2025年大河ドラマ『べらぼう』の登場人物・松平定信(まつだいら さだのぶ)は寺田心(てらだ こころ)さんが配役されています。可憐な印象の子役から青年へと成長した心さんが、どのような定信を表現するのか楽しみですね。一般的には「寛政の改革(かんせいのかいかく)」を行った厳格な老中の印象ですが、実は意外な素顔もあったようです。そんな陰影に富んだ定信の人生を追ってみたいと思います。
父の影響を受けて成長
松平定信は、宝暦8(1758)年に田安(たやす)家の徳川宗武(むねたけ)の7男として江戸に生まれました。幼名は賢丸(まさまる)。田安家は、一橋(ひとつばし)家、清水家と合わせて御三卿(ごさんきょう)と呼ばれました。御三卿とは徳川将軍家から分立した3家で、将軍家に後を継ぐ男子がいない場合、将軍候補を送り込む役割を担っていました。宗武は父吉宗※1に似て文武に優れた人物だったので、宗武を9代将軍にと推す声もありましたが、叶いませんでした。結局は病弱だったといわれる吉宗長男の家重が将軍の座につくことで決着したのです。
宗武には7人の息子がいましたが、長男から4男までが夭折。残された3人のうち1人は養子に出されていたので、5男の治察(はるあき)が嫡男に。7男の定信は幼少期より漢学、和歌、絵画を学び聡明さを発揮していました。父の宗武は万葉調歌人として古学を愛した人物だったので、定信もその影響を受けて、国学的な考え方や趣向を受け継いだようです。定信14歳の時に宗武は57歳で亡くなってしまいます。
養子に出されて阻まれた将軍の道
田安家を継いだ治察は病弱だったので、いずれは聡明な定信が当主となり、10代将軍・徳川家治の後継者になるのではと、周囲は期待を寄せていました。ところが、安永3(1774)年3月に定信は幕府の命により、陸奥(むつ)白河藩主松平定邦の養子となることが決まります。定信は17歳の青年で、まさにこれからという時期でした。徳川一門から養子を迎えることで、白河藩の家の格を上げたい定邦の狙いもあったようです。
この養子縁組には複雑な問題が関わっていました。田安家を継いだ兄の治察は、この年の7月病にかかり、翌月に22歳の若さで亡くなっていたのです。治察には子どもがいなかったので、田安家からは定信を戻して相続させる訴えを出しましたが、幕府は認めませんでした。
定邦へ養子に出されることになったのも、田安家の相続を拒絶されたのも、どちらも田沼意次(たぬまおきつぐ)※2の策略だったのではと言われています。意次は成り上がりの自分とは違って、門閥出身で優秀な定信が将軍になることを恐れていたのかもしれません。真相は定かではありませんが、定信は意次によって将軍への道を阻(はば)まれたと理解したようです。
一度はあきらめた治国への野望
こうして実家の田安家へ戻れなかった定信は、天明3(1783)年10月に26歳で松平家の家督を継ぐことになります。ちょうど深刻な飢饉として知られる「天明の大飢饉」の最中でしたが、定信は手腕を発揮。家臣や領民に質素倹約を徹底させるだけでなく、自らも贅沢を禁じ、救い米や塩、味噌の支給など飢饉対策を講じました。また、農民に荒地の開墾による作物の増産を命じるなどして難局を乗り切り、名君としての評価を得ます。
定信は天明5(1785)年に意次に近づき、溜間詰(たまりのまづめ・将軍や老中と政治的な相談をすることもある立場)に準ずる扱いとなります。白河藩にとって破格の処遇でしたが、意次糾弾を考える定信にとっては、これは野望の始まりでしかありませんでした。前年に息子の意知(おきとも)を刃傷(にんじょう)事件で失った意次のダメージは大きく、求心力の低下は防ぎようもない状態でした。財源確保のために打ち出した改革も失敗し、意次の政治的責任を問う声が幕府内から出るようになりました。そして天明6(1786)年8月に、頼みの綱の将軍家治(いえはる)※3が病に倒れて生涯を閉じると、老中辞職を余儀なくされます。意次の失脚を受けて御三家は定信を老中へと推挙しますが、この時は反対派により頓挫してしまいます。
寛政の改革へ! 若き老中として、幕府財政の再建に乗り出す
家治の死を受けて、天明7(1787)年4月に世子の家斉(いえなり)が将軍の座につくことになると、まだ14歳という幼い年齢だったこともあって、老中を誰にするのか激しい政争が繰り広げられました。時を同じくして米価高騰が改善しない事態にいらだった民衆によって、米問屋の居宅や蔵が打ちこわされる騒動が勃発します。打ちこわしによる市中の混乱を知らされていなかった家斉は激怒して、定信の老中起用を反対していた御側御用取次(おそばごようとりつぎ)の家臣を罷免。これによって幕府は一転して定信の老中起用を受け入れ、その首座をつとめることになったのです。
天明7年に30歳の若さで念願の老中首座となった定信は、米価の安定と社会の引き締めを決意して、改革を進めていきます。定信は尊敬していた吉宗にならって、質素倹約に努めると共に、幕府の歳出にも目を光らせます。今まで誰も口出しできなかった大奥の経費も、3分の1に減らすという徹底ぶりでした。自らが模範となるように、江戸城に初登城した時には、木綿と麻の質素な礼服を身につけたそうです。
そのほかには社会政策として寛政元(1789)年、棄捐令(きえんれい)を出して札差(ふださし)※4などの金融業者に借金を重ねて困っている旗本・御家人を救うことにも着手しました。また寛政2(1790)年、隅田川河口の石川島に人足寄場(にんそくよせば)を設置し、無宿人(むしゅくにん・戸籍から外された者)や刑期を終えた者などの自立を支援するために、技術を学ばせました。定信の改革は、主に寛政年間(1789~1801)に行われたことから、後に寛政の改革と呼ばれることになります。
改革を風刺した黄表紙を見過ごせなかった?
