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温泉入るのに掟あり?「豊臣秀吉塚崎温泉掟書」の内容が至極真っ当すぎた件
通りを進むと。
かなり遠く、どん突きに赤と白の建物が見えてきた。
どっしりとした造りの白いアーチ。その上にあるのは鮮やかな朱塗りの建物。「楼門」だ。
朝陽に照らされ、少しばかり神々しい。
なるほど、確かにシルエットは「竜宮城」のようである。広がる群青色の空に朱色の門が際立つ。恐らく海の中であれば、もっと映えるだろう。もちろん、件の幻の城を見たことがないから、全くの想像でしかない。
ただ調べてみると、楼門の形式の1つに「竜宮造り」や「竜宮門形式」という名称が実在することを知った。山口県下関市の「赤間神宮の水天門」などがその一例である。
そして、今回訪れたこの楼門も。
下から見上げると、その迫力は数倍増し。
機会があれば、是非とも竜宮城のようなコチラの楼門を一度は通り抜けていただきたいものである。
それでは、そろそろ、今回の取材テーマを明すことにしよう。
九州には数多くの温泉地があるが、訪れたのは、博多から特急列車で1時間の距離にある佐賀県の「武雄(たけお)温泉」。奈良時代に編纂された「肥前国風土記(ひぜんこくふどき)」にも登場するほど、じつに長い歴史がある温泉だ。
ただ、今回の取材テーマは温泉とは別のモノ。
先ほどからご紹介している、温泉の入口にあって武雄温泉の象徴ともいえる「武雄温泉楼門」。コチラが今回の「取材対象」である。
なんでも楼門を見るために、全国からわざわざ武雄まで足を運ぶ方もいるほどだとか。
それもそのはず。じつは、この武雄温泉楼門を設計したのは、佐賀県出身の建築家「辰野金吾(たつのきんご)」。日本近代建築の父と称され、日本銀行本店や東京駅など日本を代表する建物を設計した人物である。そんな彼が関わっていたとなると、やはり一目見たいと思うのは当然のコトだろう。
だが、理由はそれだけではない。
十数年前から、さらに注目されるようになった「特別な理由」があるのだ。
それはというと。
まさかの遠く離れた「東京駅」との繋がりである。
これは、一体、どういう意味なのか。
その謎を解くために、今回はコチラの武雄温泉楼門に潜入しようというワケである。
毎回ながら、謎は本当に解けるのか。
それでは、早速、ご紹介しよう。
いざ、武雄温泉楼門の内部に潜入
「潜入って……また大袈裟な……」
呆れたカメラマンを横目に、とっとと2名分の料金を払う。
ええ、ええ。
「潜入」とは、確かに言い過ぎである。
じつは、朝の1時間だけ有料の「見学会」が開催されているのだ。なんでも、ボランティアガイドの方の説明を聞きながら、武雄温泉楼門の内部を鑑賞できるという。この1時間以外は一般公開されていない。
「だいそん、新年からまたムチャして大丈夫なの?」とご心配された方。気持ち的には潜入のように大胆にという意味くらいで捉えていただきたい。
武雄温泉楼門は木造2階建ての門で、高さは12.5m、建築面積は119.96㎡。つい「楼門」という名称だから門だけかと思ったが。よく見ると、楼門の両側には翼屋がついている。この翼屋では、かつて土産屋と食堂が営業されていたとか。
中に入ると、左手すぐに傾斜のきつい階段がある。
そろりそろりと上がっていく。白い壁に赤い柱で統一されているからか、神社のような印象を受ける。実際に神社の建築のように、釘を一切使わず木を組む工法だという。
2階部分に足を踏み入れると、これまた意外に狭くて驚いた。ちょうどこの真下が、武雄温泉に来た人たちが行き交う通路というコトか。
「夜になるとライトアップして綺麗なんですよ。屋根の赤い柱とかが照らされて、それはもう暖かい感じになります。あっちとまた違って。向こうはね、(建物の)中のライトがつくから建物全体がランタンみたい。ここ(楼門)は外から屋根の方をライトアップするんです」
