大河ドラマ『どうする家康』に登場する、いぶし銀の徳川家臣たちを紹介する本シリーズ。最終回は本多弥八郎正信(ほんだやはちろうまさのぶ)です。ドラマでは今川家から独立する家康を支えたものの、三河一向一揆(みかわいっこういっき)で敵方の軍師となり、家康のもとを去りました。しかしその後、帰参し、家康の天下取りを智謀の面で支えることになります。本記事では弥八郎の活躍のあらましを紹介します。
家康暗殺計画
「これは、長束(なつか)様」
本陣の外で本多弥八郎正信が、来訪者に頭を下げます。
慶長5年(1600)6月18日夜。会津の上杉景勝(うえすぎかげかつ)討伐のため、東国に下る徳川家康の軍勢はその夜、近江国(滋賀県)石部宿(いしべじゅく、湖南市)に宿泊していました。夜間、家康の本陣を訪ねてきたのは、近江水口(みなくち)城(甲賀市)城主の長束正家(まさいえ)。豊臣(とよとみ)政権の五奉行の一人です。
本陣の外で応対した弥八郎が、家康がすでに就寝していることを告げると、長束は自分の城はすぐ近くの水口であり、明朝の朝飯の支度をしているので、ぜひ徳川様に立ち寄っていただきたいと笑顔で話します。弥八郎が感謝の意を伝えると、長束は「せめてこのぐらいは、お見送りをする奉行として、当然のこと」と応えますが、右手に持つ扇子が小刻みに震えているのを、弥八郎は見逃しませんでした。
これは、昭和56年(1981)に放送されたテレビドラマ『関ヶ原』のワンシーンです。鳥居元忠(とりいもとただ)の記事でも紹介した作品ですが、本多弥八郎正信というと、私はこのドラマで演じた三國連太郎さんの個性的な、謀略に秀でた姿をまず思い浮かべます。ドラマでは徳川家康を森繁久彌さん、主人公の石田三成(いしだみつなり)を加藤剛さん、といった名優が演じていました。
徳川家康に尽くした鳥居元忠。波乱の人生を解説
この石部宿のシーン、続きがあります。
家康の寝所に入った弥八郎は、布団の上に起き上がった家康の耳元で、長束の件を報告。
「扇子が小刻みに?」
「はい」
「ふん」と鼻で笑った家康は、その拍子に「ふっ、うっふ、うえっへっへっ」とせき込みました。弥八郎は数珠(じゅず)を掛けた手で家康の背中をさすりながら、「なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ」と唱えます。
「正信。わしはすぐに発(た)つ」
「長束は三成と同じ近江の出。おそらくは気脈を通じておるでしょう。上様を水口の城に引き入れて…」
「正信、皆まで言うな」
家康は素早く着替えを済ませると、供回りの軍勢だけで先発して水口を素通りし、長束による暗殺計画を回避しました。短いシーンですが、弥八郎が家康の寝所に出入りでき、その報告によって家康が次の手を打つほど信頼されていること、弥八郎がとっさに「なんまんだぶ」が出てしまう一向宗信者であること、さらに家康の決断の早さなどが伝わる名場面でした。
旧石部宿
三河を去る
三河(愛知県東部)の本多氏は西三河を押さえる国衆(在地領主)で、松平(まつだいら)氏に仕えました。先祖は、豊後国(大分県)本多に住んでいたともいわれます。本多氏14代の定通(さだみち)とその弟定正(さだまさ)のときに二つの系統に分かれ、徳川四天王の一人・本多忠勝(ただかつ)は定通の系統、弥八郎は定正の系統でした。
ちなみに大河ドラマ『どうする家康』には登場していませんが、家康には他にも本多姓の有力家臣がいます。たとえば家康の父・松平広忠(ひろただ)より「広」の字を与えられ、数々の武功をあげた本多豊後守広孝(ぶんごのかみひろたか)や、「鬼作左(おにさくざ)」の異名(いみょう)を持つ本多作左衛門重次(さくざえもんしげつぐ)などは有名でしょう。系統でいうと広孝は定正系、重次は定通系とされます。
