思い込みとはなんと恐ろしいものか。
意気揚々とJR長崎駅を出発したのは15分ほど前のこと。取材対象の情報を頭に入れ、実地検分よろしくご対面の心の準備も完璧だった。
それなのにである。
「ここらへんにあるはずなんやけど……」
地図上では既に目的地に到着しているはずだが、取材対象が一向に見当たらない。
その瞬間。
「ああ。あれか……」と、いつものカメラマン。
既に隣でカメラを構え撮影しようとするのを慌てて阻止した。
「えっ? どこ? ココから見える?」
「見えるも何も正面のすぐ左。駐車場の看板の前」
彼の指差す方向には、大きな商業施設しか見えない。
「?」
「ちょうどビルの谷間」
確かに、隣り合う建物のちょうど境界付近に球体らしきモノが見えた。
「?」「えっ……まさか、あれえ?」「……えええええええ」の三連続。
さて、探していたものはというと。
今回の記事のテーマとなる「大波止(おおはと)の鉄玉」。
「長崎七不思議」の1つとされる歴史的遺物である。「大波止」とは長崎の地名で、これまで長い間、長崎港の大波止岸壁に鎮座していたが、昭和61(1986)年に現在の場所(商業施設「夢彩都」の正面玄関付近)に落ち着いた。ちなみに長崎人には「鉄砲玉(てっぽんたま)」の名で古くから親しまれており、平成19(2007)年には長崎市の有形文化財に指定されている。
そんな「大波止の鉄玉」だが、じつは、由来がはっきりしない。
いつ頃造られたのか、いや、そもそも日本で造られたのか、異国から来たのか。何のために造られたのか。浮かぶ疑問は数えればキリがない。それなのに、鉄玉にまつわる明確な記録は、ほぼ残されていないのだ。
──いつ、誰が、何のために?
今回は「大波止の鉄玉」にまつわる謎、その正体にググっと迫りたい。
「鉄玉」はいつ現れた?
長崎には「長崎七不思議」という俗謡がある。
長崎の風景、地名、名物にまつわる「不思議」を7つ挙げた内容で、昭和45(1970)年にはレコード化までされている。コチラがその歌詞だ。
寺もないのに大徳寺
平地のところを丸山と
古いお宮を若宮と
桜もないのに桜馬場
北にあるのを西山と
大波止に丸(たま)はあれども大砲なし
シャンと立ったる松を下り松とは
是で七不思議
(宮川密義著「長崎は歌とともに (新長崎郷土シリーズ 第3巻)」より一部抜粋)
どれもこれも、地名や名前と実際の風景が合わないモノばかりだ。その一節に登場するのが「大波止の鉄玉」である。
「大波止に丸(たま)はあれども大砲なし」
つまり、鉄砲玉なのに、発射する大砲がないじゃないか。そんな意味合いで歌われたのだろう。
さて、コチラの「鉄玉」。
一体、いつから長崎に存在していたのだろうか。
カギとなるのが、江戸時代の版画や絵図である。
そのうちの1つ、神戸市立博物館が所蔵する「アメリカ人上陸之図」。
国旗を掲揚したり、犬を連れながら上陸するアメリカ人の様子が描かれた長崎版画である。注目すべきは、左端に大きな球体が描かれているコト。「大波戸テッポウ玉」と記されている。18世紀後期〜19世紀中期の作品であるから、同時期には既に長崎の港に「鉄玉」は存在していたことになる。
また、江戸時代中期の郷土史家、田辺茂啓(たなべもけい)が編纂した「長崎実録大成」の中でも「鉄玉」の存在を確認することができる。長崎聖堂の書記役でもあった彼は、30年ほどの歳月をかけ「長崎実録大成」を編纂。宝暦10(1760)年に長崎奉行に献上している。
その中にあるのが、コチラの「大波戸圖(おおはとず)」だ。
確かに、図の右下に「鉄玉」という名で描かれている球体がある。これが「大波止の鉄玉」だろう。当時も江戸町付近にあったようで、台座らしきモノの上に置かれている。
そして、遡ること100年ほど。