ボランティアガイドの方の説明で、あっちと指をさされた方向をみると、真向いにこれまた雰囲気の異なる建物が見えた。楼門と同時期に建てられたという「武雄温泉新館」だ。建築面積は409.53㎡、1部2階建ての木造建築で、かつて賑わった大浴場や休憩室の和室などが残されており、自由に見学できる。
楼門とは全体的に色合いや細部の意匠も異なる。桟瓦葺(さんかわらぶき)屋根には特徴的なデザインが施され、和風建築であるにもかかわらず、モダンな印象を受ける。
この2棟の「武雄温泉新館及び楼門」は、平成17(2005)年に国の重要文化財に指定された。なお、文化庁の国指定文化財等データベースには、以下のような説明がある。
武雄温泉新館及び楼門は,伝統的な和風意匠を基調としつつ,細部意匠や架構等に新しい試みがみられ,高い価値がある。当時の建築界をリードしていた建築家の辰野金吾が関与した数少ない和風建築としても貴重である。
(文化庁の国指定文化財等データベース「国宝・重要文化財(建造物)」より一部抜粋)
じつは、辰野金吾の建築物は圧倒的に洋風建築(西洋建築)が多い。そのため、和風建築自体が珍しいのだ。その上、細部のデザインに和風建築を逸脱するような試みがみられるというから、余計に貴重なのだろう。
それにしても、大正期に建築されたにしては鮮やかな色合いだと思ったが。
平成25(2013)年に大規模な保存修理が行われ、当時の朱色も復原。併せて、天井を横断する黒い木材など耐震強化も施され、現在の姿になったという。
東京駅と繋がっているのはホント?
一通り見たところで。
ボランティアガイドの方に再び声をかけられた。
「『うさぎ』が見えますか?」
促されて、真上を見ると。
ふむ。確かに丸まった感じの「うさぎ」の姿が確認できる。
じつは、楼門の2階部分の天井には、ちょっとした仕掛けがあるという。天井の四隅にだけ、干支の動物が彫られた杉板がはめられているのだ。
「東京駅を設計しました辰野金吾さんがこの楼門も設計しました。四隅にあるのは動物の透かし彫りです」
動物は4種類。
子(ねずみ、北)、卯(うさぎ、東)、午(うま、南)、酉(とり、西)。
これらは実際の方角通りに配置されているという。動物たちは少し丸みを帯びたタッチで彫られ、どちらかというと可愛らしい印象だ。
天井にあるからか、「うさぎ」は宙を漂うような雰囲気があり、「うま」は今まさに駆けているが如く躍動感が感じられる。この2つの「うさぎ」や「うま」は、遠目からでも分かる。
ただ、あとの2つは少々難解だ。
透かし彫りの上には格子状の網が張られており、それと相まって、一見すると何の動物か分からない。
まずは「とり」。
「とり」は、恐らく羽根を広げているような恰好なのだろう。どうにも全体のフォルムが把握しづらく、なかなか判別しにくい。それにしても、「うま」や「とり」などは独特の顔つきだ。目が特徴的で、少しばかりユーモラスのある感じを受ける。
「ねずみ」は、さらに複雑だ。
見た瞬間に「ねずみ」だとひらめくのだが、すぐにちょっと待てよと、思考が止まる。上半身はねずみのようだが、下半身がなんだかでっぷりとしていて、もたついている。お腹に袋があるのか、そういえばカンガルーに似てなくもない。
「頭が2つ。子どもみたいなのが背中についてるから、ちょっとデザインが分かりにくいんですよ」
そんな説明を受けて、再度ゆっくりと観察すると。
確かに、お腹ではなく背中だ。背中にねずみの顔がもう1つ見える。子どもねずみだろうか。1匹が、別の1匹のねずみを背負っているような構図なのだろう。事前にどの動物か知らなければ、悩んでしまうレベルである。
さて。
武雄温泉楼門の天井に4つの干支の動物があることが分かったが。
ふーん。そーなんだ。で、話は終わらない。
