえば『真田十勇士(さなだじゅうゆうし)』に登場する猿飛佐助(さるとびさすけ)、霧隠才蔵(きりがくれさいぞう)などがよく知られています。もちろん彼らは架空の存在ですが、信州の真田氏が忍びを活用した情報収集、ゲリラ戦を得意としたことは事実でした。 もともと信州は山岳宗教の修験道が盛んで、戸隠流(とがくしりゅう)忍術や飯綱(いづな)の法(妖術の一種)も生まれています。また甲賀の望月氏は、信州の望月氏の一族でした。 信州東部の真田郷を本拠とする真田氏は、幸隆(ゆきたか)の代に武田信玄に仕えて、上野(こうずけ、現、群馬県)の吾妻(あがつま)地方にも勢力を広げました。

武田氏が滅ぶと、幸隆の息子・昌幸(まさゆき)が独立大名となり、大勢力の大名たちに囲まれながらも、巧みに生き残ります。ぎりぎりの駆け引きを続ける中で、情報収集を担当したのが真田の「草の者」と呼ばれる忍びたちでした。そして彼らを束ねたのが、昌幸の家臣・出浦昌相(いでうらまさすけ、盛清〈もりきよ〉とも)で、彼自身も忍術を使います。2016年の大河ドラマ「真田丸」では、寺島進さんが出浦を演じていました。また真田の名を天下に知らしめたのは、信州上田城において徳川の大軍を二度、打ち破った第一次上田合戦(天正13年〈1585〉)と第二次上田合戦(慶長5年〈1600〉)でしょう。

真田勢2,000 は、第一次では徳川軍8,000、第二次では徳川軍3万を迎え撃ちます。そして逃げると見せて敵を城におびき寄せては集中砲火を浴びせ、たまらず敵が後退すると城下町のあちこちから銃撃するゲリラ戦法で翻弄し、撃退しました。そこに草の者たちの暗躍があったことは、いうまでもありません。 この戦法を受け継いだ昌幸の息子信繁(のぶしげ、幸村〈ゆきむら〉)は、慶長19年(1614)の大坂冬の陣で、真田丸において徳川家康(とくがわいえやす)率いる幕府軍を散々に翻弄。翌年の夏の陣では家康本陣に襲いかかり、家康を切腹寸前にまで追い詰めました。信繁の活躍の陰にも草の者たちがいたはずで、猿飛佐助や霧隠才蔵の原型はここにあったのです。

上杉、伊達、毛利、徳川・・・その他の大名に仕えた忍者集団

修験者。山伏とも呼ばれる彼らは忍びと深く関わっていた

武田の透波、北条の風魔に対し、越後(現、新潟県)の上杉謙信「軒猿(のきざる)」という忍び集団を使ったことが一般的に知られています。その名は忍術の始祖ともいう中国の軒轅 (けんえん)皇帝(黄帝)に由来するとされますが、実は謙信が軒猿を使った記録は文献上見当たらず、代わりに「伏齅(ふしかぎ)」という名で記されています。

永禄4年(1561)の第四次川中島合戦の際、武田勢が海津(かいづ)城を出たことを知らせたのは、伏齅でした。なお江戸時代には、上杉家は忍びを「夜盗組(やとうぐみ)」と呼んでいます。 上杉家の夜盗組に似た表現でいえば、奥州の伊達政宗(だてまさむね)配下の忍びは、「黒脛巾組(くろはばきぐみ)」と呼ばれ、足に黒い皮脚絆(かわきゃはん)をはいていました。また加賀(現、石川県)の前田利家(まえだとしいえ)の配下は「偸組(ぬすみぐみ)」と称し、四井主馬(よついしゅめ)が束ねたといいます。いずれも、その前身が盗賊の類であったことを思わせる名称なのが興味深いところです。 中国地方で名を馳せたのが、「鉢屋衆(はちやしゅう)」で、出雲(現、島根県)の月山富田(がっさんとだ)城を失った尼子経久(あまごつねひさ)の城奪還を助けました。

その後、尼子氏を離れて、毛利元就(もうりもとなり)を支えたといいます。また薩摩(現、鹿児島県)の島津氏に協力したのが「山潜(やまくぐ)り」という忍び集団。主に修験者で構成され、時に「兵道(ひょうどう)」と呼ばれる呪術を用いたとされます。 江戸城(現、皇居)半蔵門 。門内に服部半蔵の屋敷があったことから、その名がついたという さて、ここまできて、おそらく日本で最も有名な忍者の名前が、まだ出てきていないことにお気づきでしょうか。

伊賀の服部半蔵正成(はっとりはんぞうまさなり)です。父親の代から徳川家に仕えた半蔵は、家康に命じられて200人の伊賀者で構成される「伊賀組」を率いました。ただし半蔵は伊賀者の血筋ではあるものの、あくまでも武将であり、忍者ではないのです。また配下の伊賀者たちも、半蔵の血筋が伊賀では自分たちの先祖よりも低いとして、従うことに不満をもらしたといいますから、何とも意外ではないでしょうか。

潜入し、情報を得て、追っ手をかわす・・・任務を果たすための数々の秘術とは

次に、忍者はどんな術を使ったのか、具体的に見てみましょう。

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書いた人

東京都出身。出版社に勤務。歴史雑誌の編集部に18年間在籍し、うち12年間編集長を務めた。編集部を離れるも、いまだ燃え尽きておらず、noteに歴史記事を自主的に30日間連続で投稿していたところ、高木編集長に捕獲される。「歴史を知ることは人間を知ること」だと信じている。ラーメンに目がない。