現時点で「鉄玉」の存在が確認できる最古の絵図とされるのが「長崎鳥瞰図屏風(ながさきちょうかんずびょうぶ)」だ。市中の町家や寺社など長崎の市街地が丁寧に描かれており、「鉄玉」についても、地面に直接置かれた石ころのような姿が、辛うじて「江戸町」付近に確認できる。
この「長崎鳥瞰図屏風」だが、筆者不詳で、制作年も具体的には特定できない。
所蔵する神戸市立博物館の解説によれば、描かれている「諏訪大社」には石段と大門があり、これらは延宝8(1680)年の完成のものだとか。他方、元禄2(1689)年に完成した「唐人屋敷」は描かれておらず、また寛永11(1634)年にかけられた「眼鏡橋」など中島川の石橋群の姿もない。そのため年代的に矛盾があり、制作年を幅広く「17世紀後半」と結論付けている。
「鉄玉」は遅くとも17世紀後半には存在していたといえそうだ。
一方で、有形文化財に指定した長崎市は、別の角度から推測する。
鉄玉の製作年については、長崎の鋳物師(いもじ)の阿(安)山(あやま)一族が盛んに活躍し、大きな梵鐘などを手がけた17世紀中頃と推測される
(長崎市ホームページより一部抜粋)
「長崎鳥瞰図屏風」が描かれた当時、大きな梵鐘などを手掛けて活躍していたのは、長崎の鋳物師、阿山一族であった。そのため、鉄玉も同じく制作したのではないかとの結論に至ったという。
どちらにせよ、17世紀中頃から後半あたりで「鉄玉」は存在していた可能性が高い。
「鉄玉」は、相当長い間、長崎を見守っていたようだ。
いざ「鉄玉」とご対面!
それでは、ここまで多少引っ張り過ぎたきらいがあるが、早速、実物をご覧頂こう。
コチラが長崎七不思議の1つ、「大波止の鉄玉」である。
本来なら信号を渡る手前からのショットで、冒頭の私の気持ちを追体験してもらいたかったのだが。車と通行人の兼ね合いもあり、コチラが一番引きの画像となる。
「鉄玉」といわれるだけあって、そのまんま。「鉄の玉」である。
長崎市の文化財の資料によると、全周約175㎝、短径約52㎝、長径約55.7㎝だとされている。移設の際には重量も計測、重さは560kgだとか。
正直なところ、私が最初に見た感想は……。
「ち、ちっさ」
言い訳になるが、当時の資料などで鉄玉を把握していたからか、脳が勝手に「想像の産物=ありえないほどでかい鉄の玉」を創り出していたようだ。そりゃあ、江戸時代であれば、これほどの鉄の塊は珍しいに決まってる。騒がれるだろうし、噂にもなる。その感覚を引きずっていたため、遠目であってもすぐに分かるはずと信じ込んでしまったのだ。
だが、頭を冷やして。
物理的に直径の長さから判断すれば、当然ながらこの大きさが妥当だろう。江戸時代とは違い、周辺にビルが立ち並ぶ現代では、余計に小さく感じてしまうのも無理もない。
それでも近付いてみると、「鉄玉」の思わぬ質量を感じることができる。
表面はかなり錆びており、歴史を感じるというよりも、とにかく「金属」の質感がハンパない。使用目的があったのか、それとも飾りなのか。仮にオブジェだったとしても、何を表しているのか想像するのも難しい。
だからこそ、次の疑問が湧いてくる。
「大波止の鉄玉」は、一体、何のために造られたのか。
その存在意義、目的がかなり気になるのである。
「誰が何のために……」という素朴な疑問
古くは「大波止の鉄砲玉」と親しまれていた「鉄玉」。
実際に、長崎市の指定有形文化財の表記には「鉄玉」と併記されて、「別名 鉄砲玉」との言葉も残されている。
他にも「長崎実録大成」では「鉄之石火矢玉」、他の資料では「鉄丸」などの言葉も記されていたが、全体的にみれば「鉄砲玉」「鉄砲丸」など、やはり「鉄砲」という言葉が目立つ。
一体、どうして「鉄玉」は「鉄砲の玉」と思われていたのか。
これには理由がある。
寛政4(1792)年完成の長崎市中の地誌「長崎港草」や「長崎名勝図会」など当時の書物には、「鉄玉」がとある事件のために造られたと、共通して書かれているからだ。
その事件とは……。