わざわざボランティアガイドの方が、最初の説明で「東京駅を設計した辰野金吾」と枕詞のように使ったのには理由がある。
それは、JR東京駅丸の内駅舎にも、同様に干支の動物の姿が確認できるからだ。
東京駅の場合はレリーフだ。創建当時と同様に復原されたドーム屋根、その天井近くの内壁に動物のレリーフが8つ飾られている。
それも、どのような動物かというと。
12の干支のうち、東西南北を表す4つを抜いた残り8つの干支の動物。
つまり、東京駅と武雄温泉楼門の2つでちょうど12の干支すべての動物が揃うのだ。そのため、同じ建築家が手掛けた2つの建築物には繋がりがあるのではないかと、一時、世間を騒がせたのである。
「辰野金吾」の人生を振り返る
正確には。
東京駅の干支の方が先に注目が集まった。
遡ること110年ほど前。
東京駅の開業式が行われたのは、大正3(1914)年12月18日。
その後、関東大震災が起きるも、東京駅は頑丈な造りであったため被害なし。
ただ、そんな東京駅も戦火には勝てなかった。
昭和20(1945)年の東京大空襲で、東京駅のドーム屋根と3階部分が焼失。
戦災復旧工事の際に3階部分は撤去され、当初のドーム屋根も八角形の屋根へと姿を変えることに。
周辺の景色が都市開発などで次第に変わっていくなか、東京駅の姿はその後も変わることがなかった。60年もの間、建て替えや解体など様々な意見が出るものの進展はなく、逆に平成15(2003)年、東京駅が国の重要文化財に指定されたのである。
この流れに乗って。
平成19(2007)年から5年もの歳月をかけて、JR東京駅丸の内駅舎の保存、復原工事が行われた。
見事、南北のドーム屋根も創建当時の姿に復原。見上げ部分の内壁のレリーフも、新たな技術を組み合わせて再現された。つまり、創建当時に飾られていた8つの干支の動物が復活したのである。
ここで、1つの疑問が出てくるワケだ。
そもそも東京駅に12の干支がすべて揃わないのはなぜか。どうして東西南北の4つの干支の動物がいないのか。
じつに東京駅の8つの干支は、「解けないミステリー」の1つとして終わるはずだった。
それが、である。
平成25(2013)年4月に発行された日経新聞など複数の新聞記事によると。
丸の内駅舎にある東京ステーションホテルの社員が、同年3月に武雄温泉楼門側に「干支の動物がないか」と問い合わせたところ、楼門側にも干支の動物の透かし彫りがあることが判明したという。それも東京駅になかった4つの干支の動物だったのである。ただ、新聞によっては若干内容が異なる。佐賀新聞は、復原の設計を手掛けたジェイアール東日本建築設計事務所(現:JR東日本建築設計)の社員が、それ以前の時期、復原工事に着工した翌年頃に、楼門を訪ねて確認したという内容である。
どちらにしろ、東京駅側からの問い合わせで、2つの建築物を合わせれば12の干支の動物が揃うことがわかった。
こうして、「東京駅」と「武雄温泉楼門」に繋がりのある可能性が出てきたのである。
注目すべきは、設計した建築家「辰野金吾」に、その意図があったのかというコトだ。
少し長くなるが、「辰野金吾」という人物について触れないワケにはいかないだろう。
なんといっても、最大の謎を解くカギは、彼が握っているのだから。
生まれは佐賀県唐津市。
父は、唐津藩士の姫松倉右衛門(ひめまつくらえもん)。その後、子どもがいなかった叔父の辰野宗安(たつのむねやす)の養子となったため「辰野」姓を名乗ることに。嘉永7(1854)年生まれということは、ちょうど江戸時代末期である。前年は黒船が来航した年だ。いよいよ時代が動く、そんな過渡期特有のエネルギーをひしひしと感じながら、辰野少年は幼少期を過ごすことになる。