弥八郎正信は天文7年(1538)、本多俊正(としまさ)の次男に生まれました。主君家康よりも4歳年長です。幼い頃より家康に仕え、主君の初陣以来、ともに戦場に赴き、永禄3年(1560)の桶狭間(おけはざま)合戦の折、丸根砦(まるねとりで)攻めで足を負傷。以来、片足を引きずるようになったともいわれます。
そんな弥八郎ですが、永禄6年(1563)に起きた三河一向一揆では、弟の本多三弥正重(さんやまさしげ)とともに家康に背き、一揆方に与(くみ)しました。弥八郎は酒井忠尚(さかいただなお)の上野(うえの)城(豊田市)に、正重は針崎(岡崎市)の勝鬘寺(しょうまんじ)に入ります。激戦の中、正重は、攻めてきた家康方の大久保忠世(おおくぼただよ)と鉄砲を撃ち合って、負傷しました。
弥八郎兄弟だけでなく、少なからぬ家康の家臣が背いた三河一向一揆は、翌永禄7年(1564)にようやく鎮圧。弥八郎の弟正重をはじめ、渡辺半蔵(わたなべはんぞう)、夏目広次(なつめひろつぐ)ら、敵方についた者たちを家康が許す一方、弥八郎は三河を去りました。弟正重を許した家康が、弥八郎を許さなかったとは考えにくく、弥八郎自らの判断だったのかもしれません。
本多氏家紋「立葵」
一揆勢の大将
三河を去った弥八郎は、まず京に上ったともいわれます。当時の弥八郎について、畿内を掌握する三好長慶(みよしながよし)の重臣・松永久秀(まつながひさひで)が評した言葉が伝わります。
「徳川が家より来る侍を見る事少なからず。多くはこれ武勇の輩(やから)なり。ひとりこの正信は強からず、柔らかならず、また卑しからず、必ず世の常の人にあらず、とぞ感じける」(『藩翰譜(はんかんふ)』)
三好家の実権を握り、飛ぶ鳥落とす勢いの松永が、牢人(ろうにん)の弥八郎とどこで接する機会があったのかはわかりませんが、武勇だけが取り柄の三河者ではない、弥八郎の尋常ならぬ才能を、松永は見抜いていたようです。しかし、弥八郎は松永に仕えることはなく、加賀国(石川県南部)に向かいました。
当時の加賀は大名を滅ぼした一向一揆が国を支配しており、尾山御坊(おやまごぼう、現在の金沢城)を拠点に、北陸全体に勢力を拡張中でした。そこに赴いた弥八郎は、一揆勢の大将の一人として迎えられます。越前(福井県)の朝倉(あさくら)氏、越後(新潟県)の上杉(うえすぎ)氏、さらに朝倉氏滅亡後は織田信長(おだのぶなが)という、名だたる大名との戦いにおいて、弥八郎は一揆勢の作戦指揮を執ったのでしょう。弥八郎の智謀が、実戦の中で磨かれていったことがうかがえます。
一方、家康のもとに残った弟の正重は、その後、徳川家を離れて、織田家の滝川一益(たきがわかずます)、前田利家(まえだとしいえ)、蒲生氏郷(がもううじさと)らの下で足軽大将、軍(いくさ)奉行として活躍した後、再び徳川家に戻りました。
また後年、弥八郎の次男・政重(まさしげ)も徳川家を出奔(しゅっぽん)し、大谷吉継(おおたによしつぐ)、宇喜多秀家(うきたひでいえ)、福島正則(ふくしままさのり)、前田利長(としなが)、直江兼続(なおえかねつぐ)らに仕え、再び前田家に戻って家老を務めました。このように主家を飛び出すのは、弥八郎の血筋のなせるわざだったのでしょうか。あるいは政重の場合、仕えたのがすべて豊臣(とよとみ)家に近い大名であるところを見ると、何らかの密命を受けていた可能性もあるのかもしれません。
尾山御坊の名ごりともいわれる金沢城の極楽橋
家康の謀臣
その後、弥八郎は家康のもとに帰参しますが、時期がはっきりしません。『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』によると、弥八郎同様、三河一向一揆で一揆方についた高木広正(たかぎひろまさ)が家康の意向(いこう)を伝え、帰参した弥八郎は元亀元年(1570)の姉川(あねがわ)の戦いで奮戦した、とあります。ところが以後の合戦での弥八郎の記録は『諸家譜』に一切なく、次の記述は天正14年(1586)の佐渡守(さどのかみ、朝廷の官職)叙任でした。その間、弥八郎に特筆すべきものが皆無とは考えにくいでしょう。従って、姉川の戦いの時点ではまだ弥八郎は帰参しておらず、奮戦の記録は姉川で活躍した弟正重と混同したものではないかと想像します。
