藤原道兼(ふじわらのみちかね)は、平安時代に一条天皇の摂政として権力を握った藤原兼家の3男で、藤原道長の同母兄。粟田殿(あわたどの)という通称で呼ばれます。
2024年の大河ドラマ『光る君へ』では、父に認められようとして汚れ役となる御曹司を、玉置玲央さんが演じています。
▼道兼さんのご両親にも、なかなか個性強めなエピソードが。
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父の権力掌握のために、政変の実行犯となる
『光る君へ』では、暴力的な性格の道兼を心配する母・時姫に対し、父の兼家が「汚れ役にちょうど良い」と言い放つシーンがありました。歴史物語の『大鏡』には、実際に道兼が父の権力掌握のために、政変の実行犯をつとめたというエピソードが残されています。高校古典の教科書にも取り上げられている「花山院の出家」がそれ。
兼家は、次女の詮子(せんし/あきこ)が生んだ孫を天皇の座につけようとして、寛和2(986)年、まだ19歳だった花山天皇を突発的な退位・出家へと誘導する計画を立てました。その実行犯となったのが、蔵人頭(くろうどのとう/天皇の筆頭秘書)をつとめていた道兼だったのです。応和元(961)年生まれの道兼はこのとき、数え年で26歳。
『大鏡』によると内裏を抜け出す際、出家をためらう花山天皇に、道兼は聞く耳を持ちません。「自分も一緒に出家をして、お側に寄り添いますから」と説得して内裏から連れ出しますが、いざ花山天皇が髪を落としてしまうと、「出家前の姿を父に一目見せたい」と立ち去ってしまいます。そこで花山天皇は、騙されたことに気がつきました。
花山天皇が出家なさった夜、外へお出ましになったところ、月がたいそう明るかったので「(出家をするのは)邪魔が入らないかと気が引ける、どうしたらよいだろう」と仰せになりました。「とはいえ、もう取りやめることはできません。(皇位継承のしるしである)神璽と宝剣は、皇太子(一条天皇)のところに移されました」と粟田殿(道兼)が急(せ)き立てました。
(『大鏡』より)
「寛和の変」と呼ばれるこの政変で、兼家は念願だった摂政に就任。道隆・道兼・道長ら、嫡妻(ちゃくさい/正式な妻)の時姫を母に持つ兄弟も、大きく出世を遂げています。
なお、道兼が2男ではなく3男なのは、兼家には時姫のほかにも妻がいて、道隆と道兼の間に別の男子(道綱)がいるからです。
兄よりも自分こそが関白にふさわしい
兼家が孫である一条天皇の即位を急いだのは、病気で自分に残された時間はそう長くないと感じていたからです。兼家が一条天皇即位の4年後、永祚2(990)年に亡くなると、長男の道隆がその後を継いで一条天皇の摂政、関白に就任しました。
道兼は、花山天皇を騙して譲位させるという汚れ役を果たした自分こそが、摂政や関白を譲り受けるべきなのにと、亡くなった父親に恨みをつのらせています。
『大鏡』によると道隆は「御かたちぞ、いと清ら」、気品にあふれた美男子だったようです。娘の定子が一条天皇の中宮となって寵愛され、道隆とその子どもたち「中関白家(なかのかんぱくけ)」は安泰かに思われました。
しかし、たいへんな酒好きだった道隆は、それがたたって長徳元(995)年4月、糖尿病により亡くなります。
夢の関白になるも、7日で病死
「やっと認められる時が来た」
長徳元(995)年5月2日、35歳になった道兼に関白の宣旨が下りました。
関白として初参内する日、道兼とその妻のために供をしたいと集まった人々は、身分の高い者から低い者まで数えきれないほどだったそう。
ところが道兼は内裏で体調を崩し、従者にすがるようにして帰宅すると、そのまま寝込んでしまいます。都では前年から疫病(天然痘)が大流行し、多くの人が命を落としていました。道兼の病状はみるみるうちに重くなっていき、関白就任から7日目の5月8日に息を引き取ってしまうのです。
道兼は悪人だったのか?
『光る君へ』では、道兼が紫式部の母親を刺し殺すというショッキングなシーンがありました。紫式部は確かに幼いころに母親を亡くし、父親のもとで養育されたようですが、母親の死因や、亡くなった詳細な時期は伝えられていません。道兼による刺殺は史実に基づいたことではなく、ドラマのために創作されたエピソード(フィクション)です。
ドラマでは、道兼は弟の道長にいちゃもんをつけては、乱暴を働いていました。実際のところ、二人の仲はどうだったのでしょう。
歴史物語の『栄華物語』には、病に倒れた道兼を、弟の道長が熱心に看病したと記されています。
殿(道兼)が息を引き取ると、左大将殿(道長)は「悪い夢を見ているかのようだ」と申されて、袖で顔を隠された。とても仲の良いご兄弟で、病気がうつるおそれがあっても気にかけずにお世話をなさっていたというのに、悲しいことだ。
前(さきの)関白殿(道隆)が亡くなられた際には、弔問にも行かなかったというけれど……。
(『栄華物語』より)
道長と仲がよくなかったのは長兄の道隆のほうで、道兼とは仲の良い兄弟だったようですね。
もうひとつ、『大鏡』にある道兼が病に倒れた日のエピソードを。
右大臣だった藤原実資(さねすけ)がお祝いに駆けつけてくれたので、道兼は具合が悪いところ無理をして、御簾(みす)を下ろし横になったままで面会しました。実資にぜひとも、伝えたいことがあったのです。
「今まであなたに感謝することが沢山ありましたが、とるに足らない身である間はと、お礼を伝えることもしないままに来てしまいました。こうして関白になったからには、これからは公私につけてお返しをしていきたいと思います……」
野心家の父に認められたくて苦しんだ男の素顔は、存外優しく、誠実なものだったのかもしれません。
アイキャッチ:『つきの百姿 花山寺の月』著:月岡芳年 出典:国立国会図書館デジタルコレクションより、一部をトリミング
参考書籍:
『日本古典文学全集 大鏡』(小学館)
『日本古典文学全集 栄花物語』(小学館)
『日本の古典を読む11 大鏡 栄花物語』(小学館)
『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
『改訂新版 世界大百科事典』(平凡社)