藤原惟規(ふじわらののぶのり)は、平安時代に『源氏物語』を執筆した紫式部の同母弟(生年がはっきりとしておらず、兄という説もあります)。2024年の大河ドラマ『光る君へ』では、高杉真宙さんが演じます。
姉の紫式部が「陰キャ」といわれた一方で、弟の惟規はとても朗らかないわゆる「陽キャ」だったよう。その人となりがうかがえる「夜這いでの失敗」エピソードをご紹介します。
弟は勉強がイマイチで……『紫式部日記』より
紫式部は『源氏物語』が宮中で評判になってからも目立つことを好まず、漢学の才があることを隠して「漢字の一すらかけないふりをしていた」といいます。でも、日記を書くときには肩の力を抜いていたのでしょう。
式部丞(しきぶのじょう、惟規のこと)が漢籍を読むのにモタついたり、忘れてしまったりしている横で、私のほうが先に覚えてしまうので、学問に熱心な父はお前が男だったらといつも悔しがっていました……
(『紫式部日記』より)
漢籍というのは中国大陸で書かれた書物のことで、紫式部と惟規の父である藤原為時(ふじわらのためとき)は、大学で漢籍を学んだ学者でもありました。紫式部も父のもとで、当時の女性としては珍しい漢文を読む力を身につけていたのです。
しかし弟の惟規も、決して才能あふれる姉の影に隠れてばかりいたわけではありません。紫式部が弟を式部丞という役職で呼んでいることから、姉弟の父が一時つとめていたこともある、式部省の役人になっていたことが分かります。
惟規が30代だったと思われる寛弘4(1007)年には、兵部丞(ひょうぶのじょう)と天皇の秘書役である蔵人(くろうど)を兼任していたという記録もあり、その2年後には式部丞と、わりと仕事のデキる男だったようです。
和歌の才能もあり、『後拾遺和歌集』などの勅撰集には惟規の歌が10首、収録されています。
神社に夜這いで大ピンチ!?
平安時代後期にまとめられた説話集『今昔物語集』には、惟規がとある女性を口説こうとして局(つぼね/部屋のこと)に忍び込み、警固の侍に見とがめられるというエピソードが収録されています。
惟規が口説き落とそうとしていたのは、賀茂神社の斎院(さいいん)に仕える女房でした。斎院とは精進潔斎して祭祀を執り行う神職で、未婚の皇族女性がつとめるのが慣例でした。斎院の侍女が目当てとはいえ、惟規も大それたところに夜這いをかけたものです。
警固の侍たちは門をすべて閉ざし、隠れている惟規をあぶり出そうとしました。その騒ぎに恐れをなした女房が斎院に「自分のところに来た男だ」と打ち明けて、惟規はひとまずピンチを切り抜け穏便に門から追い出されたようです。
その帰り際に和歌を詠んでいったというのですから、さすが紫式部の弟というべきでしょうか。けっこういい性格をしていますよね。
そのときの歌というのが、こちらです。
「神垣(かみがき)は 木の丸殿(まろどの)にあらねども 名のりをせぬは 人とがめけり」
そのまま読んでもなんのこっちゃ、意味が分かりません。
「本歌取り」で文壇の女王に褒められる
神垣とは、神社の周囲に張り巡らされた垣根のことで、ここからが神域と示すものです。
「ここは木の丸殿ではなく神社だけれど、きちんと名のらなかったので、とがめられてしまったなあ」的な意味が込められているこの歌は、天智天皇が詠んだ「朝倉や 木の丸殿に 我がおれば 名のりをしつつ 行くは誰(た)が子ぞ」を本歌(ほんか)としています。
天智天皇がまだ中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と呼ばれていた皇太子時代、筑前(現在の福岡県北西部)の朝倉という場所に建てられた木の丸殿(丸木でつくられた仮の御所)で、母である斉明天皇の喪に服していた時期がありました。丸木の質素な宮殿だったので、皇子は用心のために、出入りする者全員に名のらせていたのだそうです。
こうした「本歌取り」と呼ばれるアレンジは、もともとの教養がなくては、繰り出すことができません。
惟規の歌を聞いた斎院は「木の丸殿とは、皇女である私がよく聞き知っていることを題材にしたのね」と感心し、このエピソードは「藤原惟規という人は、たいそう和歌に優れていたそうだ」という誉め言葉で締めくくられています。
実はこの時の斎院というのが、村上天皇の皇女にあたる選子(せんし)内親王。円融天皇の御代だった天延3(975)年に斎院となってから、後一条天皇の御代となる長元5(1031)年まで57年間もつとめ、大斎院と呼ばれた女性です。選子内親王は文芸に造詣が深く、才媛の女房たちをそろえて、一条天皇の中宮・定子たちが開いた後宮サロンにも劣らない大斎院サロンを開きました。
その斎院から和歌を褒められるというのは、夜這いが見つかって賀茂神社に閉じ込められるという不祥事も帳消しになるほどのことだったのですね。和歌がうまいって、平安時代にはものすごく役立つチートな能力だったと分かります。
死の床でいじわるな僧に言い返す
さて、『今昔物語』にはもう一つ惟規にまつわるエピソードが収録されています。それは寛弘8(1011)年、父・為時が60代で越前守に再任され、現在の福井県北部に滞在していたときのこと。
高齢の父親を心配した惟規は、自分も越前へと向かいますが、その途中で重い病気になってしまいました。なんとか越前まで辿り着いたものの、助かる見込みはなさそうです。為時はせめて息子が安らかに最期を迎えられるようにと、高僧を呼びました。
高僧は瀕死の惟規に念仏を唱えさせようと「地獄の苦しみが目前に迫ってきましたぞ」と耳元で恐ろしいことをささやきます。そして、「亡くなった後、次の生が決まるまでを中有(ちゅうゆう)といって、鳥も獣もいないはるかな荒野を一人でさまようのですよ、その心細さがどんなものか想像してみなさい」と続けました。
惟規は息も絶え絶えながらに「中有の旅では、嵐のように舞い散る紅葉や、風にたなびく尾花(すすき)などは見られないのですか。尾花の下から虫の声でも聞こえてくれば、一人きりでも心が慰められるのですが」と聞き返しました。
死出の旅にも風の音や虫の声を求める文人魂。でも高僧は惟規の返事に呆れ、『今昔物語集』にも「このように仏教を軽んじるのは良くない」と書かれてしまいました。
惟規が亡くなる前に詠んだ和歌は、賀茂神社の斎院に仕える恋人に宛てたものだったと、『御拾遺和歌集』には記されています。
「都にも 恋しき人の あまたあれば なほこのたびは いかむとぞ思ふ」
まだ40歳になるかどうかという男盛り。死後の世界へ旅立つにはまだ早く、心残りが沢山あったことでしょう。
心根が明るく、親孝行だった惟規のことです。うっかり道を間違えて、閻魔様の前に迷い込んでしまったとしても、きっと上手な和歌のひとつも詠んで切り抜けるに違いありません。
アイキャッチ:「源氏五十四帖 十 榊」著:尾形月耕 出典:国立国会図書館デジタルコレクションより、一部をトリミング
参考書籍:
『日本古典文学全集 紫式部日記』(小学館)
『日本古典文学全集 今昔物語集』(小学館)
『東洋文庫 今昔物語集』(平凡社)
『今昔物語集 本朝世俗篇』(講談社)
『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
『改訂新版 世界大百科事典』(平凡社)