明治維新を経て、辰野は唐津藩が新設した洋学校に入校。この学校に英語教師として招かれたのが、同年生まれで後の総理大臣となる高橋是清(たかはしこれきよ)。既にアメリカに渡ったことのある彼の影響を受けたのか、その後の辰野の人生は海外と深くリンクする。
明治6年(1873)年、上京していた辰野は、工部省の工学寮(今の東京大学、工学部)の第1期生の募集を受験。募集人員は40人のところ、危うくビリで合格。
だが、これで終わる男ではない。一心不乱に勉学に励んだ結果、工部大学校造家学科(途中で名称を変更、現在の東京大学建築学科)を首席で卒業。工部大学校時代は、政府が招いたイギリス人の建築技師、ジョサイア・コンドルに師事している。
卒業後はイギリス留学のお達しを受け、明治13(1880)年に渡英。今度は建築家ウィリアム・バージェズの事務所の実地研修生として建築学を学ぶ。バージェスが死去した際は、遺贈金50ポンドを受け取るほど、目をかけられていたという。その後、1年間フランス、イタリアの建築物を見て回ったのち帰国。
帰国した翌年の明治17(1884)年に工部大学校教授となり、明治35(1902)年まで教育者として活躍。
退官後は、明治36(1903)年に東京で「辰野葛西建築事務所」を、その2年後には大阪で「辰野片岡建築事務所」を創立している。民間の建築家として活動し、全国各地に数多くの建築物を世に送り出した。その数は228にも及ぶといわれている。
いうまでもなく建築に人生を捧げた男だったのである。
建築家「辰野金吾」の思惑とは?
「『辰野金吾』さんは『辰野堅固(けんご)』さんって呼ばれてたんですよ」
一瞬、ボランティアガイドの方のダジャレかと思ったが、どうやら彼の人柄を表す有名なエピソードのようだ。
この渾名(あだな)の「堅固」には多くの意味が込められている。
まずは、人格。
入学時とはうって変わって卒業時はトップ。このエピソードだけでも、人一倍自分を律し、かなりの努力家であったことがわかる。厳格な性格で、周囲にも同様に厳格さを求めた。そのため、短気でかなりの癇癪持ちであったともいわれている。
ただ、一方で厳しいだけではなかったようだ。
一度築いた絆は相当堅固なものだった。弟子たちには我が子のように世話を焼き、家族に対しても、親戚まで含めた17人を養っていたとか。長屋に住まわせ学資を与えて就学させた者もいたというから、頼れる親父的な一面も持つのだろう。家族や教え子などのように一度関係を築けば、また違った辰野金吾の愛情に触れられたのかもしれない。
次に、建築物。
辰野金吾の建築物には「辰野式」といわれる共通の特徴がある。イメージするのは赤と白のツートンカラー。東京駅のような赤煉瓦(れんが)と白い石材を帯状に組んだ建物だ。イギリスの古典様式を基に、ゴシック様式など自由に取り入れた洋風建築なのだが、地震大国である日本の特殊性を踏まえて、左右対称で安定感のある仕上がりのものが多い。
その反面、屋根やドームなどのトップは個性的な形状が多く、その存在感は目を引くものがある。どっしりとした堅固な印象を受けつつ、トップには華やかさがあり、その絶妙なバランスが人を魅了してやまないのだろう。
そんな辰野金吾が設計した建築物は、24棟が現存している。
その中には、和風建築の「武雄温泉楼門」、そして洋風建築の「東京駅丸の内駅舎」も含まれる。
武雄温泉楼門は大正3(1914)年11月20日に上棟、大正4(1915)年4月12日に落成式が挙行されている。
一方の東京駅はというと。
設計を依頼されたのは明治36(1903)年12月。当初、ドイツ人鉄道技術者の設計した案があり、それを引き継いでの設計依頼であった。辰野は3案出すものの、日露戦争で一時中断。その後、案も練り直される中、日露戦争の戦勝ムードで駅舎の規模の拡大が決定。これを受けて再考し、ようやく明治40(1907)年5月に3階建ての最終図案が完成している。翌年に起工、大正3(1914)年12月18日に竣工し、盛大な開業式が行われたというワケだ。