一方、『藩翰譜(はんかんふ)』によると、家康が弥八郎に帰参を呼びかけたのは天正10年(1582)、武田勝頼(たけだかつより)が滅んだ後のことで、信長に従って家康主従が京都に赴く際、弥八郎は加賀から来て、合流することになっていました。ところが、本能寺の変が勃発。堺にいた家康一行は、明智光秀(あけちみつひで)の兵や落ち武者狩りに襲われる危険にさらされます。このとき、弥八郎の機転で敵の目をそらし、家康一行は伊賀越えを行って、無事に三河に帰ったと記されます。しかし、伊賀越えに従った家康家臣の中に、弥八郎がいたという傍証はありません。ただ、弥八郎の文書などが確認されるのはこの時期からですので、帰参は本能寺の変後の頃と見るのが妥当のようです。
帰参後、弥八郎は鷹匠(たかじょう)として仕えたともいわれますが、家康に信頼され、次第に重臣の列に加わるようになります。天正14年に家康が豊臣秀吉に臣従すると、弥八郎は佐渡守に任官。また天正18年(1590)の小田原北条(ほうじょう)氏征伐後、家康が関東に移封(いほう)となると、弥八郎は相模国(神奈川県)玉縄1万石を賜り、大名となりました。
慶長3年(1598)に秀吉が没すると、弥八郎は上方にいる家康に呼び出され、側近として家康の天下取りを謀略面で支えることになります。記事冒頭のドラマのシーンも、豊臣政権の実質的トップ(五大老筆頭)として次の天下人の足固めを進める家康と、それを防いで豊臣政権を維持しようとする石田三成ら官僚(奉行)との、暗闘の一幕でした。
伊賀路
弥八郎に対する嫌悪感
しかし徳川の家臣の中には、戦場での目立った武功もないのに重用される弥八郎を、快く思わない者も少なくありません。その一人が大久保忠世の弟で、『三河物語』の作者である大久保彦左衛門忠教(ひこざえもんただたか)でした。『三河物語』では、関ヶ原合戦における家康の息子・秀忠(ひでただ)の遅参について、次のように記しています。
「将軍(秀忠)様は宇都宮より出発なさり、中山道(なかせんどう)をお通りになり、攻めのぼられたが、真田昌幸(さなだまさゆき)の城に通りがけに攻撃をしかけた。将軍様はお年が二十二とお若うございましたから、本多佐渡(正信)をつけさせなさって、おともをさせていた。なにかにつけて、他人にまかせず、佐渡ひとりで手配をした。佐渡が真田にだまされて、われこそはといった顔で、数日を送った。(中略)そんなことで、(関ヶ原合戦に)二、三日も遅くお着きになった」
慶長5年、上杉討伐のため関東に下向していた徳川家康と諸大名は、上方で石田三成を中心とする勢力が家康打倒のために挙兵した知らせを受けます。家康は諸大名と相談して上杉討伐を中止し、諸大名を先に西に向かわせた上で、家康は東海道を、息子の秀忠は中山道を、大軍を率いて上方に向かいました。その際、信濃(長野県)上田城の真田昌幸が石田三成方についていたので、家康の命令を受けた秀忠は、中山道から外れて、上田城に攻め寄せます。ところが真田の謀略の前に、秀忠勢は翻弄されて貴重な時間を費やし、また家康が追って出した「急ぎ西に向かえ」という書状が、悪天候の影響で秀忠のもとにうまく届かず、結果、秀忠は天下分け目の決戦に間に合わないという、大失態を犯しました。これについて『三河物語』は、22歳の若き秀忠を補佐する弥八郎が、何事も自分の意のままにふるまい、真田にだまされて数日を無為に過ごした結果、関ヶ原の戦いに遅参することになった、と手厳しく批判しています。