この鉄玉が「島原の乱」の戦局を打開するための秘策だったというのである。
これには驚いた。
ここでまさか、あの歴史的事件が出てくるとは。
寛永14(1637)年に起こった「島原の乱」、現在では「天草・島原一揆」と表記される一揆である。
肥前国(現在の佐賀県、長崎県)「島原」と肥後国(現在の熊本県)「天草」で起こった一揆で、益田四郎時貞(天草四郎)を総大将に最後は原城での籠城戦へと発展、悲惨な結末を迎えている。
確かに「長崎」という地理的側面は符号する。
それに、一揆勢は3ヵ月ほど籠城しており膠着状態だった。だから、秘策が必要だったのも頷ける。
それでも、この「鉄玉」をどのように使うのか。
ちなみに、書物によりそれぞれ詳細は異なるも、共通している大まかな内容はというと。
唐通事(中国語の通訳)の頴川(えがわ)官兵衛からもたらされた情報で、中国の軍術書にあった方法だというコト。石火矢(大砲のこと)を造ったというコト。また、城ぎわに穴を掘り、そこに石火矢を入れ火薬を用いて発射する予定が、穴を掘り進めているうちになぜか相手にバレてしまったコト。結果、城側からも穴を掘られ、その穴に糞水を流されたため役に立たなくなり、鉄玉は持って帰って来たというコト。
鉄玉のお持ち帰りは記されているが、造った大砲がどうなったかは全く触れられていない。不可解というより、なんだか中途半端な内容だ。それにもうツッコミどころが多過ぎて、いっそこのままスルーしたいくらいの気分である。
壮大な計画があったようだが、まずもってその実効性が甚だ疑わしい。そもそも城ぎわまで穴を掘ったのならば、直接火薬を使って爆破させる方がさぞ効率的だろう。560㎏もの鉄玉をえっちらおっちら移動させている時点でアウトだし、一揆勢にバレて掘った穴をダメにされるので完全なるツーアウト。まあ、この話もどこまでが真実かは分からない。
「長崎実録大成」を編纂した田辺茂啓も否定的だ。訳された内容を一部抜粋しよう。
右の鉄玉のことは多くの旧記に何も書いてない。俗説では、南蛮人が自国の威武を誇示するために、日本に持ち渡ったとか、日本が南蛮船を撃沈する準備のために作ったとかいう。あるいはまた別の説では、島原の乱で一揆が籠城したとき、現地で土中に穴を掘り抜き、煙硝数百斤を以ってこの玉を打ち出す計画で鋳造したという。これらの説は、何れも虚蕩(きょとう、うそでたらめ)ニシテ信用成り難シ
(丹羽漢吉著「長崎おもしろ草 第2巻 史談切り抜き帳」より一部抜粋)
そもそも「長崎実録大成」を編纂した田辺茂啓は、まさに江戸時代の人。
当時、長崎奉行所の記録などを参考に考察しても、「大波止の鉄玉」が造られた目的が分からなかった。その数百年後の現在に、そんなあっさりと分かるワケがない。
なお、「鉄玉」の中は空洞である可能性が高く、中に火薬を詰め込むための入口となる小さな穴もない。
そのため、今では「鉄砲玉」の可能性は低いというのが一般的な見方である。長崎市有形文化財に指定される際に「鉄玉」と明記されたのも、このような経緯からである。
ただ、「鉄砲玉」でなければ、一体「鉄玉」は何なのだ。そんな疑問は宙に浮かんだまま。結局、振り出しに戻ってしまったのである。
分からないには、分からないなりの理由が存在する。
そう納得するしかない。
最後に
いっそこのまま煙に巻き、記事を終わってしまおうとも思ったが。
さすがにダイソン、このオチでは納得できない。
「正体に迫る」などと煽っておいて、ただの釣り広告やないかと反省した。
そんなところに飛び込んできたというか、発見したのが長崎新聞社のとある記事である。
平成29(2017)年5月30日の記事で、タイトルは『砲弾かお供え物か? 無人島「神楽島」で謎の鉄球発見 長崎市文化財課 用途を検証中』
どうやら長崎市の「神楽島(かぐらじま)」で、直系18.8㎝、重さ26㎏の鉄球が見つかったというのである。
謎の鉄球?