確かに、竣工時期も同じ頃である。
それに「干支」を見ても、2つの建築物には繋がりがあるようにも思われる。
偶然にしてはデキすぎた4つと8つの干支の動物。それも動物の重なり合いもなく、合わせてちょうど12の干支が完成する。
だが、ここにきて。
まさかの重要な事実を1つ見逃していることに気付いた。
じつは、武雄温泉の計画は、すべて実現されて終わったワケではない。
本来ならば建設される予定であった「未建設の建物」があるというのである。
それがコチラ。
問題となるのが「佐賀縣武雄温泉場建築圖」という設計図だ。
この設計図には、3つの楼門が描かれている。設計図の左にある楼門が、現在の「武雄温泉楼門」だ。その横には、2つの楼門が確認できる。
つまり、本来ならばあと2つの楼門が建てられる予定だったというコト。そうなると、随分、話は違ってくる。1つの楼門に4つの干支、3つの楼門で12の干支が揃うことになるからだ。
それも設計図によれば、3つの楼門はそれぞれ角度が少しずつズレている。実際の方角に合わせた干支を配置することも可能だろう。武雄温泉だけで12の干支すべてを3つの楼門に分けて飾れたというワケだ。
では、なぜ残り2つの楼門は未建設で終わったのか。
ボランティアガイドの方はこう説明する。
「材料の使い方ですね。例えば天井を見てください。木目がまっすぐなモノばっかりでしょ。お殿様の部屋の天井の造りです。天井横の曲がった木の部分も。これ1本にも大変なお金がかかるそうです。だから(1つの楼門を建てるのにでさえ)もう金がたくさんかかるワケです。こんな立派な建物を3つも予定したわけですが。この小さな温泉に3つ建てる財源があるかっていうと。辰野さんのやり方ですと、ちょっと不足だったワケですね」
一般的に、東京駅にない4つの干支は、辰野の故郷である佐賀県の武雄温泉楼門に入れたという見立てが多い。
だが、ボランティアガイドの方は、逆の見方をする。
「温泉会社の人は、当時、温泉のテーマパークを作りたいということで、大仰な計画を辰野さんと作ったわけです」
色々アイデアもあっただろう。だが、2つの楼門の建築が途絶えてしまう。予定されていた残り8つの干支をどうしたものかと考えたところで、同時期に建設されていた東京駅にレリーフとして飾ったのではないかと。
この説を聞いた時、正直、大きな可能性を見出したと小躍りした。
だが、色々調べてみると、やはり時期が合わない。2つの建物が完成したのは同時期といえるが、東京駅の設計は既にかなり前から着手されていたのだ。時系列で考えてみると、武雄温泉楼門に置けなかった干支を東京駅に反映させた可能性は低いだろう。
膨らんだ期待は急速にしぼんでいく。
こうして、やはり謎を抱えたまま、今回も取材が終了したのである。
取材後記
このまま謎は謎のままで終わる方が……。
ロマンがあって……。
ただ、新年からだいそんの常套句で終わる記事はいかがなものか。そう思い直して推理した。
ここからは、個人的な見解となることをご了承いただきたい。
じつに不可解だ。
最初は、私も2つの建物に繋がりがあると考えた。
しかし、冷静に、そして俯瞰的にこれまでの資料を見直してみると。
どうも結論ありきで物事を見ている気がしてならないのだ。
繋がりが発見された当時の平成25(2013)年4月の新聞記事には、こんな見解が掲載されている。
文化庁は「八角形の天井に十二支を据える際、デザイン的に東西南北を避けたのではないか」と冷静に受け止める
(平成25(2013)年4月18日の西日本新聞の記事より一部抜粋)
JR東日本東京支社によると、駅舎に四種の干支がない理由は、当時の資料や記録がなく謎だった
(平成25(2013)年4月19日の東京新聞の記事より一部抜粋)