定信の改革は、高価な菓子の製造は中止、女性の衣類も豪華な織物や染物は禁止と、民衆の日常生活にまで立ち入って規制を行いました。当初は青年老中の登場を歓迎していた世間も、次第に息苦しさを感じ始めます。「白河の 清きに魚も 棲みかねて もとの濁りの 田沼恋しき」は、社会が乱れていた田沼時代を恋しがる庶民の落首として、よく知られています。
田沼時代の自由な風潮の中で流行した、遊郭を小説の主題とした洒落本(しゃれぼん)や、極彩色(多色刷)を用いた錦絵も、定信は取り締まりの対象としました。黄表紙(きびょうし)※5、狂歌本(きょうかぼん)※6、そして浮世絵の出版にまで手を広げて、版元として成功した蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)は民衆の不満を感じ取ると、黄表紙で改革を茶化す作品を発表します。喝采を浴びてベストセラーとなりますが、定信としては政治を批判する出版物を見過ごすことはできませんでした。幕府の厳しい姿勢を知った執筆者たちは活動を自粛し、中には謎の死を遂げる者まで出る有様でした。重三郎も見せしめとして幕府から処罰を受けることになります。
道半ばで突然の失脚
定信は信念を持って改革を続けましたが、武士から庶民にいたるまで倹約を進め、文化や思想までも統制するやり方に、人々は不満を募らせるようになっていました。そんな中、家斉との対立を生む出来事が起こります。
尊号一件(そんごういっけん)※7と呼ばれる事件が起こった同時期、幕府にも似たような事態が勃発したのです。家斉が父の「一橋治済(ひとつばしはるさだ)」に「大御所(おおごしょ)」の尊称を贈ろうと考えたのです。隠居した将軍の尊称を、将軍に就任していない治済に贈るのは異例のこと。尊号一件のこともあるため、定信としては認めることはできませんでした。このことをきっかけに、定信と家斉は対立するように。そして寛政5(1793)年、家斉より老忠首座の辞職を命ぜられて失脚することとなってしまいます。
政治から離れて力を注いだ文化事業
定信が幕府のトップの座を退いたときは、まだ36歳。長い人生の半ばだった訳ですが、寛政の改革の印象が強いため、後半生についてはあまり知られていないようです。元々幼少期から絵画などに触れていたことから、定信は文化に理解が深く、後生に貴重な資料を残す働きをしました。
文化3(1806)年、定信は『近世職人尽絵詞(きんせいしょくにんづくしえことば)』を製作します。大工、屋根葺職人、畳職人など、職人の風俗のほか、庶民の生活が描かれていて、江戸の職人の実像を知る貴重な資料となっています。上、中、下の三巻で構成され、文章はそれぞれ四方赤良(よものあから・大田南畝)、朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)、山東京伝(さんとうきょうでん)が担当。いずれも寛政の改革では要注意人物の扱いを受け、筆を折ったり、処罰されたりした3人です。この時期の定信は政治には関わっていなかったので、恩讐を越えての協力だったのでしょうか? この作品以外にも、吉原をテーマにした作品の文章を京伝に依頼しています。
定信は53歳の時に長男に家督を譲って、茶会や歌会などを楽しみ、70歳で生涯を終えました。厳しい改革を進めている時も、本心は文化に親しみながら過ごしたいと思っていたのかもしれませんね。
参考書籍:『松平定信の生涯と芸術』磯崎康彦著 ゆまに書房、『蔦屋重三郎』日下部行洋編 平凡社、『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』安藤優一郎著 PHP研究所、『日本大百科全集』小学館、『世界大百科全集』平凡社、『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞出版
アイキャッチ:『南天荘次筆』井上通泰著より 国立国会図書館デジタルコレクション