まさか、ニュー鉄玉かっ?
神楽島は、長崎市式見沖に浮かぶ無人島だ。3~4世紀に神功皇后が三韓討伐を行い、神楽を舞ったという言い伝えのある島で、謎の鉄球はその浜辺で発見されたとか。発見者の話では、鉄球の背後に表面の削れた山があり、土砂崩れが起きて浜に転がってきたのではと思い拾ったようだ。
長崎新聞の記事によると、調査を担当した長崎市役所文化財課の見解は、鉄球は一般の砲弾と比して大きく、火薬を詰める空洞部もないため、砲弾とは考えにくいとのこと。状態からして漂流物でもなく、船の重りの鎖を掛ける穴も見当たらないため、神楽島にあった神社にまつわるものだと推測している。
というのも、コチラの神楽島、3つの山(大岩)に分かれているが、そのうちの1つである「飯盛岳」には、かつて神社があったとか。とすれば、神社関連のモノだと考えるのも不思議ではない。お供え物なのか、はたまはそれ以外の用途で使われたのか。新たに宗教的な関連性を見出せる可能性もありそうだ。
だとしたら「大波止の鉄玉」も……。
まさか、宗教的な関連性が……。
おっと。発見されたのが7年前ということは、あれから調査が進んでさらに新たな発見が……。
そんな淡い期待を抱いて長崎市役所文化財課に問い合わせをしたが、「現地調査などをした結果、発見された場所との関連が見つけることができていません。そのため不明ということになります」という簡潔な返信。
分かってた。分かってたよ。
うーん。でも、やっぱりないか。
結局、新しい謎を呼んだだけなのか。
先までの勢いはどこへやら。大口を叩いたが、やはり「大波止の鉄玉」の正体は掴めなかったと猛反省したのである。
ただ、この記事を書き上げた3日後。じつは、思い直してラストの文章を変えた。
「謎」は、本当に解明されなければいけないのか。
謎は謎のままで存在したっていいじゃないか。
考えるからこそ、妄想を膨らますからこそ。
その正体は無限大。
解けない謎ほど面白いのである。
参考文献
田辺茂啓編 「長崎志 正編」 長崎文庫刊行会 1928年
丹羽漢吉著「長崎おもしろ草 第2巻 史談切り抜き帳」 長崎文献社 1977年4月
歌川竜平著 長崎郷土物語(下巻) 歴史図書社 1979年7月
宮川密義著 「長崎は歌とともに (新長崎郷土シリーズ 第3巻)」 長崎文献社 1987年3月
長崎歴史文化協会編 「ながさきの空 第19集」 十八銀行 2008年1月
植松有希、印田由貴子編 「長崎版画と異国の面影」 板橋区立美術館 2017年2月
基本情報
名称:大波止の鉄玉(別名 鉄砲玉)
住所:長崎市元船町10番
公式webサイト:https://www.city.nagasaki.lg.jp/shimin/190001/192001/p000658.html