まず端的に、2つを繋ぐ関連資料がないのだ。
辰野金吾は、非常に現寸図にこだわりのある建築家として有名だ。東京駅の設計の際にも、400枚もの現寸図を辰野自ら書いていたという。それほどまでに現物に忠実な設計をするのであれば、2つの建築物の繋がりを示す何かしらの資料が残っていてもおかしくはない。だが、そのような資料は見当たらない。
また、東京駅に関していえば。
風水などで縁起の良いとされる八角形のデザインに対し8つの干支だけを入れ、偶然に東西南北の干支の動物を外しても何ら不自然さはないだろう。
武雄温泉楼門に関してもそうだ。元々3つの楼門の計画であったから、4つの干支ずつに分けて入れるつもりだった。だが、結果的に1つの楼門しか完成できず、4つの干支のみが楼門の中に残されたと考えても、おかしくはない。
そもそも東京駅は洋風建築だが、ドーム内には和風をイメージさせるデザインが幾つか見受けられる。それは、8つの干支だけではない。鷲や鳳凰もいる。豊臣秀吉の馬藺後立付兜(ばりんうしろだてつきかぶと)を模した兜のレリーフ、三種の神器を連想させる鏡と剣のレリーフなどもある。
この装飾については、このような証言もある。
辰野葛西建築事務所で、東京駅に携わった松本與作(まつもとよさく)は、「鉄道建築80周年解雇の座談会」の東京駅に関する話題にて、「辰野先生は当時装飾に日本趣味でやるようにと話され、鎧の「しころ」・兜・矢・剣・神鏡などを図案化して彫刻としました」と語っており……
(佐賀県『建築の建築 : 日本の「建築」を築いた唐津の3巨匠』より一部抜粋)
洋風建築だからこそ和風のデザインを。
一方で、武雄温泉楼門は辰野金吾の作品にしては珍しく和風建築だ。であれば、和風建築の中に逆に洋風のデザインをという試みなら分かる。実際、武雄温泉新館には八角形のモダンな屋根も見られる。和風建築だからこそ、洋風のデザインを。
つまり、辰野金吾の「思惑」は、これですべてではないのか。
2つの建築物を繋ぐという「余計な思惑」は、結論ありきで後世が創り出した「幻」。
辰野金吾の遊び心というよりは、偶然の出来事だった。
個人的には、そんな気がしてならないのだ。
残念ながら、そこにロマンはない。
だが、「堅固」という渾名に似合った現実的な結論も、可能性としてはゼロではないだろう。
最後に。
辰野金吾は、生涯の中で3回「万歳」をしたといわれている。
1度目は日露戦争で日本が勝利したとき、2度目は東京駅の設計の依頼がなされたとき。
そして3度目は自身の死の間際だったという。
そんな彼が、あの世で4度目の万歳をしているところを想像してみた。
「東京駅と武雄温泉の繋がりをやっと発見してくれた! 万歳!」なのか。
それとも
「何の関係もない東京駅と武雄温泉に繋がりがあるとは……なんと偶然の一致! 万歳!」なのか。
さて、彼の言葉はどちらだろうか。
あの世で、是非ともご本人に訊いてみたいものである。
写真撮影:大村健太
参考文献
神代雄一郎著『近代建築の黎明 : 明治・大正を建てた人びと』 美術出版社 1963年
佐賀県教育委員会編 『佐賀県の文化財 : 文化財が語りかける佐賀の歴史と文化』 新郷土刊行協会 1986年3月
清水重敦、河上眞理著 『辰野金吾: 1854-1919 (佐賀偉人伝 8)』 佐賀県立佐賀城本丸歴史館 2014年4月
佐々木直樹著 『東京駅100周年東京駅100見聞録』 日本写真企画 2014年12月
清水重敦、河上眞理著 『辰野金吾 (ミネルヴァ日本評伝選)』 ミネルヴァ書房 2015年3月
佐賀県 『建築の建築 : 日本の「建築」を築いた唐津の3巨匠』 佐賀県 2022年9月
基本情報
名称:武雄温泉楼門
住所:武雄市武雄町武雄7425番地
公式webサイト:https://www.takeo-kk.net/sightseeing/001373.php