さらに『三河物語』は、「(鷹匠あがりの)佐渡の考えが及ぶのは、はやぶさの使い方までで、合戦の経験は生涯に一度もなかった」。にもかかわらず、「佐渡は『わたしのやり方がまずかった』とはいわずに、のちのち素知らぬ顔をしていたが、すべては佐渡の指揮のまずさが原因だった。なにしろ佐渡は老練なふりをして『繰引(くりびき)』を行い、他の将の失笑を買ったのだ」と記します。これは秀忠勢が真田の挑発に乗って攻めかかったものの、反撃を受けて惨敗。撤退する際に、本隊を無事に逃がすために別働隊が敵の追撃を防ぐ、「繰引」という戦術を弥八郎が用いたことを指しています。『三河物語』を記した大久保忠教は、ろくな武功もない弥八郎が、繰引などを指示して得意げな顔をするなど、笑止千万と切り捨てました。弥八郎に対する嫌悪感が見え隠れしますが、大久保忠教と同じような印象を、武功第一と考える三河武士たちが抱いていたことは事実だったようです。
弥八郎や秀忠を翻弄した真田の上田城
オンリーワンの家臣
典型的な三河武士たちの評価とは裏腹に、家康は弥八郎を重用しました。家康は弥八郎をまるで「朋友」のように扱い、秀忠は長者として重んじたといいます。
関ヶ原の戦いの3年後、家康は征夷大将軍に就任し、江戸に幕府を開きました。さらに2年後、家康は将軍職を息子の秀忠に譲り、自らは大御所となって、駿府城(静岡市)に移ります。その際、弥八郎は家康の側近を離れて将軍秀忠の側近となり、引き続き江戸で幕府政治を補佐しました。一方、家康の側近には、弥八郎の長男・正純(まさずみ)がついて、本多親子で大御所と将軍を補佐したのです。戦国乱世から泰平の世へと変化する中で、必要とされる人材も戦場の勇者から、治政に長けた官僚へと変わっていったと見るべきなのでしょう。
面白い話があります。家康が意見を言った際、弥八郎も同意する場合は「よく候(そうろう)、よく候」と大いにほめますが、同意できない場合は、弥八郎は寝たふりをしたといいます。そのときにはムカッとした家康も声を荒げて、「やあ佐渡、どうじゃ」と重ねて問いますが、すると目を開けた弥八郎は「大殿よ、以前、それがしが申したことをお忘れなく」と言うと、家康はしばらく考え、意見を撤回することもありました。それだけ、遠慮なく相談できる間柄であったことがうかがえます。
元和2年(1616)4月、徳川家康が生涯を閉じると、弥八郎は家督を正純に譲って隠居し、2ヵ月後の6月、家康の跡を追うように死去します。享年79。
弥八郎は死に臨み、将軍秀忠に対し、「もし、それがしのご奉公をお忘れにならず、わが子孫が絶えぬことをご配慮いただけるのであれば、愚息正純の所領を今のままにしておいてくださいませ。どうかこれ以上、多く賜りませんように」と頼みました。父親が息子の所領を増やさないでほしいと言うのはおかしな話ですが、官僚の正純が多くの所領を得れば、必ずそれを快く思わない者によって失脚させられる危険のあることを、弥八郎は冷静に読んでいました。ところが弥八郎の死後、加増を受けた正純は、弥八郎が心配した通り、御家お取りつぶしとなってしまいます。人の心の機微を知る父と、そうでなかった息子の差だったのでしょうか。
とはいえ、戦場での武功を無上のものとする三河武士の中で、智謀面で家康を支えた弥八郎の存在は、家康の天下取りと幕府政治の基礎固めにおいて、なくてはならない存在だったといえます。特に同僚に嫌われていることも承知のうえで、自らの能力を活かして家康を天下人に押し上げた点は、一度主家を離れて苦労をしながら、自分のやるべきことを見極めた結果であったと想像してよいでしょう。そうした意味で弥八郎は、徳川家臣団の中でもオンリーワンの光を放つ存在といえるのかもしれません。
江戸城
参考文献:『寛政重修諸家譜』第四輯(國民圖書)、大久保彦左衛門『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)、新井白石『新編 藩翰譜』第五巻(新人物往来社)、煎本増夫『徳川家康家臣団の事典』(東京堂出版)他